私にはお兄ちゃんがいます。
 と言っても血は繋がってません。お兄ちゃんは『マフィア』というのを仕事にしているすごい人で、私のことは『ついで』に拾ってくれただけです。
 路地裏に転がっている子供なんてたくさんいる場所でした。飢えている子供や帰る場所のない人、捨てられた子、そんな人が集る場所でした。
 お兄ちゃんはそんな場所にも慣れていたのか、今しがた人を殺した手で、無造作に私の手を取りました。
 空腹で意識がぼんやりしていた私は、揺れている視界でどうすることもできずに、手を引っぱられるまま前のめりに態勢を崩して、お兄ちゃんに受け止められました。
 そのまま私を抱き上げて、あとの誰にも手を差し伸べることなく、お兄ちゃんはその場所をあとにしました。
 お兄ちゃんがどうしてあのとき私の手だけを取ったのか、今となっては分かりません。
 お兄ちゃんにきいてみても『ついで』という言葉が出てくるだけで、他には何も言ってくれないのです。
 だから私はそのことについてしつこくきくことはもうやめにしました。
 私よりも年上だから、お兄ちゃん。私のお兄ちゃん。名前はお菓子みたいにやわらかい響き。
 お兄ちゃんは仕事から帰ってきて、いつも食べ物を買ってきてくれます。おかげで私は空腹を満たすことが当たり前になりました。
 お兄ちゃんは今日も仕事です。帰りが遅くなるかもしれないからと、私にいくらかお金を預けて行きました。
 それでパンや野菜を買いに外へ行くべきか迷って、私は結局ダンボールにたくさん入っているレトルト品やカップ麺を食べることを選んで、お兄ちゃんの帰りを待ちます。
 まだ外がこわい。外に出るのはまだ少しこわい。お兄ちゃんがいてくれるなら大丈夫だと思うけど、一人ではまだこわい。
 それに、お兄ちゃんが何か買って帰ってきてくれるかもしれない。そうしたら私、お兄ちゃんの買ってきたものが食べたい。だからこのお腹は、余裕を持たせておくのです。空腹には慣れてしまってる私は全然大丈夫。どれだけ待つことになっても、お兄ちゃんが帰ってきてくれるなら全然大丈夫。
 だから私は、お兄ちゃんが帰ってくるまで、この部屋で、あのドアが開けられるのをただ待っているのです。
 なんだか妙なことになった。それに気付いたのは少ししてからだった。
 おかえりなさいお兄ちゃんと満面の笑顔で出迎えられて、適当に買ってきたドーナツの箱をその手に押しつけてただいまと言ってばたんと扉を閉める。
 これ何? おいしいもの? と瞳をきらきらさせているにひらひら手を振ってどこにでもあるドーナツだけど、食べたら。色んな味と食感があるからと説明すると、はさらにきらきらした瞳で箱を開け始めた。それを横目にばさりと上着を脱いでふうと息を吐く。今日も肉体労働お疲れ自分。
 それなりに疲れているものの、帰りを待ちわびていたんだろう子を無遠慮に追っ払うこともできない。ベッドに腰を下ろして、ドーナツを白い皿に並べて白いカップにカフェオレの準備をしているの姿を視界に入れて頬杖をつく。
 うん、だいぶ健康的になってくれた。よかった。死にかけの土気色の顔をしていたときはもう手遅れかと思ったけど、生命力は強いらしい。それは何より。
 お湯が沸けて、コーヒーの香ばしいにおいが部屋中に漂った。こっちを振り返ったがお兄ちゃん、砂糖入れる? と訊くからどちらでもと返した。は砂糖を入れたい気分だったらしく、たっぷり小さじ二杯入れた。それ、絶対甘い…ドーナツも甘いっていうのに。
 ドーナツを並べた皿と完成したカフェオレのカップを持ってこっちにやってきたがはいどうぞとカップを差し出す。どうもと受け取ると彼女が隣に座り込んだ。ベッドの軋む音と、カフェオレの香りが鼻をくすぐる。
 食べてもいい? わくわくした目でドーナツを見つめる彼女に肩を竦めた。どうぞ、食べて。そうでないと買ってきた意味もないし。言いつつ黒っぽいやつに手を伸ばして自分でもかぷと一口。うん、甘い。
 ベッドから浮いた足をぷらぷらさせている、なんでか拾ってきてしまった女の子は、なんだか幸せそうな顔で甘いね、おいしいねとドーナツを口いっぱい頬張っている。

 歳は僕より下、くらいしか分からないけど、そもそもどうして拾ってきてしまったんだろうか。掃き溜め場で処理されるのを待ってるだけの人になれなかった人がいる場所で、標的が逃げようとしたのを追い詰め殺してちょうどいいから死体をそこに放置した。どうせここにいる人はみんなそのうち死ぬ。こうなる。それで終わり。
 こっちを見てる目に気付いて顔を上げると、がりがりに痩せて今にも死にそうな顔をした女の子と目が合った。
 このままここにいるのなら、君もそのうち死ぬだろう。
 がりがりに痩せた身体、こけた頬、ぺったりと力を失った髪。汚れた皮膚。
 それでも手を伸ばして、汚れた手を取った。まだ生きている。だから体温がある。
 ここでこのまま死なせるのは惜しいとでも思ったのだろうか自分は。そんな子供掃いて捨てるほどいたあの場所で、どうして気紛れに、あの手を取ってしまったのだろうか。
 特別後悔しているわけでもないけど、まぁなんでこんなことになったのかなと今でも疑問に思ったりするわけで。
 ともあれ、あの場所から連れ出し、僕は彼女に生活環境を与えた。衣食住に困らない、彼女の今までを鑑みればまさに夢天国を。栄養をつけお腹を満たせるようになり、彼女は生気を取り戻した。連れ帰った当初に比べればがりがりはマシになったし、定期的に甘いものとか高カロリーなものを食べさせてやればもっと健康的になれるはず。

 そんなことを考えつつ適当にドーナツを食べてカフェオレをすすって、五つ買ってきたから当然残った。結局一つずつしか食べなかったから残り三つは明日行き。朝からドーナツを食べて仕事に行く気にはなれないんだけど、あまり押しつけすぎてもいけないし、しょうがないから明日も食べよう。うん、今度は違うものを買ってくるって自分に誓う。
 お兄ちゃんと呼ばれてマグカップの中身をゆらゆら揺らしながらうんと生返事。少しの沈黙に視線をやってみれば、何か考え込むようにカップに視線を落としているがいる。
 何? と続きを促すとはっとした顔でが笑う。
 あのね、変な話ね。幸せすぎて私、不安。ぽつりとそうこぼして彼女は黙った。黙ってカップのカフェオレを飲み干す姿を見つめてから考える。
 妙なことになったと自分でも思ってるけど、その気持ちは少なからずに影響を与えているのかもしれない。
 衣食住を与えることだけが生かすってことじゃない。僕は彼女をどうしたいのだろう。別にこき使いたいから連れ帰ったわけじゃないし、がりがりに痩せた子に抱く欲望もないし。そういう趣味も別にないし。じゃあほんと、使いたいから連れ帰ったわけじゃないのなら、僕はどうしてこの子を連れて帰ってきたんだろうか? 捨て犬や捨て猫のつもりで気紛れに拾い上げたとでも?
 同情だろうか。確かにあの境遇はお世辞にも笑えるものじゃなかった。彼女が哀れだと思ったのだろうか? それはまぁそうかもしれない。でも別に、それだけで手を取る理由にはならないような。
 つまるところ。結局なんで拾ってきたのかいくら考えても理由は定かではないけど、後悔らしい後悔もしてないし、まぁいいか。ってところで思考を中断する。
 、と呼んでみる。なぁにお兄ちゃんと丸い目で見上げられて返事が返ってくる。手を伸ばせば艶の戻った髪が肩辺りで不揃いに揺れた。今度は理髪店とか連れていかないといけないなぁと思いながら僕は、今がまんざらでもないよとこぼすと彼女は笑った。空のカップを手離したが僕の腰に腕を回して抱きついてお兄ちゃん大好きと言う声が耳に届く。危うく手元が狂ってカップが落ちるところだった。危ない。
 が僕のことをお兄ちゃんと呼ぶのは、恐らく親しみとか色んな思いがこもった理由からだろうと思うけど。別に血は繋がっていないし、家族、でもないし。これから家族になるんだから別にお兄ちゃんでも全然支障はないんだけど、どこかしっくりこない。なんでだろう。
 片手で彼女の頭を撫でる。艶の戻った髪は触れていて心地いい。
 僕も、のこと好きだよと。嘘なのか本当なのか分からない言葉をそれでも口にすると、くすくすとが笑った。嬉しそうな、幸せそうな、思わずこぼれた、そういう笑いだった。
「今度休みが取れたら、髪を揃えに行こう。このままだとちょっと格好つかないし」
「変? 自分で切った方がいい?」
「切ってもらいに行くんだよ。そういう専門の職業してる人がいるから」
「へぇ…お兄ちゃんも切る?」
「僕はまだ。その間ちゃんとついてるから大丈夫」
「うん。知らないところは、まだこわい」
「うん。分かってる」
「お兄ちゃんがいないと外も、あんまり、こわい」
「うん」
「買い物、今日行ってないの。ごめんなさい」
「いいよ。無理に外に出ることないから」
「うん」
「…寝ようか?」
「うん!」
「歯磨きしてね」
「うんっ」
 ようやく僕から離れたが洗面所に歯磨きに行った。離れた体温にほっと一息吐いて胸を撫で下ろす。
 寝ようかって、それだけ聞いたらアホが勘違いしそうな言葉だったなと反省。純粋に眠るだけだし、ベッドが一つしかないから仕方がないし。狭い部屋にはソファを置くスペースがないから本当しょうがないんだ。
 ぐいとカフェオレを飲み干してカップ二つをシンクに置いた。自分の方も歯磨きをするべく洗面所に行く。教えたとおり歯磨き粉をつけてしゃこしゃこ歯磨きをしていると鏡越しに目が合った。にっこり笑いかけられて、呆れたような諦めたような笑いを返してると思った僕は、自分で思っているよりはずっと自然に笑っていた。鏡に映るそんな自分を見てすぐ笑みが消えてしまうわけだけど、は変わらずにこにこしている。そうするとなんというか、また口元が緩んでしまうわけだ、僕は。
(家族、かぁ)
 歯ブラシに歯磨き粉をつけてしゃこしゃこと二人並んで歯を磨く。
 うん。まぁ、悪くはない。かな。