一番初めに日本に行ってとりあえず一言めの感想。無駄に暑い。
「…なんですかこれは……」
 六月、確かに日本という国は梅雨とかいう季節にさしかかって蒸し暑いのだと話に聞いたことはあった。聞いたことはあったからこそ軽装を心がけてそれなりに薄い格好をしてきたつもりが甘かった。全く持って甘かった。そんな自分が我ながらばかばかしい。
(暑い…まさかこんなに、なんていうかもう、あつ)
 成田空港から一歩出て外の暑さにやられてまた空港内に戻って。トランクにぐだっともたれかかって外の暑さにぶつぶつ文句を垂れていたらぱこんと頭を叩かれて「あいた」と漏らした。「英語でぶつぶつ言わない。変な人って思われるわよ」という日本語に顔を上げる。もたれかかっているトランクの向こうには長い黒髪を揺らして吐息した待ち人の姿。
「お、久しぶりです」
「お久しぶり。元気にしてた、フラン」
 まだどこかぎこちない日本語で挨拶すれば彼女は軽やかに笑った。
「とりあえずお昼にしない? 私お腹すいてるの」
「あの、自分まだお金両替できてなくて」
「気にしないで、私が出すから。おいでフラン」
 先だって歩き出す彼女に慌てて立ち上がってトランクを引っぱってあとに続いた。梅雨という季節はじっとりしてじめじめしていて湿気が多くてものすごく嫌だと思ったけれど、夏らしい格好で白い清楚なワンピース姿の彼女を見れたことには感謝、してもいいかもしれない。
「日本暑いでしょ」
「暑いですねー。なんかもう世界が違いますよ、向こうとは」
「そうねぇ。いろんな意味できっと違うね」
 日本食。イタリアとはさっぱり質も味も何もかもが違うそれと、いまだに慣れない箸の使い方。ときどきちらと彼女の手元を確認しながら煮物を箸で掴もうとするもつるりと滑ってこれが全然上手くいかない。しまいにはめんどくさくなってぶすと箸を突き刺したら向かい側でくすくす笑い声がする。「やっぱり箸って難しいんだね」と。「すいませんいまだにへたくそでー」と返しながらぶすと丸い人参に箸を突き刺した。フォークの方が楽だ、絶対。
 視線だけ走らせてざっと店の中と今の状況を確認した。どこかに敵が潜んでいやしないかと疑ってしまうのは、もう兵士としての癖だ。
「フラン」
「、はい?」
「日本は向こうほど危険じゃないから、そんな心配しなくても大丈夫だよ」
「…すいません。つい癖が」
 手元に視線を落としてぐさとたけのことやらに箸を突き刺した。向かい側で彼女が困ったように微笑んでいるのが視界のはしっこに映る。
(安全なわけじゃない。だけどここは銃刀法違反なんて法律があるくらい平和ボケした、表立ってはそういう国だ)
 馬鹿げてる。そう思いながら今は外してポケットの中にある指輪を思った。無駄に審査があるから匣はトランクの中だし。なんていうか、馬鹿げてる。
 そりゃあこんな国にいたら平和ボケだってするよなぁなんて思いながらずるずると麺をすすっていたら向かい側で彼女がまた笑っている。眉根を寄せて「ひゃんれすふぁ(何ですか)」と訊けば彼女が手を振って「ああ違うのよ、うん、でもそうね。やっぱりフランと一緒にいるのが一番気が楽ね」と言われてごくんと麺を丸呑みした。
 またこの人は。そういうことを平気で。
(…だーから妙に人気あるわけだ。日本美人ってだけでなくて)
 黒い髪。墨を流したような色合いと白い肌と。ボンゴレ内部でも特別な位置にいる彼女は戦闘員ではない。兵士ではないけれど、それでもボンゴレ内部で上位に位置する存在。
 それをよしとする者もいればそうでない者もいる。非戦闘員がどうしてそんな特別待遇をと。
 でもまぁそれも。こうして彼女と一緒に時間を過ごせばわかる。
 確かに必要なのだ。休暇と称して当てられた彼女と過ごす時間が。鋼にしていた兵士の心を人間に戻す時間が。彼女はそういう人だ。本当に純粋な人間。どっかの歪んだ堕王子とかどっかの歪んだボスとは違う、ありふれた人。
 そうしてその時間が何よりも。
(…一週間か)
 与えられた休暇を思ってずずと汁まで飲み干した器をたんとテーブルに置いた。向かい側で彼女がぽちぽちと携帯を操作していて「待ってね、バスの時間調べるから」と言う。残っているからあげを示して「残すんですか?」と訊けば「食べる?」と返されてはいと箸でつまんで差し出された。一つ瞬いてこの場合かぶりつけってことだろうかと思いながらぱくと一口で平らげたら彼女が笑った。だから口いっぱいに広がる鳥肉と油の味を思いながらこっちまで心をとかされる。
 彼女というのはそういう人だ。だから一目置かれている。彼女とは、そういう人だ。
「…で、ここどこです?」
「どこってプールよ。暑かったでしょ、まずは涼まないと!」
 指定のホテルに荷物を預けて部屋に冷房を入れてやっと一息吐いた頃、かんかんとノックされて開けた扉の向こうで彼女がバック一つで立っていて。それで連れていかれたのは階下に併設されているプールのある場所で。
 意味がわかりませんとばかりに顔を顰めたら彼女がぐいと手を引っぱって「ほらフランプール。水着はレンタルあるから心配しないで」「え、いやあのミーは」「ミー?」つい口を滑った言葉にしまったと思って「いや僕は、その、泳ぐのはあんまり」と言い訳する。彼女が軽やかに笑って「金槌でなきゃ問題なし」と一蹴された。受付にずるずる連行されながらあーと心の中で悲鳴。泳ぐのが得意じゃないっていうも本音だけど何よりプールなんて、そんな露出度高いところ。よりにもよって二人のときに、今言わなくても。
(ミーだって男なんですけど。そりゃあなたからしたら年下でしょうけども)
 ぐるぐるする胸のうちでぐるぐる考えながらしょうがなく着替えてしょうがなく携帯してる指輪なんかもロッカーに突っ込んで、ほんっとうしょうがないから匣も突っ込んで、これで万が一敵が出たりしたらどうするんだ無防備すぎると言い訳に言い訳を重ねた。いくら脱いでも暑いのが日本と記憶しつつ仕方なくプールサイドに顔を出せば彼女はもうそこにいて、眩しい水着姿で「フラン遅い!」と叱ってきた。「すいませんー」と返しつつさりげなく視線を逸らす。よかったビキニとかじゃなくて、よかったパレオ姿で。とりあえずそこに安心した自分も馬鹿。
「言っとくけど私も泳げないから」
「…じゃなんでプールなんですか。他にもっと色々あったでしょーに」
 一番浅瀬のプールにざぶと片足を突っ込む。温水。なんて贅沢。そう思いながらざぶざぶと歩いて行って中央で噴水の形で噴き出している水に触れた。これも温水。本物。匣なんて代物が世に溢れ返っている今となっては本物より偽物を見ることが多いから少し珍しい。
(…変な気分だ)
 ざああと水を噴き上げ続ける噴水から視線を外して「さーんこれって」と言いかけて、彼女が長い髪を一つにまとめようとしているのを見つけて声が止まった。「ちょっと待って、忘れてたの。髪を」そう言いながら上手くまとめられないらしい彼女がふちに座り込んでざぱと足で水面を蹴った。
「フランできる? 上手くいかない」
「、手伝います」
 噴水から離れて彼女の隣に膝をついてその手からゴムを受け取る。一瞬触れたその温度。それから嫌でもうなじからその華奢な肩や身体のラインが見えてぶんぶん首を振った。勘違いするな自分、違う違う。
(あーえーと髪ってどう結べば…アホのロン毛隊長いっつも無造作だし。えーと)
 あれ、髪ってどう結ぶんだっけ。手伝うとか言っときながら自分馬鹿。「あー、すいませんポニーテールくらいしかわかんない、んですけど」おずおずそう言えば彼女が笑った。「それでいいよ、やってよ」と。だから彼女の黒い髪に触れて無駄にどきどきしながらどうにかポニーテールを完成させた。彼女が自分の髪に触れて「水につかなきゃ何も言われないだろうけど。ありがとねフラン」と笑顔でこっちを振り返るから。その笑顔と距離に他意がないものだと分かっていてもこれは、心臓に悪い。
「あー、いえ。ヘタクソですんません、今度練習しときます。から」
 さりげなく距離を取って今度はそれなりに深い方のプールサイドに片足を突っ込んだ。飛び込み禁止らしいから滑るようにどぼんとプールの中に落ちる。これなら飛び込みじゃないだろとか思いながら。
 息を吐き出せばごぼと気泡が上がる。
 ここにあるものは全てが本物で全てが現実。
(しんど)
 ざぱと水面に顔を出して深呼吸すれば髪がぺったりと頬やら額にはりついているのが分かる。うっとうしいと思ってぺっと髪を払っていたらふちで座っていた彼女が笑った。「髪ぺったんこだよ」と。「分かってますよーそんなこと」と返しながら適当にすいすいと動き回る。視線を彼女に固定しないように。彼女だけを見てしまわないように。
 彼女は誰のものでもないから。あえて言うならボンゴレファミリーのものだから。そこから彼女を奪おうだなんて馬鹿なこと誰も考えない。
 でも、本当に誰も考えていないのか。それを。
(…アホらし)
 顔半分を水面に沈めてぶくぶくと息を吐き出す。そのうちざぱんと音がして振り返ればパレオをプールサイドにたたんでいる彼女がいた。目の保養なんだけど目の毒。派手でもなければ清楚すぎるわけでもない水着姿からべりっと視線を剥がしてまずいまずいまずいぞと自分の心を律する。
 与えられたのはたったの一週間。これで彼女に会うのは何度目か、指で数えられるくらい少ない回数だ。
 誰もが言う。彼女と過ごした時間はとても有意義だったと。
 誰もが言う。もう一度彼女に、という人に会いたいものだと。誰もが。
 ヴァリアーの戦闘部隊で数少ない幻術使いとしてそこにいる自分。今ここにいる自分。
 もしもただの一般人としてこういう場所にいられたなら、普通に恋して普通に仕事して普通に恋人作って普通にデートして、普通の日常ってものを過ごせたんだろうか。それこそこんな平和ボケした日常を。
「…さーん」
「ん?」
「明日。発ちます。急ですいませんなんですけどー、本国から連絡入っちゃって」
「そうなの? そっか、大変だね。こないだもそれで帰っちゃったもんね」
「…すんません」
 夜。ホテルの最上階で見晴らしのいい雰囲気もいい、つまりうってつけのその場所で、だけど言えたことはそれ。向かい側でフォークとナイフで子羊のローストを切り分ける彼女は純粋に残念そうな顔をした。
 空調設備も食事の味も雰囲気も何もかも整っているきれいすぎるその場所は、マフィアの一員である自分がいるにはあまりに不似合いだった。彼女が向かい側で「お仕事大変なんだね。フランは私より年下なのに」とこぼす。今この時代年齢でそういうのを判断するのはどうかと思いながらそれ以上何も言えなかった。
 本国から連絡が入った、というのは大嘘だったから。
 まだ一日目でこれからまだ何日かは彼女と一緒にいられて。今日みたいな平和ボケした時間が過ごせる。そう分かっていたからこそ逃げ出したかった。ここに、彼女の隣に立つには、自分ではあまりに不似合いすぎる。それがよく分かった。
 この人は遠い。
「…すいません。せっかく予定空けてもらってたでしょーに」
「いいよ、気にしないで」
 向かい側で笑う彼女。最後にカクテルをとって小さなそのグラスをかちんと合わせた。飾りのチェリーが揺れて青い液体が揺れる。
「お仕事がんばってね」
「…はい」
 カクテルの甘い味が妙に沁みた。彼女は向かい側で笑っている。本国からの連絡が、その言葉が真っ赤な嘘とは知らずに笑っている。
(…最低だな。自分)
「あ゛? フランてめー休暇中だろうが、こんなとこで何してやがる」
「いえ別に。何してようとミーの勝手じゃないですかー」
との休暇だって聞いたんだが、オレの聞き違いか?」
 本部の廊下で暇だーと中庭を適当に眺めてたらアホのロン毛隊長に声をかけられた。それでせっかく忘れようと心がけていた彼女のことを思い出してしまった。空港で見送ってくれた彼女を。
 またねーフラン。そう言って見えなくなるまでこっちにずっと手を振っていた彼女を思い出した。そして長い飛行機の中でもずっと彼女のことを考えていた自分を思い出した。
「…はぁー」
 げんなり溜息を吐けば「辛気臭ぇぞおぃ゛! せっかくの休暇中だろうがっ!」と馬鹿でかい声をあげられて耳を塞いだ。「はいはいすいませんでしたー」と言いつつ今はもう指にはまっている指輪の存在と匣の存在を思い出す。あっちの蒸し暑かった気候を思い出す。
「ミーには毒です。あの人」
「ああ゛?」
「何でもありませーん」
 すっくと立ち上がって「じゃ休暇中なんで大人しく街にでも出てきますー」と言い残してすたすた本部の廊下を歩いてとりあえず誰もいない場所に避難。
 ポケットの中でちりと音を立てたものにぴたと動きが止まって、そっとポケットに手を入れてそれを取り出せば、そこには彼女が最後に贈ってくれたものがある。
 急だったからごめんね、全然大したものなくてと言いながら彼女がくれたもの。ただのキーホルダー。日本って文字の入ったどこにでもありそうな。
「…ほんと。ありえないですよね。歪んだ集団の中にいるとミーまで歪んでくるのかなー」
 ちりんと音を立てるそれをポケットに押し込んだ。
 あの人は今頃何をしてるのか。そんなこと考えたってもうどうしようもないのに。自分から辞退して帰ってきたくせにどうしてもったいなかったかもとか考えてるんだろう。ああほんと馬鹿らしい。
(ほんと。馬鹿らしい)

 だめだ、
 (真っ直ぐすぎる)