出すことのない手紙を書くことにはもう慣れた。 私の部屋には大きな箱が一つある。常に床の一角に置いてあるその箱の中には、出すことのない手紙が入っている。もう十年以上こうやって手紙を書いては投函することなくこの箱の中に入れてきた。おかげで、というか、箱はもう結構いっぱいいっぱいだ。大きいものを用意するか、新しく箱を買うか、しないとならない。 フレン・シーフォという人に、私は今日も出す宛のない手紙を書く。 郵便局で買ってきた国際郵便の封筒に宛名を書く。心を込めて一字一字、愛しさを込めて、一字一句、丁寧に。 フレンは、両親の仕事の都合で日本にやってきて、両親の仕事の都合でわずか一年で日本を去っていった、かわいそうな男の子だ。 私は、両親には恵まれた方だった。まだどちらとも健在だし、喧嘩はあれど離婚まではいかなかったし、頭の硬い人達でもなかった。きちんと話をすれば通じるし、進路のこともよくよく相談して家族みんなで決めた。就職もそう。だから私は今も家で暮らしている。それがそんなに窮屈でなくて、嫌でもないからだ。何より、一人暮らしはお金がかかるしね。家で暮らしていればその分は貯蓄に回すことができる。 フレンの両親の仲のことまでは知らないけど、国際的に飛び回るお仕事をしていた。だからフレンは日本に来た。 中学生という多感な時期に転校してきた外人さん。 金髪碧眼のイケメン男子が片言の日本語で自己紹介をする。はにかんだ笑顔でフレン・シーフォだと名乗ったあの笑顔を私は今でも憶えている。まるで教室の中に王子様が舞い降りたみたいに、彼の周りだけは、存在するすべてのものが輝いて見えたものだ。 私と彼に共通の趣味や接点があったわけじゃない。ただ偶然、次の授業が移動だったことを忘れていた私がいて、トイレに行っている間に教室が私を除いて空っぽになっているのに戸惑った彼がいて、唯一教室の中に残っていた私に彼が声をかけた…。きっかけはただそれだけだった。 昔を懐かしみながら、今年も終わるなぁ、と文字を綴る手を止めて思う。 もう大晦日だ。明日は元旦、お正月。 そろそろ、お返事をしないといけない。 手紙の返事じゃなくて、仕事で知り合った人からの『結婚前提でのお付き合い』のお誘いについてのお返事だ。 そういったものは今まで全て断ってきたのに、あれからもう十年以上のときが経過して、フレンのはにかんだ笑顔が記憶から薄れていくにつれて、私は迷うようになっていた。今ではもうフレンが私を呼んだ声もおぼろげだ。まだ声変わりしていない彼のハスキーボイスが私の、名字ではなく名前を呼ぶ。海外ではそれが普通だから。でも、日本ではそれが普通じゃないって、彼は結局知らないままだったんじゃないかな。 私は彼のことが好きだった。そうとは伝えることのないまま、彼は行ってしまったけど。 中学生で、あんなにいい人だったんだ。人のことを気遣えて、控えめで、女の子を思いやれる子だった。今頃きっといい奥さんを持って、家庭を築いているに違いない。 だから、出すことのない手紙なんか書くことはやめてしまえばいいのに。彼のこと、忘れてしまえばいいのに。 ……私とフレンは、お互い住所を交換した。手紙は、一度目、返事が来た。それは今も大事に大事に取ってある。 二度目のお手紙を書いたとき、返事は帰ってこなかったどころか、手紙がそのまま家のポストに戻ってきていた。どうやら彼はまた引っ越してしまったみたいで、その住所にその人は住んでいませんよ、と返却されてしまったようなのだ。きっとまた両親の都合だろう。なら仕方ない。仕方ない。そうやって言い聞かせたけど、手紙は涙で濡れた。とても楽しみにしていたし、彼と私を繋ぐ唯一の手段が失われたことが、すごく、悲しかった。 あの頃は、今みたいにスマホなんて便利なものはなかったし、あっても折りたたみの携帯電話くらいだ。そして、私はそのとき、携帯電話なんて持っていなかった。 机に頬杖をついてぼんやりしている自分の顔が窓ガラスに映っている。 中学生の頃の記憶を思っていたせいか、ガラスに映る自分は随分と老け込んだように見えて軽く頭を振った。これでもお付き合いをお願いされるくらいには、まだ、うん。だからこそ、そういったお願いをされるうちに、私は心を決めるべきなんだ。売れ残りにならないうちに。あと数年たったら三十路の文字が見えてくる。仕事を始めてから時間は飛ぶように過ぎていった。今年ももう終わり。来年も、きっと気づけば終わっているんだろうから。 私はこれを最後の手紙にしようと決めて、丁寧に文字をしたためた。 彼に話したい、最後のこと。 私はもう行くね、ということ。あなたのことが好きだったよ、ということ。でも思い出にしなくちゃね、ということ。 できればあなたと一緒に歩く人生がよかった、と最後に綴って、こぼれそうになった涙を指で払いのけた。紙片をたたんで封筒の中に入れて、しっかり封をする。フレン・シーフォ様。そう丁寧に書くこともこれでおしまいだ。 私は書き上げた手紙を箱の上にかざした。そして、手を離す。手紙は重力に従って落下を始め、パサ、と軽い音を立てて手紙の詰まった箱の中に落ちた。 そうしてじっと箱の中の手紙と彼に想いを馳せているうちに、私は年を越していた。 日付は変わったけれど、感覚的には大晦日。厄除けを願ったお守りや、供養すべきお人形などを持って、私は一人家を出た。 地元にあるそれなりに大きい神社を目指して紙袋をさげて歩く。 この日、この時間に外を出歩いているのは、みんな初詣を目指す人達だ。それなりに大きい神社だから、朝なんかに行けばすごい人で列を作って並ぶことになる。それを避けたい人達は夜のうちに神社を訪れてお参りをすませるのだ。私もその一人。 (次に初詣に来るときは、私の隣には、誰かが立っているのかな) そんなことを考えながらスマホの画面を指でなぞる。 返事。面と向かってもらった言葉だ。こちらも礼儀を持って返さないとダメだろう。ラインに打ちかけていたメッセージを消して息を吐き出す。結婚なんてきっとそんなものだ。利害の一致なんだ。両親を安心させなきゃ。様々な言い訳をしながら抱えている紙袋を持って、供養の火が焚かれているところに行く。一年ありがとう、と手を合わせて心の中でお礼を言って、紙袋を火の中に放り込んだ。 パチパチと燃える音と、炎の熱を感じながら、顔を上げる。 空気がきれいだから、星もきれいに見える。 供養がすんだから、次はお参りだ。少し列ができているそこに加わって順番を待つ間にお財布から小銭を取り出す。ご縁の五円。五十円。五百円。全部放り込もう。もう、意味がないことだけど、毎年そうしてきたし。 私が呼び込みたい縁は、たった一つなんだけどね。それすら叶わないのだから、神様もいじわるだな。毎年毎年それだけを願ってきたのにな。結局叶わないまま、私は。 「フレン」 私は。 「はい」 「、」 返事、が聞こえた気がしてぱっと顔を上げて振り返る。 金髪碧眼。はにかんだような笑顔。あの頃のまま、身長が伸びて大人びたフレンが、あの日のフレンがそこにいた。 この目が見ているものが信じられなかった。 ずっと会いたかった。ずっと話したかった。ずっと。それだけを祈ってきた。それだけを望んできた。願ってきた。だからこそ、叶ったことがまだ信じられない。 「ふれ…フレン? フレン・シーフォ?」 「はい。君は、。。だよね?」 小首を傾げた彼に私はこくこく頷いた。紳士みたいに物がよさそうなコートにスーツの上下、上品なマフラーをした彼ははにかんだ笑顔を崩してちゃんと笑った。「よかった。やっと会えた」その言葉が嘘みたいに私に届く。届いて、響いて、視界が滲む。 自然と手を伸ばしていた。目の前の彼が本物だと知りたくて。彼も手を伸ばしてくれた。そうして私の手を取って、握って、手袋もしていない冷たい私の手に唇を寄せて口付ける。「よかった」そうこぼす彼の吐息が私の肌をくすぐる。ちゃんと。そのことが嬉しくて、嬉しくて、彼が私の手の甲に口付けたことが恥ずかしくて、感情の振れ幅が限界に達したらしい。私は何がなんだか分からないうちに泣き出してしまって、フレンが慌てたようにお参りの列から私を連れ出した。 神社の冷たい石のベンチに首に巻いていたマフラーを外してたたんで置いた。そうしてそこに私を座らせた。紳士すぎて息が詰まってまた泣いてしまう。 「ふ、ふれ、ふれん」 「うん、聞いてる」 「ずっと、あいたか…っ」 言葉を詰まらせる私に、フレンはあの日のようにはにかんだ笑顔を見せる。「僕もそうだよ。に会いたかった」「ほ、ほんとう?」洟水まで出てきたのでコートのポケットに手を突っ込んでくしゃくしゃのハンカチを取り出して顔に押しつける。フレンはやわらかく頷いて私のことを抱き寄せた。本当に自然に、そうすることが当たり前みたいに。これが海外クオリティ、と我ながら訳の分からないことを思ってまた頭がぐるぐるする。顔を押しつける形になった肌触りのいいコートは本当に高そうで、私の涙やら体液がつくことが拒まれる。 「手紙、ごめん。転送手続きが終わっていなくて、届かなかったみたいで」 「う、うん」 「両親が勝手に僕の部屋を掃除して、最初にくれた手紙を捨ててしまったんだ。そちらの住所の控えがなくて、教えるに教えられなかった。本当にすまなかった」 あんなに片言だったフレンがスラスラと日本語を話している。「にほん、ご」ずび、と洟をすすりつつ指摘すると、ああ、と彼は耳元で笑った。近い。ぼわ、と耳に火が灯ったみたいに一気に熱くなる。「のことを捜したかったし、大学を卒業してすぐに日本でできる仕事に就いたんだ。最初は東京だったんだけど、地方に行くまで少しかかってしまって。今年ようやくここに来れて、年越しはこの神社に行くって話を憶えていたから、君を待っていたんだ」スラスラ流れていく言葉が右から左に抜けそうになる。 (フレンが。私を捜してた。フレンが、私のことを思って日本で就職していた。フレンが、私のことを捜すために、都心からここにやってきた。フレンが、私を。フレンが) 私のお願いごと。たった一つのお願いごと。神様、ようやく、叶えてくれたんだ。 みっともなく泣いた私をフレンは飽きることなく呆れることなく慰めて、一緒に初詣をすませたあと、落ち着いて話をしようということになって、深夜でも営業しているファミレスに入った。 ナチュラルメイクくらいはしていたのに、あんなに泣いたせいで目は真っ赤、鼻もたぶん真っ赤で、メイクは落ちてる。ひどい顔をしてるだろう私からフレンは目を逸らさない。あの頃もそうだったけど、今も、笑顔を浮かべてまっすぐこっちを見ている。私はその視線が恥ずかしくて、でも、とても、嬉しかったんだよな。 「」 「う、うん」 「再会して数時間で申し訳ないんだけど、大切な話があるんだ」 「う、うん。何?」 ドギマギする心臓を隠しつつなんとか笑顔になろうとする私に、彼は持っていた革のカバンから何かを取り出した。これも高そうなカバンだなぁ、と思っているうちにファミレスの安いテーブルの上に置かれたのは、包装紙に包まれた細長い箱だ。包装紙は大人の女性が好みそうなセンスのいいものだ。 聞いたことのあるブランド名の入ったその箱に私は首を捻った。「これは…?」「開けてみて」フレンに促されて、私は曖昧に頷いて箱を手に取る。「…包装紙破いちゃう」「いいよ」笑った彼に、なるべく丁寧に包装紙を取り払っていく。 細長い上品な黒い箱をパカリと開けると、いかにもジュエリーが収められていると思しきボックスが出てきた。さらに慎重にそろそろとボックスを開けると、予想したとおり、ネックレスが現れた。うん万円はするだろう淡いピンクの宝石が控えめに光っている。 「これ、は?」 おずおず尋ねた私に彼は頷いた。「指輪はサイズが分からなかったから」「そう、だね?」サイズ。私のだろうか? そんなわけないか。なんて思った私の手をふいに取った。彼の手にはなぜかメジャーがある。そして私の指をくるりと一巻き。…サイズを調べてる……? 一人満足してメジャーをしまった彼は「うん、分かった。今度は指輪を買うよ」と言う始末。 ぎこちなく首を傾げた私に、フレンは言った。いたって真面目な顔にして、「。僕と結婚してほしい」と、いたって真面目な顔をして。 「……え?」 顔から火が出る。ということは、きっとこういうことを言うのだ。 私は全力でテーブルに突っ伏した。「?」「ちょ、ちょっと待って」今のはきっと盛大な聞き間違いに違いない。そんないきなり、再会したかつての同級生に結婚してくれなんて言うはずがない。これは私の願望が幻聴をもたらしたに違いない。 よし。心を落ち着けて私。ちゃんと現実を見よう。 まだ熱い顔を上げて「ごめん、聞き間違えた気がして。もう一回お願いします」心持ち姿勢を正す。フレンがコホンと咳払いをして、「じゃあ、もう一回言うね」「うん」「僕と結婚してほしい」「………」さっきと何も違わない言葉だ。これはまた私の幻聴…? いや、確認しよう。念のため。 「えっと、聞き間違いじゃないなら、フレン。結婚してほしいって言った…?」 「言ったよ」 肯定。された。笑顔で。 「で、でも、え? え? 私と?」 「そうだよ」 「な、なんで? 私はその、とても、光栄ですが」 「どうしてと言われても…。僕はどうしてか、結婚するなら君とがいいってずっと思っていたから。勉強も、仕事も、そのために選んできた。どうしてかな…。どうしてか分からないけど、君に会えた今、改めて思うよ。それは間違いじゃなかった、何も間違ってはいなかったって。こういうのを運命って言うんじゃないかなって、思う」 金髪碧眼のイケメンにやわらかい笑顔でこんなことを言われたら、日本人でそういったことに耐性のない私は赤面してしまうわけであり。 席を立ったフレンが「前から失礼」と断ってから私の手からジュエリーボックスをさらうと、ネックレスを私の首につけてしまった。彼は一人頷いている。 「やっぱりよく似合う。日本人は淡い色合いの方が映えるって言われて選んだけど、よかった」 この展開に頭がうまくついてこない。フレンが私を望んでいた。フレンが私のことを考えていた。色々なことが嬉しくて、もううまく言葉が出てこない。 軽食として頼んだスープとサラダを持ってきた店員さんは、微笑ましい光景だと思ったようだ。「ごゆっくりどうぞ」とお決まりのセリフを残してすぐに行ってしまった。 フレンはホットコーヒーをすすって、ファミレスの味に少し苦笑いしながら、まずいとは言わずに一口二口と飲み込む。 「毎年、君へ贈りたいものを買っていたんだ。馬鹿みたいと思うかもしれないけど…たとえ届かなくても、渡せなくても、思いを形にしたかったんだ。そんなことを何年も続けていたら、僕の部屋は女性もののプレゼントが箱のまま積んである、よく分からない景色が常になってしまった」 苦笑いしたフレンに、頭のねじが少し動いた。歯車が噛み合った。「わ、私も」「ん?」「その、私も……手紙、届かなくなっても、ずっと書いてたの。毎年、何か話したいことができたら、書いてた。送っても届かないから、出せないまま、部屋の箱の中にたくさん…」言ってて恥ずかしくなって顔を伏せた。 フレンはあの笑顔を見せる。はにかんだ笑顔。私が大好きな笑顔。「嬉しいよ。今度読んでもいい?」「えっ」「え? ダメかな」「え、ううん、ええと……昔の字とかへたくそかも…」「大丈夫だよ。全部読むよ」「う、うん…」恥ずかしさと嬉しさで顔を伏せがちな私に、フレンの表情がふっと曇った。そういう顔は珍しくてドキリとする。「どうしたの?」嫌な感じにドキドキする心臓を押さえつつ訊ねると、彼はこう言った。 「予定では、フレンチのディナーでも食べながら話すはずだったんだけど…。日本の年越しは祝うものじゃないから、お店はあまり開いていないんだったね。忘れていたよ」 (話。ああ、結婚しよう、って話か。そういえば海外は年越しは花火が上がったりして、祝う意味もあるって…) ふ、と小さく吹き出した私にフレンは首を傾げた。「何かおかしいかな」「だ、だって…フレンは意外と天然さんだったなぁって……。そのままなんだね」「僕が天然? そうかなぁ」眉間に皺を寄せたフレンに私は笑う。そういう顔も、見てみたいって思ってたよ。叶ってよかった。 本当に、よかった。 私。生きていて。待っていて。よかった。フレンを好きになって、本当に、よかった。 |