「…切れちゃった」
 ピーという音と一緒に吐き出されたカード。またねを言う暇なく通話は途切れてしまった。雲雀の問いかけに答えている間、一瞬の間に。
 空っぽのカードを見つめていたらひょいと取り上げられた。視線で追いかければやっぱり雲雀がいて「処分しとく」と言ってカードをポケットに入れた。だから私は苦笑いして頷く。
 そういえば私は馬鹿だからすぐに忘れてしまうけど、一応これでも裏側世界の一員だった。こんな私だからいつもの普通の日常を送っているとすぐそんなこと忘れてしまうんだけど、隣にいる雲雀が「帰るよ。車が来てる」と私の背中を押すから。だからこつと一歩踏み出しながら「うん」と返す。
 そうだ、私はこれでも一応裏側世界の一人の人なのだ。特別何かするわけではないし特別何か能力があるわけでもないけれど、それでも一応。一応ね。
(物音…あれはなんだったかな)
 ベタな黒塗りの車ではなくて普通の乗用車が道路わきに止まっていた。「あれ」と短く言った雲雀がとんと私の背中を押す。「君の家まで送ってくよ」と。
 だから私は彼を振り返った。「雲雀は?」と訊けば彼が肩を竦めて「仕事ってやつでね。悪いけど一緒に行けない」と言う。だから私は眉尻を下げて「そっか」と返した。
 仕事がなんなのかと訊きはしない。それが社会の裏側をつつくだろうことは知っていたからだ。そしてたぶんそれだけ知っていれば十分だった。少なくとも私はそうだと思っていた。
 がちゃと白い乗用車のドアを開けていつものように「お願いします」と言う。いつもの運転手さんが人のいい笑みで「はいよ」と返す。これもいつものやり取りだ。私が裏側にちょっと顔を出すとき、車の運転手はいつもこの人。
 ときどき隣に誰かいたりする。護衛ってやつで。でもだいたい私を家まで送ってくれる車の運転手さんはこの人で、そして私は家に帰る。
 ばたんと扉を閉めてシートベルトをした。後部座席の左側。そういえば全席シートベルト着用になったのはいつからだっけ。そんなどうでもいいことを考えている間に車は発進して、いつものように私の家への道をたどる。

「ありがとうございました」
「はいよ」

 いつものやり取り。人のいい笑みを浮かべた運転手さんに頭を下げてからばたんとドアを閉める。車はほどなく発進して通りの曲がり角を右折して見えなくなった。
 ほぅと息を吐いて見上げる。自分の家、というより私の部屋のあるマンションを。
 エントランスをくぐっていつものようにガーと自動ドアをくぐり抜ける。このマンションには受付があってそこにはいつも管理人さんがいる。だからいつものように会釈をして「こんにちわ」と言えば、管理人さんが「お帰りなさい」と返してくれる。それからいつものように指紋認証でロックされている重厚な扉の向こうへ入った。
 ごん。扉はすぐに閉じて重たい音を立てる。
「…まだ慣れないなぁ」
 広がる庭園の風景、中庭。あまり人のいないところ。
 ここはボンゴレが所持するマンション、らしい。というのも聞いただけの話でボンゴレがなんなのか私はさっぱりだったりする。ただここにいれば家賃も光熱費も何も払わなくていいのと、とても安全なことがわかっていた。だから私はここにいる。高級マンションのさらに上じゃないかと思える、そういうところに。
 でもここには誰もいない。それはやっぱり少しさみしい。
(…フランは今頃何してるのかなぁ)
 チーンと音を立てて開いたエレベータの箱に乗り込んで20を押した。静かに閉まった扉と動き出したエレベータ。いつもの部屋へ帰る道のり。
 扉の反対側は上半分がガラスで、中庭の手入れされたきれいな風景がいつも見えた。
 そしてその度に思う。整っていてとてもきれいな景色だけれど、なんだか少しさみしいと。
「…贅沢かな」
 ぽつりとこぼしてとんと壁に背中を預けた。私よりも年下で私よりも過酷な状況に立たされている人なんてきっとたくさんいる。それなのにただここにいて、それだけでいいと言われて、そうしてほしいと言われてここにいる私は。きっとすごく贅沢者だ。
 フランは私よりも年下で、まだ幼さを残す顔立ちをしてた。それでも裏側の世界の一員なのだと説明された。だけどちっともさっぱりだった。そんなふうには全然思えなかった。今でもそう。だけどそれはきっと雲雀の言う『仕事』をしている姿を見たらきっと忘れてしまうのだろう。だからきっと誰も私に仕事のことを言わないし、仕事のことを話さない。
 ただそれでもここにいてほしいと言われた。そうして、そうやって生きてきて、もうどれくらいになる?
(なんだかなぁ。今更すぎるかな)
 チーンと音を立てて開いたエレベータの扉。こつと一歩踏み出して歩き出しながら鞄の中から鍵を探す。えーと確かこっちのポケットに。
「あれ? ない」
 だけど記憶してた場所に鍵がなかった。むむと眉根を寄せて鞄の中をあさる。絶対どこかにあるはず。入れたんだから。
「ポケットではないんですか」
「ポケット…あ」
 それでスカートのポッケに手を入れてみたら金属の感触がした。ほっとしつつあれと思って顔を上げる。この声は。
「六道、」
「骸と呼んでくださいと言いましたよ。何度目ですか」
「あ、そうだった。ごめん」
 見つけた鍵と、いつの間にか目の前に立っていた人。雲雀が六道って呼べってうるさいから骸のことを六道と呼ぶけれど、肝心の骸は骸と呼べと言うし。二人が仲がよくないことは私も知っているけど、それにしても私を挟んでまで喧嘩しそうな空気を出すのはやめてほしい。さすがに。
 首を傾げて「いつの間に」と言えば彼は肩を竦めた。「あなたがきちんと帰ったかどうか、見届けろと言われましてね」だから私は眉尻を下げて「帰るよ。すぐそこだもの」と返す。
 20階、エレベータから出たらそこはもうホール。ある扉はただ一つ、私が住んでいるその部屋だけ。ホテルでいうスイートルームってやつだろうきっと。実際スイートルームに泊まったことなんてないから分からないけれど。
 骸はドアのそばにいて、だけどどこかぼんやりしていた。だから私はそれが骸自身ではなく彼の得意な幻影ってやつなんだろうと思った。指輪うんぬんの話はよくわからないけど、彼はそういう特殊な能力の持ち主らしい。
「あなたが帰ったら僕の仕事も終わりです」
「はーい」
 鍵をドアに差し込んでがちゃんと回す。かちかちかちと中で何度か音がしてから鍵が外れた。何重かロックになっているらしく、鍵の形も歪だ。ここまでする必要があるのかどうかと私はいつも首を捻ってしまうのだけど、ここにいてくれと言われているのだから仕方ない。
 扉を開けながら振り返る。骸はそこにいるように見えるけれど、たぶんとても遠い場所にいる。
「それではまたどこかで」
「うん。無理しないでね」
 私がそう返したら彼は小さく笑った。そうしてがちゃんと扉が閉まって自動ロックがかかりかちかちかちと何度か音がして、そうして静かになった。ふぅと息を吐いて顔を上げれば、一人暮らしには広すぎるくらいの空間がいつものように私を出迎える。
 ここ数年で色々ものを増やしてみた。本棚を設置したりビーズクッションをいっぱい買ってみたり新しいソファを置いてみたり。だからこの部屋はだいぶ物で溢れているはずなのだけど、ちっともそんな感じがしない。まだ広すぎる。色々してみたつもりだったけれど、まだまだ空間が残ってる。
「…忘れないうちに」
 サンダルを脱いで部屋に上がって鞄をソファの方に置いて、白い本棚からスケジュール帳を取り出した。
 ほとんど日記になっているものだ。何があったかを書くもの。なら日記帳を買えばいいかとも思ったけど、日記帳に記すほど毎日何かあるわけじゃない。だから私はスケジュール帳の小さな欄にその日あったことを書く。
(今日は、フランと電話)
 ぼすとソファに座り込んでかちかちとシャーペンをノック。かりかりと書き込みながら暮れていく陽に気付いて顔を上げた。
 夕陽。眩しい。
 すごくきれいな景色のに、どうして、ここはこんなにも。
(……一人。だけど。一人じゃない)
 かり、とスケジュール帳にシャーペンで綴った文字。ぱたんと閉じてからソファに背中を預けて目を閉じた。
 閉じられた世界。そこで息をする私。だけど嫌じゃない。嫌だったらとっくにそう言ってる。
 私も自分でこの道を選んだのだ。世界の裏側、微々たるところを占めることを。
「あ。ご飯のスイッチ」
 ぱちと目を開けてぱたぱたキッチンに駆けていけばやっぱり忘れていた。あー私の馬鹿と思いながら早炊きのスイッチを押した。タイマー入れるの忘れてた。前にもやったのに、私も学ばないやつだ。
「今日は何にしよっかな。残ってるのはー」
 がちゃんと冷蔵庫を開ける。それから気付いてテレビのスイッチを入れる。壁掛けの大きな画面に色が灯って『だからなんだって言うんだよっ!』とかサスペンスっぽい番組を映し出す。適当に番組を変えて冷蔵庫からお肉の残りと野菜の残りを引っぱり出した。今日はあり合わせで食材の残りを片付けよう。新しく頼んでみたスパイスの味も試してみたいし。
 そのうちソファに放置している携帯がピピピと音を立てた。メールの着信だ。だから包丁の手を止めてぱたぱた駆けていけば鞄の中で携帯が点滅して着信を示していた。汚れてない方の手でぱちんとフリップを開いて確認すれば友達からのメール。
 彼氏と喧嘩した〜という文面に私は思わず吹き出した。相変わらずだなぁと思いながら一通り文面に目を通してぱたんと携帯を閉じる。あとで返信しよう、今はご飯の準備。
 流れるテレビの音。いつもの部屋といつもの時間、いつもの場所。
 私は今日もここで息をする。

かごのなかのとり