私と彼女の関係についての説明なら、もうすでに不要かと思う。けれどどうやらかなり疑問に思っている者が大多数のようなので、ここで一つきちんと説明しておくことにしよう。

「ミスティー」
 まず一日の始まり。私は彼女と一緒に同じベッドで眠る。シングルのベッドだ。少しアンティーク調のものとでも言えばいいのだろうか。家具や電球なども少しシックな感じに統一されている。
 それから彼女の部屋は少し煙草くさい。無論彼女が吸うわけではない。彼女が元帥と慕うクロス・マリアンの煙草のにおいである。
 私はあの元帥が何を考えているのかいまいち判断しかねる節があり、あの元帥の事はあまり好ましく思っていない。けれど彼女は元帥を好いている。それを知っているから私は露骨に元帥の前で態度を変える事はしないよう心掛けている。
 そんな煙草のにおいが微かに残る部屋でぐっと背伸びをしてから私を抱き上げ、彼女は笑う。「お早う」と。それは私にとっての一日の始まりの合図のような言葉だ。彼女が目を覚まし私を認識し私の名を呼ぶ。そうすることで私は私を改めて認識し、私は私であると考える。
 ぎゃう、と答える声はお早うの意味を込めたもの。
 私が本当にこの意思を伝えようと思ったならば、ここではイノセンスと呼ばれている能力を使えばいい。だけどそれは彼女によって止められている。装備型のイノセンスと異なり寄生型のそれは、その強い力に肉体が侵され続けるために発動すればするほどに寿命が縮む可能性があるという。彼女はそれをなるべく避けたいと言った。
 どのみち寄生型の適合者の寿命は装備型のイノセンスの持ち主と比べて短いのだそうだ。という事をここに来てから説明された。
 けれどそれは人間に限った話。私は人ではない。故に与えられる寿命も人の何十倍とあった。彼女はそれを知らない。だから私の事を案ずる。
 優しい子だ。初めて出会った時からそうだった。

「今日の朝ご飯も全部でいいの?」
「ぎゃう」
「よく食べるねぇ…でもたまには違うもの食べたくない? ジェリーさんに何か新メニューの提案とかしてみようかなぁ」
「ぎう?」
「新しいもの。食べたいでしょう?」
「ぎあ!」

 彼女がくすくすと笑う。私もそれに笑って返す。ドラゴンの顔で笑うというのはなかなかに難しいが誰かのような仏頂面でいるわけにもいくまい。私は彼女の笑顔のためにここにいるのだから。
 私は最早世界で独りきりの獣の王。
 全てを統べるには私はまだ幼く小さな身体だった。人が文明を持ち他の生き物を家畜としその領土を広げつつあった時代。私達が牙を剥けば人は滅んだのやもしれぬ。けれど私達よりも遥かに人を支配する負の正体を、私達は知っていた。
 後に知る、アクマという悪性兵器。悲劇と魔道式ボディに、人の魂。悲劇が生む悲劇。故に私達は距離を取った。人は私達が手を下さずともすでに内からほころびが生じそれがアクマという形となって世界を脅かしつつあった。
 私達は。ドラゴンという種族は。人より強く全てを統べる王であったが故にアクマの標的になった。それは食物連鎖の一番上の生き物を、いやその図式自体を書き換えようという戦争だった。
 戦争だった。戦った。私達はドラゴンだった。鋭い爪に鋭い牙。吐き出す炎は灼熱の業火。鱗は銃弾をも弾く。
 けれど感染する。アクマの攻撃は全てを打ち砕く。悲劇は悲劇を呼ぶ。
 私は独り取り残された。
 いつかに降ってきたのは光。いつ頃の話だったのかはもう憶えていない。私にイノセンスが宿ったのは恐らくその時だという事は分かる。けれどいつ頃の話だったのか、もう憶えてはいない。
 私は独りきりで。人里に下り立ち。アクマに脅かされる事を危惧し結界を張った神殿内に自らこもった。そこにいさえすれば私の時間は止まり眠る事も食べる事もできなくなるが、その代わり私に宿ったその力も私を蝕む事はない。この中にさえいれば私の時間の全ては止まる。その能力も探知されない。安易にそう考えた。
 けれど私が動かずとも外界が動いた。人は流れ流れる生き物だ。私のいる神殿はいつしか立派に立て直され、けれど私のいる部屋だけは相変わらず時が止まったまま、外界だけ時間が通り過ぎ。
 このまま、時間を止めたまま。私は最後のドラゴンとしてどうあるべきかを眠る事のない頭で考えた。
 仇を討つなんて簡単な方法はいくらでも思いついた。私は自分に宿る力の正体に薄々気付いていた。だからこれさえあれば戦う事は可能だろうと思った。ならばこの爪で全てのアクマを引き裂き全てを葬り戦うべきだろうかと考えた。弔い合戦などと辛気臭い話だが、私がここから出たならばそれくらいしか道は残されていないように思ったのだ。
 そうやって自分がどうあるべきかを思案して思案して思案して。考えても考えても堂々巡りで少しも解決しない思考の渦。

 そんな中。ばたばたと足音がした。外界での物音が止んでいた最近としては珍しい音だ。人の走っている音。足音の感覚で分かる、子供の走り方。
 それが近付いてくる。私は顔を上げた。ずっと寝そべっていたせいで自分の身体が埃を被っているのに気付く。思考の海に没頭している間にいくらか時間が過ぎたらしい。そう考えたところでばたんと扉が、開けられる音。
 私は顔を上げた。はぁ、と息を吐いて私を見つめる一人の少女がそこにいる。そうしてばたばたとこのコンパスからすると大人達の足音がして、その少女がはっとした顔でばんと扉を閉めた。
 扉は。封印していた。はずだった。
 自ら施した封印だ。この能力を外へ漏らさないために私が施した。思えばそれはもしかしたら何の力もない人には無力なものなのかもしれない。私は自らの力をこの空間内に閉じ込めた。悪ければその気に当てられる。思考の渦。一瞬何か叫ぼうとした自分がいた。だけど少女のきょとんとした純粋な瞳の前に、私は言葉を失った。
 言葉を失った代わりに。ばさり、と背中の両の小さな翼が広がるのが分かった。
 私は久方ぶりに翼を使って飛び立った。空気をはらんで飛び立った。埃が舞い上がる。私は少女を見つめる。少女は初めて見るであろうドラゴンという生き物である私を怖がるでもなく恐れるでもなく、ただ嬉しそうな顔をした。
 ねぇ、あなたの名前は?
 今でもよく憶えている、彼女の最初の言葉。
 私に名前はなかった。名前をもらう前に私の種族は尽きてしまった。生まれついて間もなかった私に宿った力のおかげで私は生き残った。そしてそのまま時間を止めた。
 私に、名前は、なかった。彼女に出会うまでは自分は自分でしかなかった。自分以外の存在は外の世界。決して交わる事のない外の世界。交わってはいけなかった外の世界。呼び起こしてはいけなかった、イノセンスという力。

 それから私は彼女に名前をもらった。嬉しかった。私には名すらなかった。決断しなくてはならなかった。私は私になった。私はこの籠から飛び立たなくてはならない。
 彼女はそれから私が教えた秘密の抜け道からよくここに来た。私と一緒に時間を過ごした。彼女はよく笑った。私といる事が嬉しそうだった。私は最初こそよく分からなかった。本来ならイノセンスという力の気に当てられていてもおかしくなかったのに、彼女が笑ってそこにいるという事実が。
 彼女が適合者、だったのは。あの宝剣を手に取り私を庇うようにし開かれた扉に向き直ってみせたのは。運命だったのかもしれない。今思えば。
「おはよーユウ!」
 いつものように食堂に顔を出す彼女。彼女がユウと呼ぶ神田という男子。彼女より一つ上の、最初彼女に抜刀してみせた、私が二番目に気に入らない者の名前。
 だけど彼女は同い年ぐらいの神田と親しかった。だから私はそれを否定しない。ただ無言の小競り合いでばちばちと視線だけは交わす。彼女はそれにいつも苦笑してみせる。
 蕎麦という麺を食べ終えた神田はぱちんと箸を置いた。「ああ」とぼやくように返事をする神田が私は気に入らない。クロス・マリアンの次に。
 彼女がいつものようにカウンターに朝ご飯を注文する。

 彼女はよく笑うようになった。私だけにでなく他の誰かにも笑顔を見せるようになった。元帥だけではなく神田だけではなく、エクソシスト仲間や他のサポーターの面々、彼女は誰にでもよく笑うようになった。
 彼女の意思有無には関係なく仕事は入る。任務は入る。彼女は戦う。その理由に私は含まれているだろうか。
 彼女が剣を振るうためにその手を柄にかけた時。その思考の中に私はいるであろうか。私は彼女のために戦う。私は私を救い上げる事となった彼女のために戦う。私の時は動き始めた。もう戻る事はない。私は動く。そのための理由を彼女とする。
 彼女は戦うための理由を何とするのだろう。

「むぐ?」
「任務だ」
「え、ユウと一緒? ほんとに?」
「嘘吐いてどうする。…レベル2絡みらしい。すでに探索部隊の半数が殺られてる。残ってる奴は結界装置でどうにかもってるらしいが時間の問題だろう」
 かつんかつんと食堂を後にしながらの会話。まだ口を詰め込んだパンでもごもごさせながら彼女は「そっか」と笑って私の頭を撫でた。「ごめんねミスティ、急がないといけないみたい。頼める?」という言葉に「ぎゃう」と返す。頷く。彼女に求められたなら私が応えないはずがない。彼女がいて動いた私の時間だ。私は私のためにも彼女のために動く。
 だから、普段なら小さなままの身体を巨大化させる。塔のてっぺんからずんと爪で石畳を踏み『行くぞ』と声をかける。同じ任務だから仕方なく神田の方も背中に乗せてやる。本当なら遠慮したいところだがこの際仕方がない。何より彼女のためだ。普段なら私と彼女だけの出撃が多い。だからきっと彼女は嬉しいのだろう。表情から分かる。それなら私は満足だ。
 ご、と風をはらむ。ばさりと両の翼をはためかせ飛ぶ。「気をつけてね!」という声は屋上に残るリナリーの声。彼女の友達だ。彼女より一つ下。コムイという室長が就任するまでは心を病んで監禁状態で会えず、最近になってようやく得た一人の友達。
 彼女はここでよく笑うようになってきている。リナリーに手を振る彼女。「行ってきまーす!」と笑って手を振る彼女。それに少し呆れたような息を吐く神田。
 私は、彼女が笑うようになってきている事を喜ぶべきだ。彼女はあの街で孤児だった。親などいなかった。同じように独りきりだった。クロス・マリアンに拾われ黒の教団へと赴いた。そこで戦いと同時に様々なものを失い、そして得た。
 私は。彼女の笑う理由が私だけにはないという事など当の昔に分かっている。人間だ。人の貪欲さはよく知っている。だからこそ彼女には私だけではなく他の誰かだって必要だという事もちゃんと。
 だから、私の背に二人分の子供の重さは、別段苦ではない。
 それが戦いの道であろうとも、彼女が笑うのであれば、私にも何の問題もない。
「発動。六幻」
「ドラグヴァンデル」
 どん、と地面に下り立つ。背中からは戦場に立つエクソシストとなった二人の、それでもまだ子供の声。私はばきと爪を変化させた。鋭くこの爪牙を刃のように。
「行くぞ」
「オッケ」
 たん、と地を蹴る二人の背中。それを視界に捉えながら動きやすいサイズに身体を小さくしてばさと翼を閃かせアクマへと突っ込みその身体を貫通して飛び上がった。口の中で炎が暴れる。アクマさえも焼き尽くす炎を溜め込み私に向かってどどどとミサイルを発射するアクマに向かって放つ。
(業火灰塵)
 特別自分の成す事に名前がいるとも思わなかったが、彼女が名前にこだわるからしょうがなく適当にそんな名前をつけた。炎に焼き尽くされ灰と化すアクマから視界を外し尾を跳ね上げる。放たれたミサイル全てを叩き落し彼女にちらりと思考を割いた。彼女は神田と共に亀のような甲羅を持つレベル2のアクマの方と交戦している。
 なら私のする事は余計なものを排除する事。
 だから遠慮せず両の爪を振り被りアクマを引き裂く。すでにこの爪はどれほどのアクマを破壊したかも分からないが、当に弔い合戦の域は超えた。それでも私がこの爪牙を振るうのは、他でもない彼女のため。
 どどどどどどとうるさい事この上ない弾丸の発射音。球状の身体から突き出たキャノンが全てが火を吹く。叩き落すのが面倒で私は自らの鱗を身体から引き剥がし弾丸には弾丸で対抗した。赤い鱗はアクマの砲弾を防ぐ硬度を持つ。それをミサイルの如く放てば相手のミサイルを打ち砕くのは当然。
 グランス、と彼女が名づけた。意味はラテン語で弾丸。
「災厄招来。界蟲一幻!」
 神田の声。だからぼろぼろと崩れ落ちるアクマから視線を剥がす。剣気が蟲の形を取ってレベル2のアクマに突っ込む。彼女ががしゃと剣を構え一振りする。剣が発光する。聖なる光を帯びるように。彼女の笑顔のあの眩しさのように。
「シムラクルム」
 どどどと甲羅で神田の攻撃を防いだアクマの全方位を六方から取り囲む光の剣。彼女の遠距離攻撃の一つ、シムラクルム。その光の剣が同時にアクマを貫いた。輝かしいまでの光が暴発する。
 ばさりと翼を広げ、私は彼女のもとへ舞い戻った。ばちんと爆ぜて爆発し残骸となったアクマ。全てがぼろぼろと崩れ風に攫われて消えていく。
 結局救えた探索部隊の隊員は三名のみ。残りはすでにアクマのウイルスに侵され砂となっている。
「遅くなりました」
 社交性というものに欠ける神田の代わりに彼女が残った三人にそう頭を下げた。それから顔を上げてどう見ても怯えた顔をしているその三人に、彼女は困ったように笑う。
「すみません」
 それが何に対しての謝罪なのか、私は首を捻る。すでにもとのサイズに戻って彼女のコートのフードの中におさまり姿を潜めてはいるものの、私は飛んでこの場へ来たのだから、初めて見る者には化け物同然だ。アクマ同然。恐れられて同然。
 彼女といると、ついそれを忘れてしまうけれど。彼女は私にとても優しい。
「帰りましょう。本部へ」
 彼女は三人にそう言ってくるりと振り返り、我関せずを決め込んでいた神田の手を引いて「さー帰ろ?」と笑いかける。そっぽを向いた神田が「分かってる」とぼやいて緩く、本当に緩くその手を握り返したのが分かった。
 私はちらりと後ろを振り返る。恐る恐るというようについてくる探索部隊の三人の男。どの目にも恐れや畏怖の念が込められている。彼女はそれでも笑っている。神田のように無関心を決め込むわけでもなく、かと言って完全に心を許すわけでもなく。

 今一度断言しておこう。
 私がこの黒の教団に留まるのは という一人の人間のためであり、決して神という存在を信じてここにいるわけではないという事。彼女という人間と引き離されるのなら私がここに留まる意味はない。また彼女という存在が脅かされる事も私は好まない。
 彼女が存在する事。それが私が存在する事の絶対的条件だ。