自分が被り物をするようになった理由は単純だった。幼馴染の女の子が被り物をしていたからだ。その子が周りから浮かないようにと隣にいる自分も被り物を始めた。そうしたら二人で遊んでいるように見えるだろうと思った。
 幼馴染はいつも果物の被り物をしていたから、自分もそうしよう、とりんごを選んだ。その辺にある果物であり手本がいっぱいあったから、作るのにそう苦労しなかった。
 幼馴染はいつも帽子を被るように被り物をしていた。頭をすっぽり覆うような大きなものを被って、ときおり頭を重そうにぐらぐらさせつつ、今日は梨っぽい被り物を被って木の影でぼんやり空を見ていた。
「何してるんですか」
「…フラン」
 重たそうに被り物の頭を動かしてこっちに顔を向けた彼女の頬が少し腫れていた。それに気付かないふりをして隣まで行って座り込む。
 草原はちくちくとして半ズボンにはくすぐったく、彼女も同じなのだろう、ワンピースから覗く足を叩いたりかいたりしていた。夏場だっていうのにしっかりと黒いソックスで素肌を隠している。それでもくすぐったいものはくすぐったいようだ。
 重たそうな被り物の頭をこてっと俯け、「ねぇ、私の頬腫れてる?」と小声で訊ねてくる。浅く頷くと彼女は深く息を吐いた。
 どうせ父親にやられたのだろう。いや、母親かもしれない。彼女の両親は不仲なのだ。離婚が噂されるほどには。
 だから家から抜け出す。なるべく朝から夕方まで、時間が許す限り外をぶらついて、仕方がなくなったら家に帰る。はずっとそんな生活をしている。
 ワンピースから覗く黒いソックスの下の肌は青紫になっている箇所がいくつもあり、擦り傷もある。細い腕も同様で、今日は昨日なかった切り傷が増えていた。しっかり長袖を着込んでいても分かる。さっきから隠すようにしている右の手の甲に傷があることくらい。
 彼女が被り物をするのも同じ理由だ。きっとひどいことになっているのだろう。髪の長さがばらばらだったりするのかもしれない。それが嫌だからこんなふうに重たいものを被っているのだ。
「…離婚の噂、たくさん聞きますけど」
「うん」
「そうなったら、はどうなるんでしょーね」
「どうなるかな。お父さんとお母さんが別れるのは当然だと思うけど…私、どっちにもついていきたくない」
 でも、だからって、どうしようもないよね。諦めたように笑う彼女を見ていると、胸が苦しかった。
 君も、隣にいる僕も、まだ年端のいかない子供だ。自活することなどおろか金銭を稼ぐことも難しい年齢の子供。そんな子供が二人いたところで、将来など暗いものしか浮かばない。
 僕はまだいい。物好きなおばーちゃんが面倒を見てくれている。両親がいなくても問題ない。森の中だし質素な生活だけど、それなりにやっている。
 でも彼女は。は。近付いている破局の音に胸を震わせ、心を震わせ、日々の八つ当たりである暴力にも耐えて、感情のはけ口にされていることに耐えて、耐えて、耐えて。それで彼女に残るものは一体なんだろう。
 …現実が痛くて、二人で口を噤んだ。
 彼女のことを助けられない自分に唇を噛む僕と、近い破局を感じて未来を憂う彼女と。そんな二人の幼子が寄り添って、寂しさと悲しさと悔しさと苦しさと、様々なものを織り交ぜて手を握り合った。お互いに縋るように。
 次の日になって彼女が森に来なかったことを不審に思った僕は、山を下りた。彼女を探して麓の小さな町に行き、りんごの被り物を被った頭をあっちへこっちへやって家々を覗き、たまに聞き込みをして被り物をしているだろう女の子の家を割り出した。
 辿り着いた家は町の隅にあり、狭くてぼろっと汚い感じの一応一軒家だった。
 最近は怒鳴り声や物のぶつかる音、割れる音などが絶えないという家からは、不思議と何の気配もしない。
 嫌な予感がした。ひやりと背筋の寒くなる悪寒がした。
 ノックなんて上品なことをせずにドアノブに手をかけると鍵がかかっていた。当たり前といえば当たり前だ。次に一階にある窓全部を見て回ったけれど全て鍵がかかっていた。中に人が見えないことを確認して掌大の石を拾い、Tシャツにくるんでぶんぶん振り回してから窓ガラスに叩きつけた。それなりの音はしたけどそれで誰かが駆けつけるということもなく、割れた窓から慎重に手を伸ばして施錠を外し、Tシャツを着直す。
 思い切り他人の家に侵入しているけど、どうでもよかった。今肝心なのはの安否だ。
 いや、否だなんて。そんなこと考えたくもない。
 一階に人がいないことは分かっていたから二階へ駆け上がった。部屋の扉は三つ。一つが開いていた。そこを覗くと、人が死んでいた。あれは父親の方だろう。どうやら酒瓶で頭をめった殴りにされて死んだようだ。
 死んでいるという現実は想像通りでもあり、嫌な予想が当たったということでもあった。
 死んでいる人間のことなんて意識からすぐ外し、残り二つのドアを開け放つ。
 二つめの部屋は空。なら三つめの部屋は。
 扉を開け放つ。ベッドに人がいた。被り物を取っている彼女がいた。被り物の下の髪はやはり長さがバラバラで、ところどころ頭皮が見えていた。
 そんな彼女が首を絞められていた。絞めているのは母親だった。泣きながら訳の分からない言葉未満の声をぶつぶつと漏らしながらひたすら彼女の首を絞めていた。
 そこで、感情の、理性の箍が外れる音が頭の中に響いた。
 いつも気にかけて制御している自分の呪わしい力が標的を定めて襲いかかるのを、僕は止められなかった。
 に手をかけた。それがたとえ彼女の家族でも、関係ない。僕からという光を奪うつもりなら容赦はしない。
 想像の槍が、物質的な質量を伴って銀の矛先を得、きらりと一瞬だけ鈍い光を反射させて母親の身体を横から貫いた。
 想像の斧が物質的な質量を伴って空中に出現し、音もなく振り下ろされ、彼女の首を締め上げていた二本の腕を切り落とした。
 最初の一撃で心臓ともども胸部を貫かれたそれは絶命していた。それでも彼女の首を絞める腕があったから切り落とした。
 血の洪水を浴びながら駆け寄れば、彼女は意識を失っていた。焦る動悸で脈を確認する。弱々しくは感じるけれど生きていた。そのことに心底ほっとして強張っていた身体から力を抜けば、標的を探して漂っていた槍と斧は消失した。
 依然として血を流し続ける、さっきまで生きて彼女の首を絞めていた死体に目を向け、血だらけの自分を顧みて、血で汚してしまった彼女を見て、自分の力を使った。普段は封印している異端児の力。異能者の力。忌避されるその力を使って彼女と自分を通常通りの見かけに装い、彼女の頭にはちゃんと被り物をして、死体二つが転がる家をあとにした。
(人を殺した。そう分かっていても、あまり何も思えない)
 幼馴染を背中に担いで山道を一人登りながら、考えた。
 特異と言われ、人間じゃないとさえ忌避される自分の力と、自分自身のこと。幼子が持つには大きい力のことを。
 今この背中にある温もりを守るためならなんだってするつもりでいた。そう自分に誓っていながら、決定的な場面が訪れるまで、僕は彼女を本気で守ろうとしなかったし、本気で彼女の両親をどうにかしようと考えなかった。
 …少し怖かったのだ。自分の力のことももちろんだけれど、唯一の幼馴染に、僕に笑いかけてくれる子に、否定されるのではないかと。この力を見せた瞬間に僕は拒絶されるのではないかと恐れたのだ。だから躊躇った。こんなぎりぎりまで。
 馬鹿みたいだ。どんな恐れだって、君を失うことに比べたら取るに足らないものであったはずなのに。
 道の途中で、いつも足を浸して遊ぶ泉に寄った。そこで自分の返り血をだいたい洗い流し、Tシャツを濡らして彼女についてしまった赤色もだいたい拭った。脈を確認する。大丈夫、息はある。
 少し休憩してからまた彼女をおぶさり、山道を登り始める。
 女の子一人を背負っているだけなのに自分の足の重いことにちょっと絶望した。今度からもっと筋肉をつけるトレーニングをしよう。これじゃあ将来モヤシっこにしかなれない。
 さらに三十分くらいかけてようやく家に辿り着き、おばーちゃんには適当に事情らしいものを説明して彼女を部屋に上げた。
 軋む音を上げる古いベッドに彼女を横たえ、ちらりと階下のおばーちゃんの様子を窺う。世話好きなあの人のことだからそのうち部屋にやってくるだろう。それまでにしておくべきは、洗っても血色が滲んでいる服の着替えか。
 どこにでもあるTシャツと半ズボンを脱ぎ捨てて着替え、彼女の分の服を用意した頃におばーちゃんがやってきた。
「何か手伝うかい?」
「着替え、これです。やってあげてください」
 ベッドの傍らに置いた着替えを示しておばーちゃんにあとを任せ、後ろ手に持っていた血の滲んだ服の始末をしに外に出た。
 いやに頭が冷静だ。まだ10にもならない子供のすることじゃないのにな。
 スコップで適当に掘った穴に服を落として埋め、家に戻る。ちょうどおばーちゃんと行き会った。「汚れてるようだし、つけ置き洗いでもしようかね」と彼女が着ていたワンピースを示すので、浅く頷く。それまでは気にかけて幻覚を纏わせ続けておこう。
 部屋に戻って扉を閉め、一つ息を吐く。
 は眠ったままだ。
 そっと近付いて、首に指を当てる。脈を確認すれば、とく、とくと規則的に鼓動していることが伝わってくる。
 …ついさっき、この命を失うところだったなんて。考えるだけでぞっとする。
 絞められた痕のあるどこか赤い首。治れ、治れ、と念じながらそっと、労るように、細い首を撫でる。
 は僕に唯一笑いかけてくれた子だ。ひねくれたような敬語で話す僕にも笑ってくれた子だ。彼女が被り物を始めてから真似してみたらおかしそうに笑って泣いてありがとうと言ってくれた子だ。友達なんていなかった僕に色々なことを教えてくれた。僕の狭い世界の中で、箱のような世界の中で、彼女だけが陽の光だった。
 昨日よりも傷の増えた頬をそっと撫でると、痛みがあったのか、閉じられたままの瞼が震えた。やがてうっすらと目を開ける彼女の顔を覗き込む。「」と呼べば、ぼんやりした顔の彼女が僕を見上げた。
「ふらん…?」
「そうですよ」
「……わたし、いえ、で。いえに、いて…」
「今日は森に来なかったから、心配して家に行ったんです」
「ああ……」
 そうなの、とこぼした彼女が目を閉じる。ぽつぽつと雨粒が窓に当たるような微かな声で「じゃあ、おかーさんとあったの」と言われて僕は閉口した。
 会ったというか、殺してしまった。素直にそう言ったら彼女はどんな目で僕を見るだろう。
 ぽつぽつとした声で彼女は言う。疲れた声で、掠れた声で、「おかーさん、おとーさんのこと、ころしちゃったよ」と。「知ってます」と言うと彼女は薄目を開けて僕を見た。僕の顔をじっと見つめて「わたしも、おかーさんにころされるところだった。フランが…たすけた、の?」僅かに首を捻った彼女にやわらかく笑いかける。平気な顔で「そうですよ」なんて言う自分が汚いと思った。
 間違ってはいない。助けたかったから殺した。そうでなければが死んでいた。
 じっと僕を見つめる彼女が薄く唇を開く。「おかーさんは?」と。僕の視線は少し惑って部屋を彷徨う。
 正直に。話したとして。拒絶されたら、どうすれば。
 …だけど。いつまでも隠し事をしていたくない。いつまでもいつまでも持って生まれた力のことを疎んでいたくない。
 今日この力でのことを助けた。助けられた。そう思えば少しでもこの異能を肯定できる気がするんだ。
「殺しました」
 ぽつりとこぼした言葉は平坦で、自分に似合っていると思うくらい当たり前の響きをしていた。
 彼女はじっと僕を見つめ、やがて諦めたように笑った。「そう」とこぼしてごろんと寝転がってベッドを軋ませながら起き上がり、母親に絞められた首に手をやりながらもう片手を僕に伸ばして、触れる。僕の手に。昨日と変わりないように僕の手に触れて「ありがとうフラン。助けてくれて」と言ってくれる。笑ってくれる。僕のしたことを否定せず、僕を拒絶せずに、肯定してくれる。
 ほっとした。すごくほっとした。本当に安心して気が抜けた。
「……びっくりすること白状してもいいですか?」
「うん」
「ミーはこういうことができるんです」
 頭に触れずにりんごの被り物を消し去ってみせると、彼女は目を丸くした。もう一度被ってみせるとさらに驚いた顔をして目を瞬かせた。「え、手品?」と目をこする彼女に思わず笑ってしまう。
「手品じゃありませんけど、似ているのかな。こういうこともできます」
 強く思えば想像の物質化さえできるところを見せても、彼女は怖がることはしなかった。不思議だって顔で見ていたり僕が作ったガラスの鳥に触れたりと、興味を示すことはあれ、理解しようとあれこれ質問することはあれ、拒絶することはなかった。否定することはなかった。
 子供故の幼さで、子供達故の心で、僕らは寄り添った。お互い以外に頼れるものも縋れるものも存在しない哀れな子供達。それでも、もう不幸だとは思わない。そう決めた。
 子供が二人で寝ればそれなりに狭いベッドに並んで、僕の幻覚で色々と遊んだ。

「これはなぁに? すごい、手品だよフラン」
「そう、かなぁ。そうでもないですけどね」

 褒められていると分かって照れてしまう僕は子供で、まだ自分の能力の稀有さなどには気付いておらず、ただ、唯一の幼馴染に受け入れてもらえたという事実で幸せに浸っているような、そんな子供だった。
 彼女は自分を助けた幼馴染の男の子に人とは違う力があると知り、知ってもなおそばにいることを選んだ、そんな子供だった。
 その日はおばーちゃんと僕ととの三人で食事を取り、片付けを手伝い、たっぷりのお湯で順番にお風呂に浸かり、部屋に戻って、同じベッドに入ってくっつくようにして眠った。
(僕にはが必要だ。がこれから生きるためにも僕は必要だ。僕は、君を守りたい)
 人を殺すことのできる力を持つ自分の掌を掲げ、隣で寄り添うようにして眠る彼女の長さがばらばらの髪に指を絡めた。
 きちんと長さが揃うまでかなりかかるだろうけど、いつかはきれいな髪になる。
 新しく増えてしまったその傷も、古い傷も、時間がたてばきっと癒えるから。
 …僕らは幼い。分かっている。見えているものと見えていないものがある。分かってる。
 それでもこの手を離したくない。
 そのためにできる全てをやると、僕は決めた。
 それが殺すことでもいい。騙すことでもいい。誤魔化すことでもいい。僕の光が残るのなら、なんだってする。
 小さな僕が大きな決意を固めたその夜は、月が青白く丸くて大きかった。
 世界は何事もなかったように時間を刻み、こんな幸せな夜にもやがて朝は来る。
 それまでは君のことをぎゅっと抱き締めていたくて、眠っている君を抱き寄せて、長かったり短かったりする髪に顔を埋めた。