許されたいと
ひたすらに叫ぶのだけれど

 ああ壊れてるな。改めてそう認識したらなんだか笑えた。全然笑えるような場面じゃないっていうのに。
 珍しく相手がまぁヤリ手で、自分にしては少々てこずった。ここまで至るのに久しぶりに時間をかけたから、だから今この口元は笑みを形作っているんだろうか。自分のことなのによく分からなくて暗闇の中じっと目を凝らしてそれを見つめ続けていると、「いつまでやってるの」と背中側から声。肩越しに振り返ると夜の街のライトを背景に女性のシルエットが一つ視界に映る。
「何でしょう。何となくおかしくて」
「…お仕事終わり。帰るよフラン」
 嘆息したような息を吐く音がして、視線をシルエットから外してもとに戻す。モノクロの視界にたった今仕留めた獲物もとい標的が転がっている。きれいにすっぱり首の動脈を切ってあげたから痛みは一瞬だったろう。そのくせものすごい激痛を今でも受けているっていうみたいなこの絶叫顔。やっぱり笑える。
 ああ、あまりに無様な死に様で、それが笑えるんだろうか。自分のことなのにやっぱりしっくりこない。一体何がおかしいから口元が笑ったままなんだろう。
「フラン」
 強く呼ばれてふうと吐息してからだんと弾みをつけて立ち上がる。「はい行きますから、怒んないで下さいよー」ふざけたようで感情の抑揚に欠ける声が自分の口から出てくる。何となく残念だ。街の明かりを背景にモノクロのシルエットでしかなかった姿に色が灯り、よく見知った顔を判別できたときにはもう自分の口元から笑みは消えていた。それもまた残念だ。
 黒いハンカチを手にしたその人が頬を拭ってきた。「マイナス点。返り血は浴びないのが基本」「すいません。首をスッパリ切ったもんですから量も半端なくてですね、」「言い訳はよろしい」ぐいと頬をつねられてもあまり痛いって顔はできなかった。自分について残念な点を挙げれば多々あるのに、その人はこっちに向かって仕方ないなぁというふうに笑ってみせる。
 笑ってみせるのに。それがただの商業用の笑顔でも、紛れもなく笑顔の一部であって、間違いなく笑いかけてもらっているのに。それなのにどうして同じように笑って返せないんだろう。
「ふぁい?」
「任務です。私と」
「ふぁいふぃんおおふぃふぇすふぇ」
「さっさとそれ食べる」
 パスタをむぐむぐ頬張っていたところにその人はやってきた。あの夜と同じようにスーツだった。ごっくんと口の中のパスタを飲み込んで「それ以外着ないんですか?」と気になったことを訊いてみたところ眉間に皺を寄せて返された。「仕事着です」「でもいつも同じものだと外で感付かれたり」「同じとか言うな、細部が違います」「はぁ」なんと言うか女性らしいこだわり方というか。同じ立場だったらめんどくさいからがらっと雰囲気変わるものを着て仕事しそうな気がする。その辺にいるだろうガキに混じれるようなパーカとジーンズとか。
 ずるずる連行されながらああ歯を磨く暇がないなぁとぼんやり思った。このまま仕事か。めんどくさいなぁ。
「せんぱーい」
「何かな後輩」
「ちらっと、一分くらい歯を磨く時間をくれると嬉しいんですけども」
「……通りにタクシー、黄色いの呼んでおくから。走ってくること」
「はーい」
 ラジャ、と手を挙げてその人の手から逃げ出す。適当な洗面所に駆け寄ってからごそごそポケットをあさって折り畳みの歯ブラシを組み立ててしゃこしゃこ歯を磨く。
 鏡に映っている自分はいつも通りの無表情だった。ああちょっとだけ気だるそうかも。めんどくさいって空気が出てるかも。だけど感情の出てる顔って言えるほど露骨にそういう顔をしてるわけでもない。
 なんだかなぁ。色々残念だな自分。本当はあの人と仕事ができること、ほんの少しだけ嬉しいくせに。
(今までで一番まともなフツーの人だったから? 仕事のできる人だから? 女の人だから? もっと別の理由…?)
 はて、何だろう。首を捻って鏡を見つめていたところから歯磨きを再開、すぐにうがいして洗面所を出た。早く行かないとあの人時間にうるさいんだった。
 黄色いタクシー黄色いタクシーと走りながら襟首のリボンを結んでそれらしき車に飛び乗る。全力疾走したので多少息が上がっていた。ぱたぱた手で自分を仰ぎながら「すいませんお待たせしました」「三十秒オーバー」「大目に見てくださいよー歯磨きなんですから」「はいはい」すっと伸びた手が首筋に触れた。指先の体温が首にあるリボンを解くのが分かる。
「歪んでる」
「走りながら結んだもので」
 何となく、その僅かな平穏な時間の間、その人を見つめていた。
 仕事のできる先輩、よく一緒に仕事をする人。その後輩に当たる自分。いつかどちらかがその立場からこぼれ落ちていくんだろうか。自分か、それとも彼女が。
 景色の流れていくタクシーの窓の向こうに視線を投げる。
 何となく残念だと思った。何が残念なんだろう。
「ん、よし」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 景色に投げていた視界の中でその人が笑う。笑った顔に笑って返すことができない。そんな自分がすごく、残念だった。
「…終わり、かぁ」
 ぽつりとそうこぼしたのは、夕暮れが迫った赤い空が見えている頃だった。
 自分の格好を見下ろしてみる。返り血、なし。指紋の類の痕跡もなし。よし、これならきっとマイナス点はない。
 ああ疲れたなぁと思いながら肩をぐるぐる回してその場に背中を向ける。息をする誰かがいなくなった死者累々の場所には慣れてしまっているせいか、特に何かを思うこともなかった。任務、つまり仕事に感情を抱くだけここでは無駄なのだ。そう学んだ頭でざくざく地面を踏み締めているうちにふと気付く。
 何か違和感。何か。
(先輩。は?)
 仕事のできるあの人がいない。いつもならこっちの仕事を見届けるみたいにどこかにいるくせに、いない。
 ざくと土を踏み締めてきょろきょろ視線を動かす。空に影はなし、建物にも人がいる感じはしない。さすがに地中は除外するとして、あれ、じゃああの人一体どこにいるんだ。
 フラン、上手くやるのよ。あの人がそう言ったのにはーいと返事を返して別れた。いつも通りだった。どくと一つ心臓が騒ぐ。ざわざわと頭の中が嫌な感じに騒いでいる。まとまりがなくなる。心があるのなら、それさえもざわざわと揺れ動いている気がする。
「先輩?」
 走りながら声を出して呼んでみる。最悪誰かしら残ってた場合こっちのことが丸分かりだと覚悟しつつ、あの人を探して誰もいない路地裏を駆け抜ける。「せんぱーい」間延びした声に感情が込められない。もうちょっとこう切羽詰まった感じにならないものか。頭の中はこんなに沸騰しているのにどうして感情が表に出ないんだろう。ずっとこんな調子だからあの人はときどき困ったような顔をしてることだって知ってるのに、どうしてこんな残念なままなんだ自分。
「先輩っ」
 さっきより声を上げる。別れた場所まで戻ってもやっぱりいなかった。もう探すしかないと割り切ってジャケットの上着のボタンを外す。形のある服はこういうときめんどくさい。今度はパーカとジーンズで仕事してやる。
「先輩っ!」
 声を張り上げる。後半が掠れた。普段声を上げることがないせいだ、多分。
 それで走っていった先で一つ気配を察知してブーツの底でブレーキをかけて踏み止まる。ポケットのナイフに手を伸ばして抜き放ったところで路地の角から影。見知ったスーツの。ぐらりと傾いだ姿に反射で片腕を伸ばして抱き止めて、ナイフが手から落ちてからんと音を立てた。
「先輩」
「声が、大きい後輩。残党がいたらどうするか」
「すいません。いつもならとっくに終わらせてるから、その、悪い想像ってものをして」
「はは。遠からず当たりー…ちょっと失敗したわ」
 利き腕を押さえている先輩は冷や汗をかいていた。自分のジャケットを脱いで落ちたナイフで肩から下をびっと切る。切った部分でとりあえず先輩の腕を縛った。血を止めないといけない。とりあえず止血。それからこの状態だとタクシーは無理だから本部に連絡して応援を。
 壁にもたれかかった先輩がらしくない笑い方をした。「私も歳ねぇ」なんて言うから「そんなことないと思います」と返して携帯を取り出す。
 内心ほっとしていた。最悪、死んでいるんじゃないかと思った。生きてた。よかった。
「先輩」
「んー?」
「ミーはまだこの先も先輩と仕事がしたいので、怪我をしてもらうとすごく困ります」
「…フランさ、もしかするとちょっと怒ってる?」
 指摘されてふと自分の顔を気にした。そのタイミングで耳に当てていた携帯がぷつと音を立てて通話を繋げる。彼女が無事だった、たったそれだけの事実を確認するともう騒ぐことをやめてしまった心臓や頭や心を疎ましく思いながら「こちらフランです」と吹き込んで、それから通話口を押さえた。
「怒るというか。心配、したんです。きっと」
 ぼそぼそそう言ってから立ち上がる。かなりぼそぼそっとしか言えなかったためか先輩はきょとんとした顔をしていた。もしかしたら聞き取れなかったのかもしれない。でもそのくらいが今の自分の限界だった。くるりと背中を向けて赤い空の景色を見上げる。
 今の自分にはこのくらいが精一杯。
 じゃあもう少し未来の、たとえば半年後とか一年後もここに自分が存在するとして、隣にあの人がいてくれるなら。もっと上手に、生きていられるだろうか。感情を思い出せるだろうか。あの人みたいに笑顔を取り戻すことも、できるんだろうか。