自分が酷く乏しく残念な人物であると自覚していた僕は、去年も今年もつまらない自分のままで、これは非常に残念なことだが、未だに気のある人に対して行動の一つも起こせていない。
 今年の彼女の誕生日にも、年越しにも、年明け初仕事のときにも、そしてバレンタインだと世の中が浮かれどこからか甘いにおいのする2月に入っても、やっぱりそれは変わらなかった。
 ここまでくれば己の性だと諦めるしかなくなるようなトントンと単調な人生。
 アップダウンの厳しい坂は目の前で今も疲れを助長させ、はぁ、と溜息だってこぼれる。ときには断崖絶壁で無茶なジャンピングを強いることもあれば、実力行使でぶち破らなければならない壁もあり、平坦に続く道という方がありえないのだが、それでも、こんなに険しい道でも、僕の人生は淡々としている。
 答えはひとつ。この道が、この生き方が、誰とも交錯していないからだ。
 仕事と称して人を殺すこともある。仕事と割りきって上司に玩具にされることもある。普通の人じゃ死んでそうなツッコミとか受けてなお部下をしている。周りに人はいる。誰かの人生を蹴飛ばすことも踏みつけることもある。ウザい上司だっている。変な髪型と変な笑い方をする師匠だっている。それでも僕の心は平坦で、誰かと相対していても心まで交わることはなく、今もずっと息をしている。残念なことだ。
 そんなヒジョーに残念で乏しい自分という存在は、姿形から判断して恐らく人間に部類されるとは思っているのだが、どうだろう。
 人間離れした人の成り損ない集団みたいなところにお仕事で入り込んで、それなりにやってはいるけど。自分の歩む人生が厳しい道だと分かっていながらここまで心が平坦であるのは、何にも心を動かせないのは、やっぱり、僕が人間に成り損ねたせい、なのかな。
 2月に入ってどことなく浮かれている空気の中、コートのポケットに手を突っ込んで、お忍びなのでカエルの頭を取っ払った頭で「さむー」と白っぽい息を吐き出す。身体は寒いが心は別段何も感じない。そんなちぐはぐな自分もいつものことだ。
 隣では、同じデザインで配色が少し違うコートを着た人が一人。「寒いねぇ」とどこか嬉しそうな顔で手袋をした手をこすり合わせている。
 今日の仕事はこの人のボディーガードみたいなものだ。特別危険な地域に入り込むわけでもなし、警戒のいる仕事内容とは思えないけど、ロン毛隊長曰く『念のため』だそうなので、部下の僕は大人しく従っている。
 …まぁ、ほら。仕事という形だけど、彼女の隣を歩くこと、歩けることに、悪い気はしていないし。
 本日の仕事はウチの気まぐれボスの『美味いチョコが食いたい』発言が発端。
 バレンタインも近づきチョコが普段より溢れている街へと繰り出し、しかもチョコを買ってこいと命じられたわけだから、甘いものが好きなんだろう彼女には嬉しい仕事内容なわけで。だから僕の隣で機嫌よさそうに歩いているわけだ。そう、間違っても彼女が嬉しそうな理由は僕といることにはないのである。
 飾り気に欠けた隊服のコートに抵抗するように、マフラーと手袋と帽子を毛糸のふわふわしたものでまとめている彼女は、そうしていると、どこにでもいる女の子のように思えた。そして、その隣を歩く自分も、どこにでもいる男子に思えた。

「フランはチョコレート好き?」
「…どうでしょう。師匠は大好きですね」
「お師匠様の話じゃなくて、フランの話」
「……好きでも嫌いでもないです。あ、でもマズいチョコは後味がくどいので、食べるならおいしいチョコがいいです」

 答えてから、我ながらつまらない答えだなと思った。彼女は僕の言葉に苦笑いをこぼしている。「じゃあ甘いものは好き?」「フツーです。好きでも嫌いでも…」またつまらない答えになった。そんな自分に軽く絶望する。もう慣れたものだけど。きっと今更変えられないコトだけど。こんな僕と話をしてたって、面白くもないだろうに。歳が近いからとかそういう理由で僕を護衛に任命したロン毛隊長が疎ましい。
 微妙な空白に僕と彼女のブーツの靴音、人混みの雑多な音、誰かの話し声、笑い声、どこかの店から流れる音楽などなどが加わり、空白はすぐに埋められた。
 僕と彼女の距離は三十センチ。
 未だに、一度も、この距離を埋めたことがない。

「私は好き。甘いもの。ボスの舌は確かだから、おいしいもの選ばなくっちゃ」
「そのためにたくさん食べるんでしょう」
「そーよ。隊長から金色カード預かってきたの。私はお金ゼロでチョコ食べ放題。特権!」

 たかがチョコ、されどチョコ。えへんと胸を張る彼女がかわいらしく、そんな横顔を隣で眺めていられるという自分の特権に、ロン毛隊長に一瞬だけ感謝したりした。すぐにいつものうるさい怒鳴り声を思い出して感謝の気持ちも消えたけど。
 が、嬉しそうな表情から一転、微妙に顔色を曇らせて「ちょっと心配なんだけどね。チョコの味見しつつお店回りしてたら地味にカロリーが…」とか言う細っこい彼女に一つ息を吐く。野菜で例えるならごぼうのようにスレンダーだというのに、何を気にする必要があるのか。もう少し健康的になった方が女性としての魅力は上がる気がするけど、僕がどうこう言えることでもないので、肩を竦めるだけで返しておいた。
 彼女の誕生日にも、年越しパーティーにも、年始初めての仕事のときにも、そして今このときでさえ、僕は何も言えない。何もできない。確かに彼女という存在に癒される部分があると自覚はしているのに、その彼女のそばへ行くには自分はあまりにも乏しい存在に思えて、自然と足が引いてしまうのだ。僕は遠くから彼女を見つめているだけで十分なんだ。そんなことをこの三十センチの距離感で毎度思い知る。
 破天荒すぎる上司に嫌味で対抗する口と力はあれど、彼女の前になると面白いことの一つも言えずに口数が減る。自慢じゃないにしても女性経験はないに等しいのでそういう気遣いの仕方も分からない。そういうのが積もって僕は彼女の前じゃいつもよりさらにつまらない奴へと成り下がるわけだ。
 こんなつまらない僕のそばで、彼女は退屈ではないだろうか。

「フラン、あそこから攻めましょ」

 ウチが普段から甘味関係で出入りしている店を手始めに選んだ彼女。「はい」と答えてちらりと横顔を窺う。タブレットの画面に指を滑らせている彼女は真剣だ。チョコ相手に。「それから、ここと、ここと、ここと」と独り言を漏らしつつ画面の中の地図に印をつけていく。寄りたい店をチェックし終わるとスタート地点である店から効率よくチェックした店を回るルートが計算され、僕らはそのとおりにチョコを扱う店を訪ねて歩いた。
 結果、護衛兼荷物持ちの僕の腕には計十の袋がぶら提げられることになる。
 …これにはさすがに一言言いたくなった。「次で最後ね」とこれまでナビをしてくれたタブレットをしまった彼女に「買いすぎなのでは…」と両手に提げた袋を示すと、えへ、と子供っぽい笑顔が返ってくる。「だってボス、いくらまでとかどのくらいとか言わなかったのよ。足りないよりは呆れるくらいたくさん買っていった方が正解じゃない?」「…それは、まぁ……」ロン毛の隊長もそれを見越して金のカードを預けたんだろうし。まぁ、いいけど。ちょっと重たいな。
 すでに味見でチョコを食べまくって飽きている僕とは違い、彼女は意気揚々と最後の店の扉を押し開けた。チリンチリンと鈴の音が響く。もうチョコなんて見飽きたけど、とそれでも仕方なく後を追う。一応護衛も兼ねているので一人にするわけにはいかない。
 さんざんチョコを見てきて飽きている僕。対して、ショーウィンドウに並べられたチョコを前にキラキラした顔で「わぁ、トリュフおいしそう」と手を合わせる彼女。
 僕らがヴァリアーからの客だと理解した店主は自ら接客を行い惜しまずチョコの試食を進める。さすがの営業スマイルだ。「こちら、今年の新作になるのですが、どうぞおひとつ」「いいんですか?」「もちろんですとも。自信作なんですよ」にこにこ笑顔の店主からチョコを二つ受け取った彼女が嬉々として僕を呼ぶ。「フラン、ほら新作だって」「…はぁい」辞退するという道がないようなので、大人しくそばに行って、紙袋ですでに埋まっている両手を整理しようとしているとすっとチョコが目の前に差し出された。細っこい指がチョコをつまんでいる。「あーんして」と言われて一瞬呆け、口を開ける。
 今まで埋まらなかった距離。三十センチ。それがこんなにあっさりと埋まった。チョコ一つで。

「おいしい」

 口の中でとろけるように消えたチョコと、幸せそうな彼女の笑顔を眺めて、「そうですね」とこぼす。
 …これが本当においしいものだというなら。口の中に入れた瞬間溶けて消えてしまうようなこれが、幸せだというなら。僕はそんなものいらない。
 粗悪品でいいから、偽物でもいいから、それなりの味がして、口の中で食べたなって後味が残るものの方がいい。そうじゃないとあまりにも儚い。あまりにも夢のようで、切ない。
 当然の如く「じゃあ、この新作が入ってる箱ってどれになりますか?」とショーウィンドウ越しに店主と会話する彼女を眺め、視線を剥がし、無言で床を睨みつける。
 後味なんて残らない口内。確かにチョコを食べてチョコの味がしたのに、どれだけ口の中を探しても、もう見つからない。
 両手が塞がっている僕にチョコを食べさせてくれた手。細い指。あっさりと離れた手。開いた距離はまた三十センチ。埋まったのはほんの一瞬のこと。ほんの一瞬の、幸せ。
 ああ、なんてやりきれない。
 チリンチリンと鈴の音を残して店を出る。合計十一の紙袋で埋まった両手。持つよと言ってくれた彼女に荷物持ちですからと返し、ヴァリアー本部へ戻るため車を呼ぶ。
 チョコをたくさん食べて満足したのか、彼女は車の中でも上機嫌だった。
 対して僕はいつもどおり。いたっていつもどおり。そんな自分がやはり乏しいと思う。非常に残念だ、と思う。
 埋まらないこの三十センチの距離。彼女といることで確かに安らぐ心。けれど、彼女の隣に立つにはあまりに何もなくてつまらない自分は、自然と遠く離れた場所から彼女のことを眺めて、ひっそりと心を穏やかにしている。届かない夕焼けを眺めるように彼女のことを見つめて、その眩しさに目を細めながら、満足する。これでいいのだと自分に言い聞かせる。

「じゃあ、フラン、今日はありがとう」
「はい」

 それでは、と頭を下げて夕焼けに背を向けたとき、「あ、フラン」と呼ばれて足を止めて顔を向ける。彼女が何か投げてきたのでキャッチしてみると、小さな箱だった。大きさ的にチョコが三つだけ入っているセットのようだ。
 ぽかんとしていると、彼女はぶんぶん手を振りながら離れていく。器用に後ろ向きに歩きながら「私明日からボンゴレの支部に異動だから、もう、こっちで会うこと少ないと思うの。それに今日付き合ってくれたから。それ、私が個人的にあなたにあげるものね」じゃあね、ばいばい、と手を振った彼女が前を向いて歩いて行く。仕事に頭を切り替えたのか、これからボスにチョコの説明をするためにタブレットに指を滑らせ情報を確認している。
 僕は呆然とチョコの箱を眺めた。
 …たった三つ入っているだけの小さな箱だ。三十個入りとか平気で買っていた今日の買い物からすれば本当に小さな箱。小さな買い物。それでも僕が気を抜いている間にこっそりと自分の会計で買っていたのだ。僕に渡すために。
 これは、どういうことだろう。この現実に頭が追いついてくれない。
 視界の中で彼女の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
(明日から異動……きいてない)
 初耳すぎるその話も僕の頭を使い物にならなくしていた。
 …彼女が僕に形だけだとしてもチョコをくれた。その思考の中に僕がいた。
 僕は相変わらず乏しくてつまらない、何もない、人間に成り損なったような残念な奴で、上司の嫌がらせに対抗するだけの口と力はあっても、気になる人の前では面白いことの一つも言えない駄目な男で。
 でも、そんな僕でも、この人を眺めていたいな、と思う相手がいるわけで。
 唐突に口の中にチョコの味が広がった気がして唇を舐めた。
 口に入れた瞬間に溶けて消えるようになくなったあのチョコのような幸せはいらない。もっと下手くそで、おいしいかと問われて微妙と返すような、そんな味でいい。雑多な幸せでいい。これが極上だなんてものはいらない。口に入れたら溶けて消えるチョコのような幸せはいらない。僕が欲しいのはもっと単純で、わりとどこにでも転がっている、どうしようもない男が恋するフツーのお話。
 歩くことを思い出した足で赤い絨毯を踏み、走ることを思い出して床を蹴り、角を曲がって見えなくなった彼女の背中を追いかける。
 何馬鹿をやってるんだってくらい全速力で走って、
 みっともないくらいあなたばかりで思考を埋めて、
 あなたにもらったチョコの箱を握り締めて、
 あと三十センチの距離を壊すために手を伸ばし、
 あなたの手を掴んでその足を止めさせて。
 驚いた顔で振り返ったあなたに、
 僕は、最初の一歩を踏み出す。