気に入らない点があるとすれば。俺のことを名前呼びすることに始まり馴れ馴れしいことに始まり多いに多々挙げられないくらいにあるが、俺が一番何より気に入らないのは。
「げんすーい!」
 目の前で満開の花みたいな笑顔で、元帥の中で一番ろくでもないと認識してるクロス・マリアンにあいつが抱きつく瞬間。「お帰りなさいませっ」と抱きつく瞬間。その嬉しそうな顔と言ったら、俺と花を育ててるときや修行をしてるときや俺のことを出迎えるときの笑顔とは全く別格。そう、別格の笑顔を見せて、あいつはクロス・マリアンを出迎える。
 こともあろうに帰還が重なるなんていう奇跡じみたことが起きて、たまたまばったり行き会っておぅとか適当に手を挙げられて、君かいマリアンとうちの元帥が呆れたような諦めたような顔をして。だけど別に帰還ってだけだから普通に道すがら坂を上がるだけだった。会話はない。デイシャがマリに何か言っていたように思うが俺の耳には左から右へそれは流れて出て行った。
 見えていたから。わざわざ本部から出てきてこっちに手を振るあいつが。意識半分くらいをそれに持ってかれていたから。だけど一人じゃなかったしゴーレムもいたし色んな事情が重なって、俺は手を振り返さない。だからあいつの手に応えるのはクロス・マリアンのひらりとしたどうでもよさそうな手振りだけ。それなのに遠目でもあいつが喜んでるのが分かった。分かってしまった。
 だから、俺が一番何より気に入らない点が目の前のこいつにあるとするのなら。クロス・マリアンに抱きついて嬉しそうにしている目の前のこいつが気付いたように俺に目をやって「ユウもお帰り!」と言う、その笑顔とさっきの笑顔の別格さと言ったらない。こいつは気付いていないのか。それともこれは俺の目がどこかおかしくて視界が映すものが歪んでいるとでも? そんなことを一瞬でも考えた自分が馬鹿馬鹿しい。俺の目に映る光景に間違いがあるはずがない。
 だから、目の前のこれは、現実だ。

「ほれ」
「あ、またお土産! どうしたんですか元帥、珍しいですっ」
「別に。将来のお前に期待してるだけだよ」
「はい?」
「マリアン君ねぇ。くんはまだ11だろう。いつの話をしてるんだい」
「固いこと言うなよ。数年なんてあっという間だ」
「元帥、私ここに着てまだ一年とちょっとですよ」
「一年いられりゃ生き残れるだろ。イイ女になるんだぞ
「う。リナリーに勝てる気がしないんですけど、が、頑張ります」

 耳を通り過ぎる会話。声。あいつの声。耳に障る豪快な笑い声。だからかつと無表情に歩み寄って「開門しろ」と門番に言う。いつものようにレントゲン検査を受けていつものようにごごと持ち上がる扉を見つめる。
 俺一人なら。いやクロス・マリアンさえいなかったら。俺の隣にあいつはいるはずだった。だけど今はクロス・マリアンがいた。だから俺の隣には誰もいない。
 それがまるで、俺はあのろくでもない元帥に勝てないのだという事実を突きつけられたようで。それがコートの下の負傷した腕よりもひどくじんじんと痛むんだということを、俺は自分の中で押し殺した。
「ミスティー」
 ぱたぱたと飛び回る赤い竜。それを従えるというよりペットにそうするように接しているあいつが食堂に入ってくる。「おなか空いたねぇ」と。答える竜の「ぎゃう」という声。いつもの朝。蕎麦の方を片付け終えた俺はがたんと席を立った。まだ湯飲みの方に茶が残っていたがそれもトレイごと片付ける。
「ユウ?」
「、」
 名前で呼ばれて。いつからかもう抵抗する気もなくしていた名前呼びの訂正の言葉。じろりと視線をやればきょとんとした顔がそこにある。自分に非はないって顔。ああそうだ分かってる、お前は悪くない。悪いのは、
(じゃあ悪いのは誰だ)
 つかつかと歩いて行って返却口にトレイごと突き返した。そのままくるりと振り返ってつかつかと歩き出す。「あのユウ、」と俺を呼びとめようとするあいつの目には戸惑いの色。それを俺は今日無視した。昨日の事実が頭で甦る。クロス・マリアンはまだ本部に滞在中だろう。なら俺がいなくたってあいつは笑っていられる。笑っていられるんだ。
 だったら。俺があいつのそばにいる必要は少しもない。
 だからつかつかと歩いて行く。そうしたら途中でデイシャに行き会った。「あれ神田じゃん、お前何怖い顔してんの?」と言われてふと自分の表情を気にした。鏡なんて持ってない。あるわけもなかった。だけどふと顔を上げた先には壁に取り付けられた鏡があって、そこに映っている自分はひどく。
 ばしと掌で顔を叩く。「何でもない」と返してつかつかと歩き出した。
 ひどく。鏡に映った自分はひどく醜い顔をしていた。まるで嫉妬でもしているような醜い顔をしていた。無表情が俺の常だ。誰にでもそうやって接してきた。どうせここの奴らはすぐに殉職する。エクソシストだってそれに入らないなんて言えない。だから心を許さないようにすることが己を守ることになる。ここにいる限り独りを確立させなくては。俺は独りであらなくては。
 そんなもの。彼女に会ってからずっと忘れていた。正しくは彼女とあるときはずっと忘れていた。
(…畜生が)
 胸のうちで吐き捨ててくると回転した。デイシャを追い越してづかづか歩いて行く。「お、神田?」と声をかけられたのを無視して食堂に入りいつもみたいにメニュー全部を注文して出来上がるまで待ってるあいつのテーブルまで行く。暇そうにテーブルに頬をくっつけて、その前には赤い鱗の竜が「ぎう」と鳴いて短い手であいつを慰めるみたいに撫でている。
「なんかユウ怒ってたねぇ。私悪いことしたかなぁ」
 だから、その呟きに足が止まって。もう一度踏み出す。様々なものが胸のうちでせめぎ合った。だけど結局勝ったのは彼女の笑顔だった。
「おぃ」
 だから声をかける。あいつが顔を上げて目を丸くして俺を見る。それから今更気付いたように「ユウそれ怪我?」と掠れた声で俺の腕にぐるぐる巻きにされている包帯を示してみせるから「何でもない。もう治る」と返してどかと向かい側に腰かけた。ぱちと瞬きして不思議そうに首を傾げる彼女に、俺は口を開く。
「悪かった」
「…? 何が?」
「聞き流せ。悪かった。謝っとく」
「え? うーん、分かった…?」
 首を傾げる彼女。竜の方がじろとこっちを睨むが黙殺する。それからやってきたデイシャが「おー、だっけ。おは」と片手を挙げて挨拶。「お早うデイシャ」と笑ったその笑顔。それがやっぱりクロス・マリアンに対するあの笑顔とは別格であるという現実を、どうしようもなく突きつけられる。
「デイシャー、デイシャのイノセンスはどんなの?」
「オレ? オレは装備型でボール。サッカーボールみたいなもん。アクマを内部から音波破壊すんだよ」
「へぇ、音波。じゃあちょっとマリに似てるんだね」
「あー、言われればそうかも」
 頭上を通過する会話。「じゃあオレちょっと朝飯頼んでくる」とデイシャが去る。彼女がふと俺に目を向けて首を傾けて手を伸ばした。目にかかるくらいになってきた前髪に触れて「ユウ大丈夫?」と訊かれて「何がだ」と返す。彼女が困ったような顔で笑った。
「なんだかいつものユウじゃないみたい」
「……誰のせいだ」
 ぼそりとそうぼやく。彼女が「え?」と首を傾げたがそれは黙殺した。そのうちにがらがらとジェリーの奴がカートいっぱいの料理を運んできて「お待ちどーんちゃん!」と声を上げる。それで真っ先に料理に食いつくのは竜の方。寄生型はエネルギーの消費が激しいと聞くが、ほんとかどうか。
 彼女にはまた別に「今日はBセットにしてみたの」とジェリーがトレイの方を差し出す。笑った彼女。愛想笑いの部類。「ありがとうございます」と頭を下げる彼女が一番の笑顔を見せるのは、クロス・マリアンといるときだけだ。

 俺は。それが、気に入らない。
 理由は知らない。ただ気に入らないってことだけはよく分かってる。俺には向けられない笑顔。それが嫌だと思う。
 これは何か。俺は薄々気付いてる。だけど認めたくはない。ここでは俺は独りであらなくてはならない。いや、エクソシストはそうでなくては。そうでないとアクマを生む源になりかねない。
 誰にも情をかけるな。絶対に死なない奴にしかそれは抱いてはいけない感情だ。そうでなくては求めてしまう。死んでもなお愚かな行いだと知りながら、心を焦がして占領して止まない誰かを求めてしまう。それでは意味がない。エクソシストとしてここに立つ意味がない。
 アクマを葬るのが俺の仕事。アクマを殺るのが俺の仕事。それだけ。この場所に留まっているのはあの人を見つけるためでもあるけどそれだけだ。それだけ。
 それだけ。そのはず、だ。

「あのねユウ」
「、なんだ」
 思考に没頭していたところから顔を上げる。「お花なんだけどね」と話を振られてああと植木鉢とその他もろもろ世話の類の品を用意してある自分の部屋を振り返った。
 準備は万端ってところまできてる。あとは種だ。問題は花を何にするか。結局図書室で植物図鑑やらその他植物関係の本を彼女と一緒にあさったが、俺は別に何でもよかったし、だからこいつが納得するものでよかった。
 どこからかごそごそと本を取り出した彼女。もそもそとビーフパンか何かを口にしながら付箋をしているページを開いてこっちにやって「これにしようと思うの」と言う。ユーフォルビアと題されたその白い花をつけている写真を視界におさめ「なんでこれなんだ」と訊けば、彼女は笑う。その笑顔に自分の全てがぴしと凍りついたように固まるのが分かる。
 笑顔。クロス・マリアンに向けるあの笑顔とはまた別の種類の。だけど恐らくそれに近い、だけど別物の笑顔。
「ユーフォルビアの花言葉はね、『君にまた会いたい』なんだって。私達エクソシストにはぴったりかなぁと思って」
「……そうか」
 その、笑顔が。直視できなくて。だからそっぽを向いたままそう返したら首を傾けた彼女が「駄目かな」と言うのでぎくと固まる。別に駄目とかそういう態度じゃないんだこれはと胸のうちで言い訳したって肝心の彼女に伝わる、はずもない。
 だから。「別にそれでいい」とぼそぼそ答えるのがそのときの精一杯。ぱっと表情を輝かせた彼女が「じゃあ決まりね! コムイさんに頼んで種取り寄せてもらうから」とにこにこする彼女。いつもの笑顔。俺に向けられるいつもの。
 それにひそりと息を吐く。
 これでいい。多分、今はまだ。誰かに言い訳するように、俺は胸のうちでそうこぼした。