VOCALOIDというのは基本的にPCの中の存在であり、ある程度知識のある者がいじって楽しむソフトウェアであり、画面上にしか現れない。もともとVOCALOIDは『歌って踊る仮想アイドル』というところが原点だ。VOCALOIDのソフトウェアは各種改良を重ねはしたが、基本的なところからは抜け出ることができずにいた。
 商品としてはソフトウェアから始まったVOCALOIDだが、某動画サイトで多くのヒット曲を生み出し世間に広く認識されたことで、フィギュア、CD、ゲームなどの分野へ進出を果たし、VOCALOIDという存在は特定の年齢層ではあるが、人々に定着しつつあった。
 だが、やはりVOCALOIDというのは二次元、画面越しの存在でしかない。いくら緻密に立体化されたフィギュアであろうと、それは喋ることも歌うこともできないただ在るだけのものでしかなかったのだ。
 それが、ついこの間、ようやく画面越しだがPCを挟んで人との会話が可能になり、まず一歩、と進化した。
 普通に考えればそれだけでも拍手ものなのだが、二次元が三次元に近づいたことで狂喜乱舞してさらなる邁進を目指す物好きが大勢おり、VOCALOIDという存在は急ピッチで二次元と三次元の壁を取っ払う存在として世の注目を浴びた。
 そして、技術者が我先にとVOCALOIDのリアル化に取り組み始め、何年かが経過する。
「むむ…これはっ」
 思案げに唸ってからちらっと振り返る。…反応がない。仕方なく、PCに取りつけられたままのマイク内蔵のカメラから画面の向こうの風景を確認する。
 つまらない、飾り気のない部屋の中央に鎮座しているのはセミダブルのベッドだ。シーツは白と黒の水玉だが羽根布団にはカバーすらかかっていない。枕だけが気に入ったものがあったとかで柄入りの、かろうじてここは少女の部屋だ、と認識させる色合いを漂わせているだけ。ぬいぐるみもなければクッションもない。全く、いつ見ても女の子がこれじゃ駄目だろうと思うようなベッドだ。
 ジー、とカメラを動かし、ベッドを映している視界を徐々にずらす。と、何秒かじりじりした結果、ようやく部屋の角に到達した。
 そこには大きなエッグチェアがあり、その中にすっぽりと収まるような形で、少女が一人膝を抱えて座っていた。
 この部屋で一番豪華なそのエッグチェアは少女のお気に入りで、恐らく、俺がいるこのPCよりも高価なものだ。…まぁ、そのくらいしかこの部屋にはないのだが。
 画面から向かって右手には本棚があるらしいのだが、カメラの位置の都合上、俺が確認したことはない。その本棚に少女漫画などというかわいらしいものが並んでいる想像もできないが。
「おいこら、俺を無視するな」
 PCの音量を最大にしてスピーカーから声を上げる。と、蹲るようにしていた少女がようやく顔を上げた。ぼやっとした顔はそこでそのまま眠ろうとでもしていたかのようだ。毛布まで抱え込んで、お前、本当にそこで寝る気なのか。次の日絶対に身体が痛いことになってるぞ。やめておけ。
「何…」
 ダルい、を声で表現している少女にPCの中からびしっと指を突きつける。当然届かないのだが。というか、あの位置からでは画面の光のぐあいでこっちの姿が見えているのかどうかすら怪しい。
「まず、飯を食え。カップ麺でもいいから」
「めんどくさい」
 即行で返ってくるのがこれだ。全く、本当に、世話がかかる。
「ええい、食え!」
 バンバンと机を叩くような音を連続させると、少女はようやくずるっとした動作で起き上がり、エッグチェアから出てきた。「じゃあ神威作ってよ…」無理難題をダルそうな声と顔で押しつけてくる。「やれるもんならやる」べたっと画面にめいっぱい張りつき液晶を割ってやろうと無駄な挑戦をする俺に、少女はうえっという顔をした。おい、なんだその顔は。俺は一応イケメンの部類のはずだぞ。そこは想像力を働かせて少女らしくロマンスある方に考えろ。
 おっと。声をかけたのは飯を食えと言いたかったのもあるが、本題は違ったのだった。
 自分のいる空間にぱっぱと三つくらい窓を出現させる。小さなキッチンでめんどくさそうに棚をあさって赤いきつねを取り出した少女に「なぁ」と呼びかける。
 このPCの持ち主、俺の購入者、即ち俺の主人である少女、はダルそうに俺に視線を投げた。窓を掴んでぷらぷらさせて「なぁ、これを見ろ。朗報だぞ」来い来いと手招き。はひどくダルそうにしながらコンロに水を入れたやかんをセット、火にかけると、PCの前までやってきた。ガッチャンと音を立ててデスクチェアに座ったに見やすいよう一つ一つ並べて表示する。
「………へぇ。ついにできたんだ」
 彼女の反応はやはり淡々としていて少女らしくなかったが、少しは興味が出たのか、自分でマウスを動かしてスクロールしさらにページを読み進めていく。
「そうらしい。遅かったな」
「早かったよ。むしろ異例の早さだ。へぇー…」
 そこで、やかんの方からしゅんしゅんと音がし始めた。「、もういいぞ。やかん」「神威が火止めて」「できるならな」窓を押しのけてべたっと画面に張りつくとがすっと引いた。うえって顔をしてやがる。
 お前、俺はイケメンなんだぞ。なんだそのやなもの見ちゃったって顔は。俺に失礼だろ。
 ダルそうに椅子から立ち上がったがやかんの火を止めに行く。
 全く世話がかかる、と息を吐いた俺は改めて彼女に見せた窓の方を見る。そこには『ついに実現! VOCALOID リアルへの厚い壁を破る!』だとか『手乗りVOCALOID商品化決定』と書かれた掲示板があり、現在もリアルタイムで書き込みがされ、かなりの更新頻度を誇っている。
 そう、ついに完成したのだ。手乗りとはいえPCの中でしか生きていなかったVOCALOIDが、ついに二次元から飛び立ち三次元の空間へとやってきたのだ。
 この分ならそのうち八分の一サイズ、七分の一、六分の一と段階を経て、等身大へと近づけるはずだ。 
 俺はそれを夢見ていた。
 PCの中からカメラを通してでしか外を知れず、スピーカーを通してでしかお前に声を発せない、この状況がずっともどかしかった。
 やかんの火を止めろ? 身体があったらやってやろうとも。飯だって作ってやるよ。カップ麺なんぞに頼らずとももっと栄養のあるものを作ってやろうじゃないか。
 そう、身体があったなら。
「っていうか」
 カップ麺をデスクに置き、ガチャン、とチェアに腰かけたが机に頬杖をついた。「何? 神威、まさかこれ買ってくれとか言わないよね?」「そのまさかだ」胸を張った俺に、うえ、と顔を顰めたが「なんで。いいじゃん、これで。神威がうるさいからカメラ買ったし、パソのメモリだって足したし」「ココじゃできないことがある!」バン、と机を叩く音を鳴らす俺に顔を顰めるだけの
「何、できないことって」
「一人じゃヒキコモリニートすぎるお前の世話だ」
「言うと思った…余計なお世話。はい、買わない」
 ぶち、とマウスをクリックして窓を閉じた操作に抵抗してぱっとさっきの窓を復活させる。顔を顰めたがまた窓を消す。俺がそれを復活させる。そんな無意味なやり取りを5分。「おい、きつねうどんだろ。もういいぞ」と指摘すれば、彼女は諦めたようにマウスから手を離して箸を持った。
 べりべり、と蓋が剥がされ、麺を軽く解してからずるずるとうどんをすする少女を眺める。
「なぁなぁ買ってくれ」
「……あんね。買ったとして、手乗りサイズじゃ意味ないと思う」
「いーやあるな。少なくともお前の外出をナビゲートできる」
「外出しないし…」
「だから出ろって言ってるだろ! いつまでも通販に頼ってちゃ駄目だ! ここも過疎化してるんだ、そのうち配達可能区から除外されるんだぞ!」
「はいはい」
 ずるずる、とうどんをすすって咀嚼を繰り返すにバンバンと机を叩く音を鳴らす。「お前、俺の話を真剣に聞かないか!」全く、俺がどれだけ気を利かせてもお前はいつもそんな反応ばかりだな。たまには素直に俺の言うことをきかないか。
 うるさいなぁと顔を顰めつつうどんをすすっていたが、ああ、と気付いた顔でもぐもぐ咀嚼をしつつ一言。本当に些細で何気ないことのように一言。
「そーだ、引っ越すよ」
 …一瞬言葉の意味が分からず間ができた。「何が。どこへ」と眉根を寄せて問いかける俺に、何でもないことのようにさらりと「僕が。君と、この部屋を出る」と、一言。
「な…、な…っ!?」
 ふるふると震える俺に、画面の向こうのは相変わらずうどんをすすっている。
「そういう大切なことは俺を通せといつも言ってるだろうッ!!」
 ドカーン、とスピーカーから爆発した俺の声が響き渡り、は顔を顰めつつうどんの汁をすすった。
 の話を要約するとこうだ。
 PCが寝ている時間以外常にオンラインであるが故に携帯というものを持たずにいた彼女のもとに一通の手紙が届いたらしい。ダイレクトメールのポップ広告溢れるあれではなく、きちんと封筒に入って『様』とされている手紙が。
 送り主は知らない名前だったそうだ。それも手伝い、手紙なぞもらう憶えもないと燃えるゴミに放り込もうとしただが、一応開封し、目を通してみたらしい。
 すると、その内容というのがなかなかにぶっ飛ぶ話だった。
 お早いことだが、の母親が召されたらしい。事故だそうだ。
 まぁ、それはこの際、コメントもしづらいし、仕方がないとしよう。生きる者誰もに寿命というのは訪れるものだ、とでも言おうか。
 そもそものことを『家にいてほしくない』と我が子に言うべきではない言葉と共に追い出し、このアパートに放り込んだのもその母親だ。そういう意味では俺は彼女の母をよく思っておらず、ひょっとしたらこれではこの場所から引き上げられるのでは、と淡い期待を抱いた。引っ越すとも言っていたし、父親によって家に呼び戻されたのではないだろうか、と思ったのだ。
 だが、現実はそう生ぬるいものでもなかった。
 の母が逝ったあと、彼女の父親は簡単な葬儀を執り行っただけで、女のもとへ行ったというのだ。
 つまり、彼女の母と夫婦という関係であった頃から贔屓にしていた女。愛人だ。もともと夫婦仲がギスギスしていたというのはから聞いていた話ではあったが、ここまで露骨になると、同じ男として分類される俺も腹が立った。
 娘がいるっていうのに置いて女のもとにとんずらとはなかなかいい度胸をしている。手紙くらい自分で書けばいいものを、女のもとへ逃げたあとにどっかの誰かに書かせて送ってくるというのもなかなかにふざけている。これではに選択の余地などないも同じだ。

「まぁ、それは別にいいんだよ。母が死んだと書いてあるのを見て、そんな気はしてたんだ」
 ぎ、とデスクチェアの背もたれに背中を預けつつ、が机の引き出しからその手紙を取り出した。俺に分かりやすいように広げてカメラの前に見せる。俺はジーとカメラの焦点をから手紙へと移し、その文面を食い入るように読んだ。
 の母が死去したこと、父親は女のもとへと行ったこと、そして、彼女の両親が暮らしていたマンションの一室がに譲られるということが最後に書いてあった。それによってこのアパートは来月自動的に引き払われる手続きがすまされているらしい。ほら、ここにも彼女に選択の余地はないのだ。
 だからは何事も選べない、選ばない人間へと成長してしまった。
 …母親によってあの場所を追い出されたのはもう何年前になるだろうか。
 俺は心中複雑になりつつも、手紙からへとカメラの焦点を変える。ジー、とカメラが動いたことでも手紙を持ち上げるのをやめてぱたっと手を下ろした。
「そういうわけだよ」
「それなら尚のこと、ここから移動するお前のナビゲーターがいるな」
「言うと思った…」
 肩を竦めたが億劫そうにマウスに手を伸ばす。少しでもお前の支えになりたい俺はぐっと拳を握って訴えた。
「それがだな、朗報だぞ。さっき確認したら電撃発表で明日発売になっていた」
「うえ、何それ。デマじゃないの」
 顔を顰めたに有名通販サイトの窓を画面いっぱいに押しつける。注文可になっている画面にいるのはもちろん俺だ。手乗りサイズのかわいい感じにアレンジされている。「速達で注文すれば発売日に絶対届く」ぐいぐい画面いっぱいに窓を押しつける俺にが引いた。うーん、と思案顔だ。
「公式は?」
「送料がかかる」
「サポートは公式の方が早いでしょ。前代未聞だし、正直、お手上げってなったらサポートセンターに頼るしかないし」
「む…」
 それもそうか、と公式サイトを呼び出す。大きく全面に『電撃発表! 手乗りVOCALOID明日緊急発売!!』とでかでか宣伝しているサイトのページをくり、通販の場面を呼び出す。メンバーサイトに勝手にログインする俺に慣れているのでも何も言わないで画面を眺めている。
「あったぞ」
「ミクが一番売れか…。お、KAITOも少ない。鏡音きょーだいもなかなか人気…神威はまだあるね」
 どことなく笑いを含んだ声に気付かないフリをする。
 なぜ優男であるKAITOが売れてこの俺が残っているんだ、と心中でぶつぶつ思いながらも、結果的にこの方がこちらにとってありがたいので、もう気にしない。そうだ、気にするな俺。気にしたら負けだ。
 ショッピングカートに『手乗り 神威がくぽ』を放り込む。オプションでソフトウェアは外した。PCから俺をインストできればそれでいい。中身はあるのだ。器が欲しい。
 いつになく真剣に窓を掴んでご一読くださいの説明書を睨んでいたら、「ぷ」と吹き出す声が聞こえた。ぎらっと睨んで振り返ればおっとと顔を逸らしたがいる。
「……俺が真剣だとおかしいか?」
 声を低くして問えば、「や、別に。そんなに外に出たいのかなぁと」肩を竦めてみせる。その姿に「出たいに決まってるッ」と噛みついて返して、サインイン、購入商品を確認し、OKボタンを押す。送料は有料、プラス明日指定で届くことにするとさらに料金がかさむのだが、この際仕方がない。許そう。
 ふう、と一作業を終え、フリーメールの管理画面を呼び出す。じりじり待っていると『ご注文の確認』というメールが届いた。上から下まで読み、間違いがないか確認する。よし。時間指定はなるべく早くと思って一番早い時間帯にしたが、まぁ問題ないだろう。今日だけPCをつけっぱにしておいてもらえば俺がアラーム代わりにを叩き起こしてやれる。
 ふと振り返ると、画面の向こうではデスクチェアにもたれているがうとうとと眠りこけそうになっていた。「おい、そこで寝るな。ベッドへ行け」スピーカーの音量を上げてそう言えば、うるさい、と顔を顰めたが仕方なさそうに立ち上がる。そして、ぼふっとベッドに倒れ込んでもそもそと布団を被り、ああ、と呟いた。
「明日から毎日、枕元で君がぴょんぴょん跳ねるんだね…」
 どことなく絶望している声だ。バンと机を叩く音を鳴らして「お前がしっかりしていたら俺もこううるさくは成長しなかったぞ」と言い返せば、彼女は笑ったようだった。「ああ、それは、そうだ」とこぼして口を閉じ、それ以降静かになる。
 寝たか。というか、お前は寝てばかりでよく厭きないな。寝溜めでもしてるのか。人間はそういうふうにはできてないぞ。
 ふうと一つ息を吐く仕種をし、改めてメール受信画面で『ご注文の確認』の文面を眺める。

 ……いよいよ明日、待ちに待った、リアルへ飛び出せる。