とんとんと指先で机を叩く。その音で自分が苛々していることを自覚して、意識して深く息を吸い、吐いて、ソファに背中を預けて腕組みする。
 がマザーのもとへ向かってすでに2時間。健診ならとっくに終わっているはずだ。それなのに戻ってこない。
 魔道院内は粗方捜したし、顔見知りにはのことを知らないか訊いて回った。もしや入れ違いかと戻ってみても彼はいないし、見かけたという話も聞かない。
 …僕が自分の時間を割いてまでの学力向上のため講師になってるっていうのに、生徒である彼は、少しも僕を省みないようだ。
(やめだやめ。マザーの頼みだからって、なんで僕がここまで彼に振り回されないといけないんだ)
 軽く頭を振り、広げていた教科書と参考書を投げやりに閉じる。立ち上がろうとして、机の上に広げられたままのノートに目が留まった。…一体これは何歳児が書いたものなんだと思うような文字が綴られている。下手とかそういう次元じゃない。多分、文字を書くということを最低限しかしてこなかった、書くこと自体が不慣れだ、という感じの文字だ。

 マザーに聞いた話によると、彼は皇国との国境周辺の村に住んでいたらしい。名前もない小さな村だったそうだから、勉強なんてする暇なく、食料を得るために畑を耕したり、魔物を狩ったりして、余裕のない日々を忙しなく過ごしていたのだという。
 そして、あるとき、川を渉り侵攻してきた皇国兵小隊によって村を滅ぼされ、彼だけが生き残った。
 彼はそこで、逃げるのではなく、村を滅ぼした皇国兵小隊を討つことを選ぶ。
 彼がただ魔力を操り戦えるだけの朱雀民だったなら、それが復讐心からだったなら、無謀としか言いようのない決断だったろう。
 けれど、彼は一人ではなかった。勝算があった。だからこそ討つことを選んだ。
 彼は、魔物の中でも毒を持ち、それなりに賢く、防御力もあり厄介だとされるマルドゥークという種族の魔物を従えていた。
 が兵士に追われる囮役を担い、彼を追うことに集中するだろう兵を背後から襲うのがマルドゥーク。そうやって彼は村を滅ぼした皇国兵士小隊を滅ぼした。
 ほどなくしてその稀有な戦い方と存在がマザーの目に彼が留まり、0組への配属が決まる。
 …マザーによれば、彼はコンコルディアの人間ではないらしい。
 魔物を従えるというとどうしても蒼龍の国が浮かぶけど、あの国の特徴でもある小さな身体、というのは彼には当てはまらない。彼は小柄でも身長は僕らと同じくらいで標準だし、朱雀の民だけが使える魔法を扱える。ノーウィングタグも確認した。彼はこの朱雀の人間だ。それなのになぜマルドゥークを従えるに至ったのか、その理由までは、聞いていない。
 マザーからとりあえずの彼の身の上話を聞かされ、僕はそれに納得した。魔道院での生活、また集団生活、寮生活を知らない彼をサポートするように言われて、マザーの頼みならと頷いた。そしてマザーは最後に、彼は勉強がさっぱりだから教えてあげて、と言ったのだ。その言葉の通りに、僕は彼の学力向上のために自分の時間を割いている。
 …だっていうのに、だ。

 はぁ、と息を吐いてソファで姿勢を崩す。彼に用意された新しい部屋は何もかもの肌触りが新品のままで、ベロアの光沢を放つ赤いソファも、踏まれた跡の少ない赤い絨毯も、落書きも傷もない木目の机も、視界に入るもの全てが真新しい。
 魔道院でのルールを学び、集団生活、寮生活共に慣れた彼を褒めるべきなのかもしれないけど。もう少し勉強に身を入れてほしいところだ。これじゃあいつまでたっても試験で九割以上の点数を出すことなんてできやしない。マザーに任されたのに、顔向け、できないじゃないか。
 それに、一体どこに消えたんだ、あいつ。
 はぁ、とまた一つ息を吐いて、ソファに横になる。
 …なんだか疲れたな。基礎の基礎から勉強を教えるなんて、ナインくらいにしかしたことがないし。それにあいつは人の言うこと聞かないから、早々に勉強なんて放棄してたし。僕もそれに慣れていたし。教えればそれなりに取り組んで学ぼうとするは、そう思えば、勉強に向かう姿勢としてはできている方なのかも。
 彼を甘やかそうとする思考にいやと首を振る。
 100点満点の試験で32点を取ってるようじゃ駄目だ。最低で八割、譲っても七割は取れてくれないと、僕は本当にマザーに顔向けができない。
「…どこ行ったんだ、あいつ」
 ちっとも動く気配のない扉に一つ息を吐き、ぼやいて、目を閉じる。
 ぼやいたって帰ってくるわけじゃないんだ。あいつがいないなら、気張ったってしょうがないし。僕も少し休憩しようかな…。
「エース? エースってば。エース〜」
「、」
 名前を呼ばれたことで落ちていた意識が覚醒した。はっとして顔を上げると、いつの間にかが戻ってきていた。毛布を掲げた体勢で「あ、起きた」と言いつつも僕に毛布をかける。
「なんじだ…?」
 眠気の残る目を擦ると、がゆるりと窓の外に視線を流して「ああっと、4時半かな」とこぼして参ったなーという顔をする。
 ということは。最初の2時間を含め、僕がを待っていたのはかなり長い時間で、ついにソファで寝てしまった、ということか。軽く1時間くらいは寝たな。まぁそれくらいなら夜にも響かないか。
 はぁ、と一つ息を吐いてソファで眠ってしまった身体を起こす。「で?」声に棘を含めると彼はぎくっとした顔をしてあははーと分かりやすい空笑いを浮かべる。「えっと、ドクターの健診はきちんと受けました。特に異常なしって言われました」「…で?」「えっと…お仕事の方が入ったんで、ちょっと外に、行ってたんだ」その言葉を聞いて、一番に出たのは溜め息だった。そうだったのかとか大変だったなとか言うべきことはあったはずだけど、一番に息を吐いた僕は、またか、と思っている。
 マルドゥークを従えているにだけかなりの割合で任務というものが課せられる。僕ら0組の力を必要とする任務が入ることはそれなりにあるが、彼の場合、その頻度が僕らよりも多い。そのことについて訊くと、マザーは彼の能力向上のための実習テストみたいなものだ、と言っていたけど…。
「いって」
 眉根を寄せた顔が思わずこぼしたという声に意識を目の前の彼に戻す。見たところの大きな傷は見当たらない。「怪我か?」「だいじょーぶダイジョーブ」机に放置されていた通学鞄に手を突っ込むと、中から一回飲み切りサイズのポーションを取り出した。液体の入っている瓶を一つ振って「これ飲んだら治るから」ポーションの蓋を取り、一気飲みする。
 …だから、ケアルを覚えれば薬がないときも安全だって、説明したよな、僕は。
 彼が押さえている右腕を注意深く観察する。よく見れば制服にも傷があった。軽いほつれ程度ではあるが。「あとで直せよ、それ」顎でしゃくって切れている制服を示すと、彼は苦笑いを浮かべて空になった瓶を机に置いた。
 任務がなんだったのかなんてことは訊かない。話したいなら彼から話すだろうし、言わないのだから、人に知られない方がいい仕事の類なんだろう。僕らに回ってくる任務というのは大概がそういうものだ。
「腕、まだ痛むか」
「まぁ、そのうちに治るでしょ」
「じゃあそれまでは口頭形式で勉強するか」
「う」
 途端に逃げ腰になるをじろりと睨む。「お前、自分の学力レベル理解してるな? この間のテストの点数、マザーだって知ってるんだぞ。次は2週間後。それまでに少しでも鍛えないと、前回みたいな点数だったらマザーが怖いぞ」たたみかければ、彼はがくりとうなだれた。「…承知してます……」どさ、と力なく向かい側のソファに座り込み、教科書を取り上げる。「見ながらでもいい?」と最初から甘ったれたことを言ってくるからその手からばさりと教科書を取り上げ、「頭の中をひっくり返して探せ。分からないときだけ見ろ」と教科書を閉じれば、彼は諦めたように目を閉じた。
「まずはオリエンスの基礎知識からいこう」
「はぁいーどぞー」
 やる気の感じられない態度に一つ咳払いをすると、彼がしゃきっと背筋を伸ばした。「はい、すいませんでした。どうぞエース先生」先生、という響きはさすがにこそばゆいが、流す。「…第一問。クリスタルとペリシティリウムについて述べよ」えっとーと天井辺りに視線をふわふわさせつつ、思案する彼。
「クリスタルとは大いなる力の源で、ペリシティリウムとはクリスタルを守護する施設のことを言う」
「本当に最低限だけだな…。じゃあ、もうちょっと掘り下げて答えてくれ」
 あー、と視線をふわふわさせる彼が本棚の方を見やる。そこに答えを探すような仕草だ。「えーっと、朱雀領ルブルムでは、クリスタルは全ての魔法力の源泉。その重要性・依存性は他国より高い。朱雀ではペリシティリウムはクリスタル保護の目的だけでなく、アギト候補生の育成機関『魔導院』としての役割も兼ねる。…ねぇ、あと3つも全部?」この国だけじゃ駄目かと言いたそうな目に「全部だ」と命じれば、彼は肩を竦めて白虎、蒼龍、玄武のことも答えた。基礎の基礎は憶えているようだ。
「各国のクリスタルに共通している作用を述べよ」
「死の忘却」
 彼はすぐに答えた。いつもなら何かしら思案する間があるのだが、これについてだけは、彼はすぐに答えを返してくる。
「憶測されているその理由は?」
「死が日常的な中で前進しなければならない人間を哀れむ、クリスタルの加護だとされる」
「そのために朱雀の民が必ず持っているものは?」
「ノーウィングタグ。管理は朱雀の魔導院が行い、国勢の把握にも利用中」
「…いつも思うけど、ここだけはしっかり言えるんだな」
 呆れた僕に、彼は曖昧に笑うだけだ。
 それから基本的なことについて口頭質問と回答を続け、夕食の時間になった頃、一度切り上げた。その頃には彼の頭はすっかりパンク状態で、一度息抜きしないことにはこれ以上使えそうもなかった。
 へろへろだぁという顔で「うがー、頭がぁ」と唸って頭に手を添えつつも、食堂へ向かう彼の足取りは軽い。
 …この調子では試験範囲を勉強し終えるのがいつになることやら、だ。気のせいか僕の頭まで痛い。全く、僕はいつまで彼についていればいいんだ。
 夕食の時間帯でそれなりに混雑している食堂に入る。色々な色のマントを羽織った候補生が思い思いに食事を摂る中で、朱のマントを身につける僕らは目立つ。それとなく引く人波を気にしず彼は今晩のメニューを眺めた。
「今日はー何にーしようかなーっと」
 上機嫌な彼は食事が好きらしい。頭の出来といい、そういうところもナインと似てる。
 どれにしようかな、で適当に選んだチョコボのハンバーグを頼む僕に、が「またそれ食べるの?」と首を捻った。「またって?」「一昨日もそれだった」「別に、なんだっていいじゃないか。入れば一緒だ」ええ、と顔を顰めた彼が「食事は大切だよエース。今日はそっちじゃなくてわたしと一緒にこれにしよう。限定5食、まだあるかなぁ。ってわけでおばさーんチョコボのハンバーグキャンセルで珍肉煮込みふたーつちょうだーい」「…おい」勝手に変えるなよと思ったけど、おいしそうに食事をする・全部残さず何でも食べる、と食堂の人間からは評判のいい彼の意見はあっさり通った。
 なんだかなぁ、と思いつつ、流されることを選ぶ。
 食べれれば何でも構わないというのが本音だから、珍肉料理、魔物の肉の煮込みでも、別にいいし。食べられるものであるなら。
 適度なあたたかさの煮込みスープとパンのスライスを二人分。上機嫌に席を取った彼に仕方なくついていき、長机に隣り合って着席。珍肉煮込みとやらをスプーンですくう。胡乱げな目をする僕とは違い、彼は何も疑いもせずにぱくりと一口で食べていた。「あっつ」と口をふーふーしながら。
「…おいしいか?」
 何でもいいとは思ってたけど、一応心構えのつもりで訊いてみる。
 彼はあっさり笑って「特に癖もないし、チョコボより身はしまってるけど、おいしいよ」ふーん、とこぼして僕も煮込みスープを一口。
 想像していたよりはずっと普通の味だった。なんだ。珍肉って表記やめればいいのに。これはこれで悪くない。
「おや? 奇遇ですね。仲良くお食事ですか」
 降ってきた声に視線を上げると、トレイがいた。「誰が仲良くだって?」とりあえずツッコんでおく。「ちわートレイ」「どうも、こんばんわ」ひらり、手を振ったにトレイもひらりと手を振り返し、「お隣よろしいですか?」と訊かれた彼は「どーぞ」と椅子を引いた。トレイは素直にチョコボのハンバーグとサラダのメニューだ。
 別に、と仲が悪いつもりはないけど、仲がいいつもりもない。マザーに頼まれて仕方なく彼の勉強を見ているだけであって。
 ちらり、と視線を投げる。「勉強の方はどうです? はかどっていますか?」「んーと、ぼちぼちです」「聞きましたよこの間の試験の点数。32点」「う」「ナインはもう諦めの境地なので仕方がないとして、あなたは鍛えれば伸びるでしょう。次はせめて半数を目指しましょうね」「う…ハイ……」よく喋るトレイにも普通に接している。思えば、彼のコミュニケーション能力も当初よりだいぶ伸びたな。
 スープにパンを浸してやわらかくして食べる。確かに、いつもの味よりも、たまには違う味を知るのも悪くはない。
 スープを飲み干して空になった器を置く。話し込んでいる、というよりはトレイに捕まって一方的に話を聞かされているに、仕方なく席を立つ。
「喉渇いたからジュースもらってくる。お前は」
「ちょーだい」
「トレイはいるか?」
「ああ、頼んでもいいですか? お願いします」
 一応助け舟を出して会話を中断させたつもりだったけど、トレイはまた一人で喋り始める。「なんでしたら私がまとめた過去のノートをお貸ししましょうか? エースの教えは要点だけであって簡略化されていますし、初めて学ぶのでしたらやはりきちんとした…」が参った顔をしてスープをすすっている。0組の人間ならまず間違いなく途中で話題を変えるとか逸らすとかでトレイの話を中断させるところだけど、彼はまだそれを知らないらしい。そのせいか、トレイはいつも以上に饒舌だ。
「オレンジ3つ頼む」
「はぁい、待ってねー」
 ジューサーからコップにオレンジジュースを3つ用意したおばさんが、「どうだったかしら?」と訊いてくる。何を、と首を捻る僕に「煮込みスープよぉ」と笑うので、ああ、と一つ頷く。「おいしかったと思います。ただ、珍肉の煮込みって表記では疎遠されると思うけど」と言うとおばさんは苦笑いをこぼした。
「あれはねぇ、軍用クァールで死んじゃった子の食べられる部分を調理したのよ。そう手に入るものでもないし、こっそりってことで、ああいう書き方にしたの」
「…あれ、クァールの肉なんだ……」
 四足の獣を思い起こしつつ、コップ3つを持って席に戻る。確かに食用の脂身ではないなと思ってたけど、そういうことか。
 長机の一角ではトレイの熱弁がまだ続いていて、「そもそも、オリエンスの歴史を紐解き始めたら遥か2000年前まで遡ります。鴎歴以前の歴史というのはルシの情報以外曖昧なものも多いのですが、そこがまた歴史の偉大さや尊さを感じるところで」「…トレイ」こほん、と一つ咳払いをしてトレイの一人語りを遮る。彼の隣ではうーんうーんと頭を唸らせているがいる。「理解できてないから、彼」「おや? おや、私としたことが…には難しかったですかね」トレイにジュースを手渡し、テーブルに突っ伏して唸っているの横にことんとコップを置く。
 全く、仕方がないんだから。
「それ飲んだら部屋に戻って勉強再開だ」
「ええっ」
 ばっと起き上がったが絶望しきった顔でまたテーブルに突っ伏した。「そんな殺生な…」と漏らす声も絶望しきっている。
 トレイから逃れるために適当に言ったことなのに、彼は本気で受け取ってしまったらしい。
 まぁ、僕はそれでもいいけど。君の頭には今日はこれ以上入らないだろ。できても復習くらいだな。
 放っておくともう寝るとか言うを叩き起こして、今日やったことの復習をさせていると、すっかり夜も半ばだった。
「え、えーすせんせぃ…わたくし今日はもうむりでござんす……」
 どさっとソファに横になったまま動かないに一つ息を吐く。教科書を閉じて「まぁ、いいか。教えたこと忘れるなよ」「はぁいー」ひらひらと力なく振られる手に、自分の荷物をまとめて彼の部屋を出る。
 赤い絨毯の上を歩いて自室に戻り、シャワーを浴びる。寝間着に着替え、寝る前の習慣で武器でもあるカードの数を数え、点検し、ベッドに入る前に明日もに勉強を教えるんだからと教科書の類を確認していると、ノートがないことに気がついた。どうやら彼の部屋に忘れてきたらしい。
 たかがノートだ、今から取りに行くのも気が引ける。もう寝間着着ちゃったしな。どうせ明日も彼の部屋に行くんだから。いや、でも、万一ノートに落書きとかされたら嫌だしな。…やっぱり取りに行こうか。
 カーディガンを羽織って部屋を出て、の部屋へ行き、ドアをノックする。返事がなかったので寝たんだろうかと首を捻ってノブを回すと、開いた。無用心この上ないことだ。注意してやろう。いくら0組の候補生だからって油断は大敵。
 そうやって彼の部屋に滑りこんで侵入した僕は、見えた光景に、一瞬で頭が真っ白になった。
 大きな窓が開いていて、月が見える。ひんやりとした夜の風がふわりと舞い込んで、机の上に開いて置いたままの教科書のページをぱらぱらとめくっていった。
 濡れた髪が濡れた肌の上を滑り、細く頼りない背中で揺れる。
 かっと顔が熱くなる。
 どう見たって、それは女の子の細さと儚さを持った背中だった。
 おかしい、ここはの部屋のはず。そのはず。男子寮だ。女子寮じゃない。間違ってテレポなんてしてない。僕はの部屋に忘れたノートを取りに来ただけ。
 そこでその背中の持ち主がこちらを振り返った。濡れた髪をぞんざいにタオルで拭っているのはやっぱりだった。当たり前だけど胸はない。一瞬でもそこに目がいった自分を殴りたい。当たり前じゃないか、彼は男なんだから。
 でもあの線の細さはなんだ? あれじゃあまるで女の子だ。
「エース?」
 びっくりした顔をするに視線が泳いだ。直視ができない。灯りを落とした部屋に射し込む月明かりを受けているせいか、その細い背中のせいか、彼が神秘的なものに見えて仕方がない。
「ああ、えっと、悪い。その、ノートを忘れたことに気付いて、取りにきたんだ」
 ぎくしゃくとした動きで机に歩み寄り、手を伸ばしてノートを取る。視線は泳ぐのにのことを気にしている。彼は僕に気を遣うわけでもなく、下にジャージをひっかけただけの姿でぞんざいに髪を乾かしている。
 細い。僕もよく細いと言われるけど、彼は僕より細い。
、いくつだっけ」
「何が」
「身長」
「ドクターが計ったときはー、163だって言ってたかなぁ」
 僕より5センチ小さい。だとしても、やっぱり細すぎないだろうか? これじゃあまるで女の子。いやでも胸は平たいし。声もどちらかと言えば中性的で…って、僕は何を考えて。
 ぐるぐるする頭でノートを手に「じゃあ、邪魔して悪かった。ああ、あと、シャワーだったなら余計だけど、鍵くらいかけろ。無用心すぎるだろ」「はぁい」へらりと笑った彼から視線を外し、ぎくしゃくした動きのまま部屋を出る。
 テレポで飛んで部屋に戻ってバンと勢いよくドアを閉める。
 まだ熱いと感じる顔に手をやった。…なんで熱いんだ。ただ細くて頼りない背中を見たくらいで、何をこんなに。
「ああもう」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき回して、ノートを机に放り、ベッドに入る。眠る努力をする。
 どれだけ違うことを考えても最後にはあの細い背中のことを思い出していて、結局ろくに眠れないまま、その日の夜が明けた。