雨 の 夢

 春と夏の間の季節はそれなりに憂鬱だ。梅雨と呼べる期間は、肌にまとわりつく湿気を含んだ空気がそこここに充満する。つまり、そこには不快感が伴うのだ。常に何かに肌をなぞられているような感覚。しかもそれが生ぬるいとくれば、誰だって顔を顰めたくなるものだ。
 かく言う自分も例外ではなく、梅雨は嫌いだった。
 生ぬるい温度と湿度が肌を撫でるのがどうにも我慢がならないのだ。
 雨は自然からの恵みであると昔から言うけれど、海水を飲水にする術を得た人類にとっては、手を合わせて感謝するような現象でもなくなった。
 衣服が濡れる、傘を差さねば外を歩けない、という点で多くの人は雨を避ける。晴れの日より雨の日の方が様々な点で面倒くさいからだ。
 今日も同じだ。朝からずっと空気が湿気っていて、小雨が立ち込め、景色を霞ませている。こんな日は誰も好んで出歩かない。
 はぁ、と湿気に負けない湿っぽい溜息を吐いて、すっかり濡れそぼったコートを払った。雫を払ったところですでにだいぶ濡れていて、あまり意味もない。
 この調子じゃ駅前での慈悲を待ったところで濡れ損だ。今日は大人しくビニールとダンボールの我が家に引きこもるかと立ち上がったところで、駅から勢いよく走ってくる人物を見つけた。「フラン!」とこちらに手を振っている。
 ああ。彼女だ。今日も来たのか。物好きだな。
「こんにちわ」
「こん、にち、わ」
 走ってきたせいで上がった息を整えながら挨拶を返した彼女は、一般人だ。裕福でもなければ貧しくもない真ん中のくらいの家庭に生まれた真ん中の人。僕のように他人のおこぼれをちょうだいしなければ生きていけない人ではないが、他人に恵んで笑っていられるほど財力のある人でもない。
 ふー、と大きく息を吐いた彼女が鞄をあさる。出てきたのは銀紙に包まれた何かだった。雨のにおいに混じって食べ物のにおいがする。
「あの、フラン、お腹減ってる?」
「お腹いっぱいって人生送ってるように見えます?」
 皮肉って返す僕にそうだよねと曖昧に笑った彼女は、僕の手に銀紙を押しつけてきた。雨で濡れた肌にこのぬるい空気以上にぬくいものが触れる。「これ、私が作ったから、おいしくないかもしれないけど。自分的にはよくできたと思って。だから、フランにあげるね?」「…どうもです」押しつけられた銀紙を受け取り、片手で掲げる。
 食べ物、か。ありがたいことだ。路上生活を送る自分には食べ物の確保は毎日の急務だ。これで今日は凌げるだろう。
 さっきの言葉はあまりにお礼っぽくなかったな、と改めて口を開いたところでずいっと傘を差し出された。「これも、あげるね。じゃあ、私帰るから! またねっ」「え、あの」僕の手に傘を押しつけた彼女が制服のスカートを翻し走って遠ざかっていく。その早業にポカンと後ろ姿を見送って、雨に濡れた格好の自分には似つかわしくない赤と黒のチェックの傘をくるりと回転させる。
 学生の身分で、自分で使えるお金だってそう多いものではないだろうに、僕を気にかけて、毎月何かしらを贈ってくれて。今日は手作りの何かと傘。全くもって、もったいなくて、ありがたい話だ。
 ところで、何を作ったんだろう、とガサガサ銀紙の包を開いて、現れたキッシュを眺めた。確かに縁がぼろぼろで焦げてる部分もあるけど…。
 がぷ、と噛みついて咀嚼する。
 焼きたてとは言えずとも、僕には十分においしい味だった。
 全くもって、もったいなくて、ありがたい話。
 彼女にとって僕はお腹を空かせた野良猫に等しい存在なのだろう。
 猫が腹を空かせているから餌をやり、たまに毛布やダンボール箱などの寝床を用意して、猫が鳴いて甘えるから、その頭を撫でて笑いかける。…どこにでもある話だ。そう、とてもありふれていて、特別性なんて何もない、それだけの話。それだけの。
「……帰ろ」
 キッシュを食べ尽くしてから銀紙を丸めて駅のゴミ箱に放り込み、すでに濡れそぼっている格好ながらも、赤と黒のチェックの傘を差して、雨に霞む景色の中を歩き始める。
 ビニールとダンボールでできた小さな家が、そういう建物群であるみたいに群れをなす町外れの公園は、今日も路上生活者が路上生活者なりの決まった時間を送っていた。
 赤と黒のチェックの傘はすっかり乾ききり、今はきちんとたたんでダンボールハウスの隅っこに転がっている。次に会ったときに返そう返そうと思って結局忘れたままだ。今日こそはこれを持って駅前に行かなければ。ああ、でも、今日は晴れっぽいし…せめて曇りの日でもないと、傘を持って歩くのは変だな。
 わりとどうでもいいことで悩みながら起き上がり、ずる、と身体からずれ落ちた継ぎ接ぎの布切れをつまむ。
 この間会ったときに押しつけられたものだ。どう見ても手作り感溢れる、余った布を寄せ集めてできた代物。いくら夏だからって新聞紙の布団は風邪を引くよと彼女が僕にくれたもの。
 ……なんだか、どんどん、ダンボールハウスの中が彼女からのもので埋まっていってる気がする。
 彼女はこの手作り布団を作る間、何を思っていただろう。いつも腹を空かせている猫にあたたかい寝床を用意してやるような気軽な気持ちでいたのだろうか。それとも、一生懸命チクチク針で布を縫い合わせながら、僕のことでも考えていたのだろうか。
(まさか)
 その思考に緩く頭を振って否定し、のそっと起き上がって布団を小さくたたみ、新聞紙の中に片付ける。傘も同じだ。
 ここには一定のルールがあって、不可侵というか、他人のダンボールハウスは覗かないし盗まないという決まり事があるのだけど、ときどきそれを破る奴がいる。破った奴はここを追放、ダンボールハウスも解体されるけど、そういう事件が起こらないわけでもないので、用心のため、なくなって困るものは新聞紙の山の中に隠すようにしている。
 空のペットボトルを持って公園の水飲み場に行き、共同水で顔を洗って、ボトルに水を満たし、自分のダンボールハウスに戻る。
 途中で足を止めてペットボトルの水を呷り、ついでに空を見上げてみる。晴れだった。雲も少ない。空気も肌にまとわりつく嫌な感じではない。
 短い梅雨が終われば、夏が来る。
 夏は夏で憂鬱だ。路上生活者は扇風機やクーラーなんて贅沢なものとは無縁で、うちわがあればいい方なのだ。夏はどうしたって暑いし、清潔とは言えない僕らの溜まり場である公園は微妙な臭いを放つようになるし…。
 考えるだけ憂鬱になるので、スパっと思考を切り捨て、ダンボールハウスに帰る。
(お腹は空いたけど。食べるものは持ってないしなぁ)
 朝から駅前に行くのは人が多くて辟易するんだけど、ある程度人がいないとお恵みがないのも事実だし…仕方ない、行くか。
 割り切って、生活圏である公園を出て駅前に行く。寄せられる浮浪者を見る目にはもう慣れた。自分が汚いことは否定できないので受け入れる。こんな僕を蔑むのではなく憐れむ人を探す。それがもう癖になっている。

 フラン、お前顔はいいんだし、若いんだから、夜の店にでも行けよ。お前なら客を取ることだってできるさ。俺達みたいなオッサンじゃないんだから

 と、あの公園の主たるおじさんに言われたものの、そういう手段にも出れていない。現実的に考えるならそれが一番収入が多くて働ける可能性のある仕事なのだが、そういった場所へ行くのは、どうにも気が引ける、というか。
 別に、今更きれいごとを言うつもりはないし。そういう店に出入りする自分が嫌だとかではないのだけど。
 ただ。まだ、心残りがある、というか。もう少しだけ身売りという職は遠ざけていたいというか。つまり、ぶっちゃけると、彼女のことが気になっている、というか。
 気紛れに猫の世話をしているにすぎない女の子が、僕に夢を見せている。
 咲いた花のように儚い夢。咲けば近いうちに必ず枯れてしまう、叶ったと思ったら破れてしまう、春と夏の間の短い期間に見せる、夢。
「……、」
 その日も駅前でグダグダしていると、見慣れた制服のスカートを揺らして走ってくる彼女を見つけた。「フラン」と僕に大きく手を振っている。
 …うん。あなたがそうやって走って僕のもとまでやってくるから。蔑むんでもなく、憐れむんでもなく、なんだか嬉しそうにさえして、こんな汚い僕のところにくるから。だから、僕は、ここに立つことをやめられないでいる。
「こんにちわ」
「こ、こん、にち、ゎ」
「…大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ」
 ぜぇはぁと肩で息をしている彼女に手を伸ばしかけ、自分の汚れた掌じゃ触れる資格もない、とぐっと拳を握って手を引っ込める。
 夢は、醒めるものだ。醒めない夢はない。僕は現実を見なければならない。分かっている。分かっているのに。
 ニャア、と鳴けば寄ってきて、頭を撫でる人がいる。そのぬくもりと笑顔を離し難くて、僕はずっと動けずにいるのだ。
 拳を握った手を下ろす。
 苦しそうに胸に手を当てて呼吸している彼女の優しさはいつまで続くだろう。僕はいつまで夢を見られるだろう。「あのね、今日は、ね」と息を切らせながら鞄から何かを取り出そうとする、彼女の気紛れはいつまで続くだろう。
 まぁ、いつまでだって構わない。
 夢は醒める。僕はそれを知っている。
 知っているなら。短い梅雨のような夢が通り過ぎたとき。ああ、終わったかと、諦めた気持ちで受け入れることもできると思う。枯れた花を惜しみながら、終わった夢を引きずりながら、やっと現実を見据えて、前を向けると思う。多分。きっと。