僕には幼馴染というのが二人いて、揃って同い年。同じ小学校に通い同じ中学校に通い、同じ高校へと進学した。
 一人はユーリといって、人も物も粗雑な扱い方をする、大雑把な、僕とは正反対辺りに位置する男子。もう一人はという女子。僕らと育ったせいか女の子なのに剣道を得意とし、これは主にユーリのせいだと思うけど、喧嘩にも強い。ユーリの奴は話の中で何かと彼女のことを強いだとか何とか誇張するけど、女の子がそんなことを言われて嬉しいものか、と僕はいつもユーリの無神経さに苛々している。
 ユーリの奴は気付いていない。喧嘩に強いと彼女のことを自慢げに話すとき、そばにいる彼女の表情が微妙に曇っていることも、無理に笑ってみせるあの笑顔の理由も、あいつは知らないままでいる。
「失礼しました」
 決まり文句と一緒に職員室を出る。ぴしゃ、と扉を閉めてはぁと一つ溜息を吐いて顔を上げる。廊下の窓の向こうはすっかり陽が落ちて暗くなっていた。
 授業を終え部活を終え、次期生徒会会長に決まったからそっちのこともこれから考えないといけない。世の中不景気だから、少しでもここを出たときの足しになるだろうと思っていることをこなしていると、あっという間に時間が過ぎていく。剣道部の部長をどうするのかって話も来てたけど、さすがにこれ以上は背負えないなと思いつつ部室に向かうべく階段を下りる。
 ぱた、ぱたと校舎用のスリッパが静かな音を立てる。もうあまり生徒も残っていないから、昼間の校舎と打って変わり、世界は静かだった。
 置いてきた鞄を取りに戻ったとき、道場に明かりが入ったままなのに気付いた。まさか消し忘れだろうかと眉根を寄せて掴んだ鞄を持って顔を出すと、ぶん、と竹刀が空を切る慣れた音が聞こえた。部活外の時間にも練習をする生徒がいたのだ。そのことに驚くと同時に、髪を頭の高くでまとめたその後姿に目を細める。
 熱心だなと思ったのは束の間。一年生が練習してるんじゃない。よく見知った姿が竹刀で素振りをしている。

「、フレン」
 びっくりした顔でこっちを振り返った彼女は、まだ着替えてもいない。部活動が終わったのは夕方のはずだし、少し長くなったとしても陽が落ちてしまうまでには切り上げることに決まっている。靴を脱いで道場に上がって「どうしたんだこんな時間まで。明日に響くよ」と声をかけると彼女は曖昧に笑う。「もうそんな時間? ああ、フレン呼び出しってやっぱり生徒会とか?」「そんなところ。さぁ、もう閉めよう。鍵は僕が戻してくるから、君は着替えていてくれ」彼女は何か言おうとしてやめた。肩を竦めて竹刀を下ろすと「はいはい」とこぼして控え室に入っていった。
 ああ、元気がないな。何か悩みでもあるんだろうとすぐに気付いた。気付いたけど、僕はそういうことを上手く訊き出せる自信はないし、すぐ態度に出る。だから気付かなかったということにして自分を納得させて道場の戸締りの確認を事務的に行う。
 三人で木の枝を拾っては打ち合いのまねごとをしていた。そんな昔のことがふいに頭に浮かぶ。
 道場の鍵を職員室に返して、もう一度部室のあるところまで戻る。着替え終わった彼女が僕を待っていて、「ありがとフレン」と言うから「どういたしまして」と返して歩き出した彼女に並んだ。
 二人で並んで帰ることなんて滅多にない。特に彼女は、ユーリと帰ることの方が多いから。

 木の枝でふざけた打ち合いをして、かくれんぼをして、鬼ごっこをして、三人で駆け回って笑っていた頃はどこへ行ってしまったのだろう。
 いつまでもそこにあるかのように思っていたのに、気付けばこれだ。僕はすっかりあの頃の笑顔を思い出せなくなっている。小さく幼かった自分は、どこかへ行ってしまった。

「フレン、疲れてない?」
「え?」
「そういう顔してるよ。今にも溜息吐きそう」
 つん、と彼女の指先が僕の頬をつついた。その指の温度に自分で思うよりずっと驚いていた。人に体温があることなんて当たり前なのに、どうしてこんなに驚いているのか。思考が固まっていて、ことりと首を傾げた彼女の髪が揺れて「フレン?」と再度呼ばれたことではっとする。「いや、そんなことはないよ。僕は大丈夫だ」「…ホントに?」じとりとした目を向けられて、とっさの言葉が出てこない。僕はこういう嘘が吐けない性格だから、疑われると、嘘の潔白は難しい。
「いや…少し、疲れてはいるけど」
「やっぱりね。眉間に皺寄ってるよ皺。ほらそういう顔しない」
 ぐりぐりと眉間を指で解される。その感覚にさえなぜか驚いている僕がいる。
 昔は手を繋ぐことなんて当たり前みたいに、三人でじゃれ合っていた。幼馴染だった。今でもそのつもりだけど、僕らの間には少しずつ見えない溝ができている。だから僕は彼女の体温にさえ驚いてしまうほど、彼女のことを忘れてきて、しまってる?
 ぐりぐり眉間を解す手をぱしと握る。体温が分かった。竹刀を持つ肉刺のある指が分かった。きょとんとした顔をした彼女が「ごめん、怒った?」「…いや」ゆっくり手を下ろして離す。ついこの間ユーリを交えて三人で手を繋いで帰った日があったことを思い出した。僕はユーリのようにはできないな、とふと思う。いつもぶつかり合ってお互いの短所だけを指さしているけど、僕だってユーリの長所くらい分かってる。だからこそ、自分にないものを持つあいつとぶつかってしまうのだとも。
 授業や部活動、これからは生徒会のことも頭に入れて、そのうち卒業とその先のことさえ考えないといけなくなる。
 僕の頭の中に彼女がいられるだけのスペースはあるのだろうか。目の前に課題を山積みにされてそれをこなしているうちに、繋いでいたはずの手ははぐれてしまった。
 一度離した手。隣を歩く彼女が「お腹空いたなぁ」とこぼして少し笑った。「これじゃユーリみたいだね」誤魔化すように笑いかけられ、その顔を見つめてから一度離した手をもう一度取ってみる。体温。温度。忘れそうになっているその感覚を、君を、自分の中にもう一度刻み込む。
「フレン?」
「…帰り、ファミレスでも寄ろうか。奢るよ」
「えっ、いいよいいよ! そんな悪いし、っていうかフレンこの手は?」
「別に」
 すたすた歩き出して彼女の手を引っぱりつつここから一番近くのファミレスを思い浮かべた。サイゼリヤだな、値段的にも優しいし。「ちょっとフレン早い、もうちょっと歩幅をっ」早足で歩く僕に懸命についてくる彼女の声がする。それに少しだけ口元が緩んだ。ああ、今君は確かに僕といるんだな、なんて思った。
「あのーぅ、いいのフレン? これ食べたいけど本当いいの?」
「ああ。構わない」
「…じゃあ、お言葉に甘えまして」
 お腹が空いたの言葉どおり空腹だったらしく、彼女はドリアとサラダを頼んだ。僕は特別食べたいものもなかったからドリンクだけにした。
 時刻は六時半ほどになろうとしている。平日だけど人はそれなりに多かった。学生服姿もちらほら見える中、上着を置いて「は水でいいのかな」「あ、うんごめん」「いいよ」ドリンクバーコーナーからガラスコップを二つ手に取り、一つに水を入れる。自分のはどうしようかとドリンクのところを睨んだけど、結局コーラにした。たまにはこういう飲み物もいいかと思って。
 席に戻ると、彼女は頬杖をついてぼんやり窓の外を見ていた。
 かたんとコップを置いて「はいどうぞ。氷は入れなかったけどよかった?」「あ、うん。ありがとうフレン」顔を上げた彼女が僕に笑いかける。こういうときユーリみたいに知らないフリができれば楽なのにと嘘の下手な自分を呪う。訊かないでおこうと思っていたのに、結局僕は席について口にしてしまうのだ。「今日は元気がないね」と。そして彼女はまた笑う。バレたか、という顔で、幼い頃を思い出させる無邪気さをたたえて。
「いやぁー…そろそろ真面目に進路ってヤツを考えないといけない時期だなぁ、とね」
 ぽつりとそうこぼした彼女。寂しそうな、悲しそうな、そんな表情。コップの水をゆらゆらさせつつ「私さ、フレンみたいに勉強できるわけじゃないし。剣道も、ユーリやフレンほどじゃないし」「そうかな」「そうだよ。私って並なんだ。どうにか二人に追いついてるだけで」自分のことを並だと言った彼女が参ったなと一人で笑う。寂しいと悲しいが入り混じった顔で。
 自分が何を言えばいいのか、言葉が上手く出てこない。自分から話を振ったくせに、これだから僕は。
 何も言えない僕に彼女はぱたぱた両手を振った。「いいのいいの、気にしないで。フレンだって一生懸命だもん。私ももっと頑張れってことだよきっと。ユーリも最近授業真面目に受けてるみたいだしさ」「…あいつが?」「うん。自称だけどね」「賭けてもいい。一日の授業のうち寝て過ごすのが一科目はあると思うよ」「あははっ」彼女が普通に笑ってくれたことに少しほっとした。そこへ注文したドリアとサラダが運ばれてくる。ちょうどいいタイミングだった。それでその話は一端終了して、彼女が手を合わせて「いただきます」と律儀に頭を下げてフォークとスプーンを手に取る。
 あまり行儀のいい行為じゃないといつも気をつけているけど、今はそうしたい気分だった。だから頬杖をついて目の前の彼女を見つめる。トマトの上にチーズをのせてフォークを刺して上手にサラダを食べる彼女を視界に入れる、ただそれだけの時間。
 周りに音はある。人の話し声もする。どこかで遠慮なく声を上げて笑っている少し耳障りな音もする。景色もある。目に見える景色の中心に彼女を据えただけ。見えるものは、彼女以外にだってたくさんある。
 ただそうしていたいだけ。僕が彼女の姿を認めて声を聞いて、その存在を感じていたいだけ。
「…あのーフレン。そんなに見つめられると少々食べにくいのですが」
「、すまない。つい」
 ぱちっと目が合ってぷいと顔を逸らす。コーラをすすって炭酸に喉を刺激される。妙な感覚だ。どうしてコーラやソーダはこうしゅわしゅわするんだろう。
 ドリアをスプーンですくって口に入れて、彼女が言う。「フレンは何も食べないの」と。僕は曖昧に笑って「そうお腹も空いてないんだ」と返す。僕の誤魔化す笑い方を知っている彼女はふうと息を吐いてドリアをスプーンですくった。それをこっちに差し出して「はいどうぞ」なんて言うから頬杖をついてたところから慌てて身を引いた。はいどうぞって、君、さっきまでそれ使って食べてたじゃないか。そんな簡単にはいどうぞなんて言うもんじゃない。
「いや、いいよ」
「食べなさい。ただでさえ細っこいのに、そのまんまじゃフレン倒れちゃいそうで、ちょっと心配だよ」
 眉尻を下げた彼女は言葉のとおり心配そうに僕を見ていた。
 どうすべきなのかと判断に迷う。彼女は無自覚なのだろうか? それとも僕が気にしすぎなだけなのか。いつもより早いと感じる心臓で「…じゃあ」とこぼしてスプーンのドリアを食べた。ファミレスの味、とでも言えばいいのだろうか。僕はあまりこういうものは食べないから感想らしい感想も言えない。そんな僕が分かっているのだろう、彼女が小さく笑った。「はいもう一口」「えっ、いやいいよ。が食べてくれ」「出資者さんも食べなさい。私だけだとなんか悪いなぁって思うじゃない」「いや、その…じゃあせめてスプーンの新しいのをくれない、か」「え?」僕の言葉にきょとんとした彼女が使っているスプーンを見てからぷっと吹き出した。くすくす笑われるとさすがにテーブルを叩いて「笑い事じゃないっ」と声を上げてしまう。彼女はそんな僕を見てますます笑うのだ。
「フレ、間接キスだとか気にしてたの? 中学生じゃないんだよ?」
「う、うるさいな! 君はもう少し気にすべきだっ」
「ええー、そうかなぁ。普通だよ。まぁフレンがどうしてもって言うならはいどうぞ、新しいスプーン」
 からんとドリアの受け皿に新しいスプーンを置いた彼女。躊躇いも何もなく僕がさっき口をつけたスプーンでドリアをすくって食べる彼女に、僕の方が意識しすぎで変なんだろうか、と考える。
 新しいスプーンを手にして同じようにドリアを食べてみて、やっぱり感想らしい感想は出てこない。ドリアとはこういうものだ、ってくらいしか。
 サラダの方にもう一つフォークを置いた彼女が皿をこっちに押しやる。「こっちもチーズおいしいよ」と。別に食べてくれていいのに、と思ったけど、君がおいしいと言うのならとフォークを手にする。トマトにチーズをのせて食べてみる。彼女がおいしいと言うのだから、これはおいしいんだろう。多分。
 ぱく、とドリアを食べた彼女が言う。「フレンはあんまり食べ物にこだわりないね」と。「君は甘いものが好きだったね」とこぼすと彼女は笑った。「うん」と。曇りのない笑顔だった。幼い頃の笑った君とよく似ていた。

 大事にしていたはずの思い出が現実に埋もれて見えなくなっていく。それが寂しくて、悲しくて、たまにアルバムを引っぱり出して記憶を呼び起こす。埋もれている思い出を探し出して大事に抱き締めてしまい直す。月に一度はそんなことをして君と過ごした時間に必死になって手を伸ばしている僕は、馬鹿なんだろうか。固執しすぎなんだろうか。君は笑うだろうか。こんな僕を。
 僕は知っているんだ。分かっているんだ。君がユーリを見ていることを。幼馴染の三人の関係を崩したくなくて、君を困らせたくなくて、僕は何も言わないでいる。決定的な言葉を言ってしまったら曖昧に笑える時間もなくなってしまうから。君といる時間の心地よさを失うことになるかもしれないから。だから何も言えない。怖くて、何も言えない。
 僕はただの臆病者だ。だからずっと先を見ている。怖いから。なるべく抵抗できる手段を探す。そうしていればきっと立ち向かえると信じて。

 だから僕は言わない。これだけは言えない。巧妙に隠し続けなければいけない。
 たとえば君が僕の嘘に気付いて、その事実を知ったとしても。イエスの答え以外を持つのなら、君はその真実にも蓋をするだろう。僕はそれで構わない。君を守れるのならそれで。
「フレン。眉間に皺」
「、ああ。いや、何でもない」
 指摘されてぐりぐり眉間を指で解す。「」と彼女を呼ぶと「ん?」と首を傾げて返された。さらりと長い髪が揺れる。ユーリと同じくらいの長さの髪が。
 君の気持ちを、僕は昔から知っている。
「僕はこれからまた忙しくなるけど…何かあったら遠慮なく言ってくれ。君の力になるから」
「…フレンは優しいなぁ」
 ふふと笑った彼女がぱくとドリアを食べる。「フレンも何かあったら私に相談してよ。力になれるか分かんないけど、話聴くくらいはできるし」「…ああ」コップを手にしてコーラをすすると、炭酸が喉に沁みる。気のせいか、目が熱い。それを誤魔化すように眉間を指で解す仕種を続ける。
 君に言いたい、話したい、本当のこと。僕はこれから先もずっと、誰にも言うことなく胸にしまい込み続けるのだ。この想いを。

(静かに、音もなく。それでも確かに、傷んでいく)