ザアアアと土砂降りの雨が部屋の窓を叩いてうるさい。
 その日は生憎の雨模様で、せっかくの休日だったけれど、部屋で読書をするのにも雨音がうるさくて集中できないような、そんな豪雨の日だった。
 どこかで低い雷雲がしている。この辺りで轟くのも時間の問題かもしれない。そうなったらますます読書に身が入らなくなるだろう。
 一つ吐息して本を閉じた。
 新しく魔法を憶えようと思ってまずは論理から入ったんだけど、このままじゃ時間ばかりかかる。他に人がいるにしても、雨音が届かないだろうクリスタリウムで取り組んだ方がよさそうだ。
 そうと思い立ったら行動する。鞄に筆記用具と本を詰めて制服に着替え部屋を出た。
 この雨風に雷だ。誰もが部屋にこもるか魔法陣で移動できる学院の施設を利用しているかのどちらかで、赤い絨毯の敷かれた廊下には誰の姿も見えなかった。
 …いや、それは正しくない。正しくは、廊下のどん詰まりの窓の前でコソコソしている誰かがいた。いや、誰か、っていうのも正しくないだろう。ここであんな怪しい行動を表立ってやる馬鹿なんて決まっている。あのジャージとシャツにカーディガンの姿は知っている。

 朱雀の朱が少しくたびれた、そんな色のビニールシートみたいなものを窓の外に押しやっていたがぎくっと固まった。ぎぎぎ、とぜんまい仕掛けの玩具のようにぎこちなくこちらに顔を向けてぎこちない笑顔を浮かべる。「や、やぁエース」言いながらビニールシートを窓の外に押しやった。パタン、と後手で窓を閉めてぱっと笑顔を浮かべる姿にはぁと一つ吐息する。それで誤魔化したつもりなのか。
 …全くついてないとでも言うべきか。
 今日は休日で、彼の勉学の講師というマザーに言われた仕事だって休みなのに、その彼にこういう形で遭遇するとは。
 眉尻を吊り上げつつずんずん歩いて行ってあははと空笑いを浮かべる彼を押しのけ窓を開けた。「あーあー何でもない、何でもないよっ」と慌てる彼を無視して窓から顔を出す。途端に雨風で髪も肌もなぶられた。遥か下方に丸くなって落ちているビニールシートっぽいものが確認できる。
「お前、何したんだ。まさか死体をくるんで捨てたなんて言わないだろうな?」
「そんな怖いことしないよ。ただ、雨しのぎになるかと思って…あれ、古くて穴も開いてるからいらないってドクター・アレシアが言うから、もらったんだ」
「マザー?」
 この流れでマザーが出てくるとは思っていなかった僕は軽く驚いて顔を上げた。ガタガタと不安な音を立てるガラスに一度窓を閉じる。少し顔を出しただけだっていうのに首から上がずぶ濡れだ。
 全く、と手で雨雫を払う僕に、は笑顔に困惑の色を混ぜて「まぁ、いいじゃんか。別に変なことに使うんじゃないし。わたしがドクター・アレシアにもらったんだし。ほら、エースは制服着たんだから学院行くんだろ? いってらっしゃい」「………」確かにその通りだ。僕はクリスタリウムで魔導書を読み込んで新しい魔法を会得しようと計画していた。…が。不審な行動をしているを野放しにしてもおけない。
 彼を睨んで腕を組む。「そのつもりだったんだけど、気が変わった」「え?」「お前、さっきのあれどうするつもりなんだ」「いや、まぁ…え、なんで? 今日は休日なんだから、休日くらいエースはエースの時間を過ごしたらいいと思うよ?」不思議そうに首を傾げる姿にいつかの細い背中が見えた気がして目を瞑った。ぱち、と開けて「どう過ごしたって僕の勝手だろ」とぼやいてテレポで部屋に戻って鞄を投げ出し、すぐにのいる場所に戻る。三秒で戻った僕に彼は目をぱちくりさせていた。
「すごいねエース…わたしはそんなに速くはできないよ」
 …褒められた、ように思えて、当然の如く連用している自分のテレポ能力が少しだけ誇らしくなった。おかげで体力面が頼りないのも事実なんだけど。
「練習と応用だ。お前の魔法力はまだ伸びそうだから、そのうち僕みたいにできるようになる」
「ホント!?」
 ぱぁっと明るい表情になったになぜかたじろぐ僕がいる。「まぁ、頑張ったらの話だけどな」ぼそっと言い訳みたいに言った僕に彼は笑顔で「うん、頑張るよ!」と上機嫌な顔で窓を開けた。「おい」まさかそこから、と思っている間に彼は窓枠を乗り越え飛び下り、僕が窓から手をついて外を覗いた頃にはテレポで下に下りていた。
 全く、と外へ飛び出すと同時に窓を閉めて落下、テレポで適当な高さに飛んでぬかるんだ地面にバシャッと下り立つ。…ああしまった、これでは制服がずぶ濡れだな。今頃気付いても遅いか。
 ゴロゴロとどこかで雷雲の音がしている。空はとても暗い。地面はぬかるみと水溜まりでひどい状態だ。そんな悪天候を気にするでもなくうんしょとビニールシートを引きずる彼に仕方なく手を貸してやる。「どこまで持ってくんだ」「えーと、チョコボ牧場あるだろ? あの横の森に」「…そんなところにこんなものいるのか?」胡乱げな目を向けた僕に彼は苦笑いをこぼしていた。「行けば分かるよ」と。
 で、彼と交代でテレポを使いながらビニールシート(過去には魔法陣が描かれ、移動先での簡易のものとして使用されていたらしいが、精度と回数に限界があるため現在ではただの布地になってしまっているらしい。とマザーが言っていたとが説明してくれた)をチョコボ牧場の横手にある森まで運んだ。
 雨風は生え立つ木々達によって幾分か遮られているものの、そのせいでざわざわと水気を含んで重くなった枝葉のこすれる音が絶えずしていて、雨粒は霧雨のようになって視界全体に漂っている。
 何か出そうだ。そんな印象を受ける森では自然と気配や声を殺してしまうものだ。実戦経験がそうさせるのだろう。
 そんな僕とは逆には無造作に口を開いて「ドゥーク」と言葉を紡いだ。
(ドゥーク?)
 なんだそれ、と顔を顰める僕には唇に人差し指を当てて「そういえば、ここに来てドクター・アレシア以外にドゥークに会うのはエースが初めてだ。驚かないでね」とウインクしてきた。はぁ? と顔を顰める僕の耳に、ヴォロロ、と何かの声が引っかかる。雷の音ではない。声だ。そう判断した反射神経がとっさに構えようとしてカードに伸ばした手をの手が掴んだ。その目が告げる。動くな、と。そうしてぐっと僕の手を握ったあとに離した。
 雨露の霧雨で沈んでいる視界の中に、木々の間からぬうと骨の白っぽい色が出てきて、ギョロリとした爬虫類のような目と目が合った。どこからどう見ても魔物だ。しかも朱雀の魔導院の敷地ギリギリのこんな場所に。
 僕と魔物の間に見えない糸が張り詰めたとき、がその糸をあっさりとちぎった。さくさくと無造作に草を踏みつけて歩き、魔物に手を伸ばす。
「ドゥーク」
 が呼べば、僕を見て動きを止めていた魔物がすいすいと空中を泳ぐようにして彼のもとへとすり寄った。彼は当然の如くそれを受け入れる。自分の何倍もある魔物相手でも笑顔を向けて「ああ、やっぱり濡れてるか。こんなに雨風強いとお前も厳しいだろうと思って、雨宿りになるものもらってきたんだ」と何気ない顔でシートを広げ始める。
 僕は身動きしないまま黙って彼と魔物を見つめた。魔物は飽きるでもなく彼がシートを広げていく様子を眺め、ゆらり、ゆらり、と尾を揺らしている。
(ドゥーク…そうか、あれがマルドゥークか)
 ようやく合点がいった。マザーが話していた稀有な存在としての彼は、このドゥークと一緒にいるときに発揮される戦い方にある、と言っていた。チョコボやクァールならまだ御せたとしても、マルドゥークは個体が少ないし飼い慣らした事例など聞いたことがない。だから、それを成した彼のことが気になるのだと。
 これが、マルドゥークか。個体数が少ないと言われるだけあって見たことがなかったはずだ。長寿で、賢く、毒を操るとも聞く。おまけに防御力も攻撃力も高いのだとか。遭遇しても絶対戦いたくない相手だ。
「ドゥーク、そっち持って。で、こっちの手でこっちを持ちなさい。それで被ってみて。こーやるのこー」
 ドゥークの前にシートを広げたが身振り手振りで説明するが、ドゥークは首を捻っていた。分からないのだろう。さすがにそこまで賢くは…と思っていた僕を振り返った彼が「エース、ちょっとマント貸して」と言ってくる。眉を潜めてから仕方なくマントを外して、雨を吸ってすっかり重くなっているそれを放って投げた。キャッチした彼がマントを広げ、端と端を持って自分の頭に被せる、ということをしてみせる。
 それで分かるのか、と状況を見守っていると、ドゥークが細長い腕のような部分でシートの端をぐるりと掴んだ。掲げて、彼がそうしたように自分の頭にずるずると被せていく。
「……本当に賢いんだな」
 チョコボやクァール相手にやったとしても絶対に通じない。真似しろと言っても理解できないだろう。それをこうも簡単に。
 よくできましたと顔をすり寄せてくるドゥークの頭を撫でた彼が笑う。「いい子なんだよ。賢いし、わたしの言うことをよく聞く。ただ、まぁ、わたし以外は捕食対象というか、そういう感じだから。敵意や殺意のある行動を取ったらヤラれるって思ってね」まぁその前にわたしが止めるけどね。さらりとそんなことを言われて溜息を吐く。そんなこと、言われるまでもない。
 当初の目的だったドゥークへの雨雫を防げるものを届けた僕らは風邪を引く前に寮に戻った。制服はまだ外で活動するよう作られているからいいものの、思いきり私服で外へ行った彼は震えながら「寒くて死ぬ、とりあえずシャワー」と早々に部屋に引っ込んだ。
 自室に戻って濡れた制服を取り払い、クリーニングに出した方が早いか、と溜息を吐いて冷えた身体をあたためるべく僕もシャワーをすませる。
(…あれが、の秘密で、芯で、鍵、か)
 死んだ魚が巨大化して鱗と鰭を生やして半竜化した。簡単に言うとそんなゾンビみたいな魔物を相手に彼は物怖じしないし、僕らに接するのと変わらない態度を取る。いや、むしろドゥークに対して打ち解けているふうにも見えた。彼にとってドゥークは魔物ではないんだろう。血の繋がりがなくても僕らがマザーを慕うように、彼も、ドゥークを思っている。そういうことか。
 煮え切らない胸で着替え、先刻と少しも変わらない強さの雨風が吹きつける窓を眺める。
 この分じゃ今日はもう魔法論理を頭に叩き込むなんてできそうにない。けど、他に特にやるべきこともないしな。
 ソファに投げ出したままだった鞄を手繰り寄せ、中から筆記用具とノート、魔導書を取り出す。ページを開いてはみたけどやっぱり頭には入ってこない。
 はぁ、と息を吐いて本を閉じたとき、コン、と一つノックの音がした。首を捻る。相手が浮かばなかった。今日は休日だし、0組関係でもないだろうし。
「誰だ?」
「わたしだよ」
 ああ、とぼやいて立ち上がり、鍵をかけていた扉を開ける。さっきと同じようで違う格好をしたが「付き合わせちゃったし、リフレッシュルームで何か奢るよ」と言われて、別にいいと言おうとして、他に行くところもやれそうなこともないしな、と考え直す。
「じゃあ、甘えるよ」
 ん、と微笑んだ彼から何となく視線を逃がす。
 思い出すのは、月夜のあの細い背中だった。

 この雨風だからだろう、リフレッシュルームはいつもより人で混み合っていた。「エース何がいい?」「何でもいいよ」「相変わらず食べ物に好みがないなぁ…じゃ、わたしが決めちゃうから」すいませーんと声をかける彼から意識を外してちょうどよく空いた席を取った。カウンターだが二人分、ないよりずっといいだろう。
 制服を着ていないからだろう。僕らを注視する視線というのは感じない。
 制服だと朱のマントが目立って意識しなくとも人に壁を作っていた。あのマントを羽織るということはそれだけのことなのだ。…それをも背負ったのだと思うと何となくやるせない。彼に、それだけの力はないように思う。線だってあれだけ細いし。
 思い出しそうになった細い背中にいやいやと首を振る。いつまでそのことを引きずってる気なんだ僕は。しっかりしろ。違うことを考えるんだ、と自分の頭に命じて、これから会得しようと考えているウォールという防御魔法のことを考えることにする。
 ウォールとは、敵の攻撃を防ぐことのできる壁を作り出す魔法なんだけど、同じ魔法系の攻撃には強く物理的攻撃には弱いという欠点もある。遠距離が主な攻撃法である僕には必要のない魔法かもしれないとは思うが、援護に回る際、こういったものがあった方が近距離が安心できるだろうと考えたのだ。遠距離対遠距離での効果のほども知りたいところだし、
「はーいお待たせー」
「ああ…」
 はたと我に返る。隣に腰かけたが何を選んだのかと顔を向ければ、その手にあるのはパフェだった。しかもでかい。
「……なんでパフェ?」
「いや、食べたくって。あ、エース甘いもの駄目だった?」
「駄目とかじゃないけど…」
 釈然としないながらもスプーンを受け取り、さっそく一口すくって口に入れたが「んまいー」と頬を緩める姿を観察する。何となく。
 …なんで僕らは男二人で一つのパフェをつついてるんだろうか。隣からの視線が地味に痛い。が、奢ると言った彼に何でもいいと言ってしまったのは僕だ。これを彼が一人で食べたら間違いなくお腹を壊すだろうし、彼なら残すくらいなら腹壊しても食べると言いはりそうだし…。結局のところ僕は大人しくパフェを片付けるためにスプーンを動かすことしかできないわけだ。
 嵐が通り過ぎ、雨の恵みで大地が潤った後日。土砂崩れが起きて道路が封鎖されてしまった地区にが特別派遣されることになった。
 彼に追いつくためにテレポを乱用してチョコボ牧場から横手の森へと飛び込めば、ちょうどドゥークに抱えられた彼と会えた。「あれ、エース?」ときょとんとする彼にパクパクと口が空振って、くそ、と唇を噛んで拳を握る。
「聞いてない? 特別派遣員とか何とかで今からちょっと仕事なんだ。勉強は帰ってきてからで」
「知ってる」
「…えっと、じゃあお見送り?」
 別にいいのに、と笑うの向こうからドゥークのギョロリとした爬虫類の黄色い目がこっちを見ていた。わたし以外は捕食対象、と言ったいつかのを思い出す。その通りなんだろう。ドゥークにとって僕は彼が言うから殺さない人間なのであって、それ以上ではない。
「帰ったら、僕のところに来いよ」
「ん? なんで? さすがに帰ってすぐ勉強は…ちょっと自信ない」
「そうじゃない」
 ん? とさらに首を傾げる姿に地団駄を踏みたくなった。「この間奢らせたろ。今度は僕が奢る」「え?」きょとんとした顔にびしっと指を突きつけて「いいか、帰ってきたら来いよ。絶対に来い」「え、うん、分かったけど…」困惑気味の彼が耳に手を当てた。COMMで通信が入ったのだろう。「ごめんエース、急かされてる、もう行かないと」とこぼしてドゥークの細長い腕を叩いた彼が「じゃあまた帰ってきたら!」と笑顔と一緒に言葉置いて、行ってしまった。
 を抱えたドゥークの姿は木々の間を縫うように泳いでいき、やがて木々の合間へと消えて、見えなくなる。
 完全にその姿が見えなくなってから、はぁ、と脱力してその場に胡座をかいた。
 …僕は何をやってるんだ。自分の行動がよく分からない。
 が駆り出された原因は分かるんだ。あいつはドゥークに指示を送れる唯一の人間だ。クァールで掘り出していたんでは作業は進まないだろう。ドゥークの毒で邪魔になる土や岩を溶かせばそれが一番早いとかそういうことなんだ。だから、これは、仕方のない話。魔導院に通う候補生として、これが彼のすべきことなのなら。
 チカリと視界を射した陽光に、頭上を仰ぐ。あのときはあんなに不気味に見えた森が今はただ穏やかで、揺れる枝葉も軽く、葉の間から射す陽射しはあたたかい。
「……晴れてるなぁ」
 この間はあんなに降っていて、今もその名残で土砂崩れが起き、彼とドゥークが駆り出されたというのに。
 ぼさ、と背中から草の中に倒れ込む。
 …いい天気だな。今日は陽の当たる場所で魔導書を読み込もうか。彼が頑張ってる間くらい、僕も頑張らないと。