「はよーございまーす、クロイヌ宅配便でーす」
「はぁい…」
 ぼそぼそっとした声で返事をして、のろのろと玄関口に行く。「ええい、しゃきっとしろ!」と後ろから吠えてくる声に片耳を塞ぎつつ、施錠を外して安っぽい鉄の扉を開けるとギイイとかなり軋んだ音がした。必要最低限以外外出しないからここまで古びていることも開けてみて思い出したりする。
 倒壊寸前、というような古いアパートの一室の前にニコッと営業スマイルの配達人の若人が一人。その手には小振りなダンボール箱が一つ。
「サインでも?」
「オケっすよー。ここにお願いしまっす」
 ほい、と示された場所にフルネームでサインする。べりっと伝票の一部分を剥がした配達員が「またよろしくお願いしまーす」と朝から元気な営業スマイルと共にアパートの錆びた階段を元気よく駆け下りていった。
 若いなぁ。そんなことをしみじみ思いつつ、ああ、自分の方が年下っぽいのに若いなぁとかって表現は年寄りくさいなぁ、と僅かに顔を顰める。配達員の姿をぼやけさせるくらいの陽射しの強さにさらに顔を顰めて、外の眩しい陽射しにさようなら、バタン、と扉を閉めて鍵をかけた。
ーまだかーっ」
「はいはい」
 今日は一段とうるさい声に急かされ、ダンボール箱を抱えてPCデスクの前に移動すれば、昨日からつけっぱなしでだいぶ熱の上がっているパソの画面いっぱいに神威がいる。パソに取りつけているカメラがジーと勝手に動いて、僕が持っているダンボール箱に焦点を合わせる。
、早く開封しろ」
「はいはい…」
 いつになくうるさい神威に投げやりな返事をしつつ、ガムテープに手をかける。
 僕が神威と呼んでいる彼は、ソフトウェア名はがくっぽいど、イメージキャラ名が神威がくぽという二つの名前を持つ。詳しい事情はよく分からないが、がくぽという名前はなんだか情けないような響きの気がして、僕は彼のことを神威と呼んでいる。
 べりべりべりと勢いよくガムテープを剥がして丸めてポイし、蓋を開ける。一応精密品だけにしっかりと梱包され、衝撃吸収材もみちっと隙間なく入っているそこから、ダンボール箱より二回り小さい箱を取り出す。
 中には目を閉じた手乗りの神威がくぽが入っている。
「おお…!」
 パソの画面の向こうでは、画面いっぱいに顔を押しつけるようにして僕の持っている箱を見つめる神威の姿。
 …だからさぁ、それはやめようよ。君は黙ってればイケメンだけど、いざ行動するとそのイケメンが台無しになる感じのことしかしないのはやめようよ。もうちょっとイケメンを気遣おう。
 とか思いつつも口にはせず、箱を開封し、箱の中でも丁寧に梱包されている手乗り神威をそっとデスクの上に置く。ジーとカメラがそれを追う。画面の向こうから食い入るように見つめて動かない神威に、さてと、とデスクチェアに腰かける。
 説明書を斜め読みしていると、「おい」と声。視線をずらすと、神威が箱の中のCD-ROMを指差していた。「説明書なんぞそれの中に入っているだろう。俺も読む。どうせインストするんだろ」「うん」ロムの入っているCD入れをぱかりと開け、休みなしで稼働してちょっと苦しそうなパソコンに読み取りを開始させる。
 あとは神威が勝手にやろうだろうから、と僕は説明書の詳しい機能のところは飛ばした。
 僕の頭の中にも必要なのは、結局のところどうすればこの手乗り神威は動くようになるのか、ということだ。
(ええと……ああ、やっぱりそうか。専用のコードで繋ぐんだよね)
 起動までの流れを書いてある文面に目を通し、手乗り神威と一緒にパックされているコードを見る。あれか。
 よいしょ、と身体を起こして手乗り神威を開封にかかると、「おい、丁寧にやれよ。間違っても落とすなよ。傷もつけるなよ」と画面の向こうの神威がうるさくなる。しっしと手を振って「分かってるよ。気が散るから、君は説明書とか見てなさい。あとインストールね」「分かってる」む、と眉間に皺を作った神威が画面にいくつか窓を展開して作業を始めると、ロムを読み込みだしたパソコンが唸り出す。ちょっと苦しそうだ。うーん…そろそろ寿命なのかもしれない。
 丈夫に梱包されている手乗り神威とコードを傷つけないように開封し、手乗りがくぽを掌に寝かせてみる。
 確かに手に乗るほど小さい。体長10センチってところか。三頭身でだいぶかわいい感じに仕上がっている。目も大きいし。
 ……でも、なぜだろう。これからこの手乗り神威が枕元で飛び跳ねたりデスクの上でうるさく小言をぶつけてくるのだと思ったら、そのかわいさが半減した気がした。
 そりゃあ、近いうち引越しをしないとならないし、そのためにも荷物はまとめないといけない。面倒だけど、来月ここが引き払われてしまうのなら、僕は父親の言う通りに一度は追い出されたマンションへと帰るしかないのだ。ナビゲーターがいるのといないのとでは僕のモチベーションだってだいぶ違うだろう、とは思うけど。
 ふう、と一つ吐息する。
 …面倒だなぁ。色々と。
(頭の上にコードの差込口…)
 説明書片手に、気持ちを切り替えて目の前の精密機械に意識を傾ける。
 ぴょんと飛び出ているアホ毛を押せば頭頂部の蓋が開くらしいので、ちょっと押してみた。カチ、と音がして、ぱかっと頭が開く。そこはUSB差込口に似た作りをしていた。
 あとは、この手乗り神威とパソコンの中の神威をリンクさせるために同封されてるソフトを使って、それを介して、神威をこっちに入れるだけ。
「まだかかりそう?」
「そうだな。よし、その間にお前は朝飯でも食え。まだだろう」
「朝からカップ麺は重いから遠慮する…」
 うえっと顔を顰めた僕にスピーカーから抗議するようにバンバンと机を叩く音が響く。「ええい、冷凍に焼きおにぎりみたいなのがあったはずだ! それでも食べろ!」と言われ、そんなものあったっけ、と思いつつ立ち上がる。ああもう、どうせ動かない生活しかしてないんだから、余計に食べるのは逆に胃もたれするのに。
 神威がうるさいので冷凍室の扉を開ける。そこには確かに焼きおにぎりが入っていた。
 …僕の生活を知り尽くしている神威がちょっと恐ろしい。いや、僕が彼をそんな主夫みたいにしてしまったのだと分かっているけど。
 一時間後、全ての準備が完了し、もうそろそろ限界です、と熱を上げるパソコンと手乗り神威をコードで繋いだ。
 媒体移動のため神威のいなくなったパソコンの画面を眺め、ああ、いつもこうだったら静かだなぁ、とぼんやり思う。
 …静かすぎるのも考え物というやつだけど。
 僕はすっかり彼にどやされる日々に慣れてしまったようだ。あのやかましい声がないと何となく物足りないなんてね。
「、」
 と、デスクに横たわっていた手乗り神威が目を開けた。「お」ひらりとその視線に入るところで手を振ってみる。パソの画面には『移行完了』の文字が浮かんでいる。
「お…おおおお……!」
 小さな自分の手を掲げてぶるぶると震える神威が猛然と立ち上がる。立ち上がるんだけど、まだ頭にコードが刺さったままだったため、その重みでぐらついていた。「うお、、外せ、もう大丈夫だ」「はいはい」ふらふらする神威の頭を掴み、コードを抜く。と、彼は僕の手を小さい手でべしべし叩く。「お前、もうちょっと丁寧に扱え!」と怒るから肩を竦めた。コードをくるくる回収して、とりあえずデスクの引き出しにしまう。
 自分の頭に手を伸ばして開いたままの蓋を閉めようと格闘する神威がおかしかった。三頭身なんだから、届くはずもないのに。「、閉めろぉ」「はいはい」さっきよりは丁寧に神威を掴んでぱこっと蓋を押しつけて閉める。
 僕の手から抜け出した神威がパソコンデスクの上を走り始めた。上下左右忙しなく見ながら小さな歩幅でそれでも走っている。
 …今の彼を表現するとしたら、あれだ。ちょっと大きなハムスター。そんな感じ。
「君が望んだ通りにしたよ。満足?」
 呆れてチェアの背もたれによりかかり、問いかける。こっちを振り返った神威が「満足だ! とりあえず満足だ! 色々と試してみたい」とうろうろするんだけど、その小ささ故にデスクの高さから下りることができずにいる。しょうがないなぁと吐息して両手を置いて乗れと指示。「そ、そっとだぞ」とビビってる声にちょっと笑って、掌に乗った神威をちゃんと指で包んでから床に下ろした。「おお、世界が広い…!」とか新鮮な発言をしてる神威がちょろちょろと足元をうろつき始めるから、蹴らないように注意しないといけない。
 さて、とデスクチェアに腰かけ直し、ネットでの評判はいかなるものか、常に誰かが在住していると噂の某掲示板サイトにアクセス。手乗りVOCALOIDの意見がものすごい件数を誇っているページをいくつか眺め、適当なページにアクセスする。
 …今のところ好評みたいだけど、そのうち批判厨が何かしら欠点を挙げてくるだろう。
 ぎ、と大きく背もたれに体重を預け、相変わらずちょろちょろしている神威にを眺める。「おお、これがお前の言ってた本棚か! やはりつまらないものしか入ってないな!」とか「うぬぅ、背が欲しい」とか「早く等身大発売されろ」とか独り言の多い彼を眺め、行けるところまで行っては戻り、あっちへ行ってはこっちへ行って、を繰り返す姿にいっそ呆れた。僕の部屋の大体のところはカメラから見ていただろうに。
 はぁ、と一つ息を吐いてからチェアから立ち上がる。
 僕はこれから仕方なく外出しなければならない。引越しのため、簡単に荷物をまとめる必要があるのだ。いらないものは置いていくとしても、本や服を詰める必要がある。ああ、あとは、適当に食材の買出しも。
「神威。外へ行こう」
「何!?」
 ぐりっと勢いよくこっちを振り返った神威が頭が大きすぎる故にぐらぐらしている。半ば呆れつつ部屋を指し、「引越しをするって言ったろ。準備をしないと」「ああ、ああそうか…そうだな、お前が自分から外に行くなんて言うからちょっとびっくりしたぞ」訳もなく腕をぱたぱたさせる神威に「悪かったね」とぼやきつつ、部屋着のジャージとタンクトップの上にパーカを羽織った。
 足元までやってきた神威がぴょんぴょんと跳ねる。「日焼止めを塗らないと駄目だ。焼けるぞ。お前なんてすぐ日光の餌食だ」「…めんどくさい」うえっと顔を顰めた僕の足をぽかぽかと小さな手が叩く。人の指にぺちぺちされてるような感覚。「ええい、とにかく塗れ。まだ残ってるだろ」「はいはい…」うるさい神威を片手で取り上げると、「うわ、こら、丁寧に扱えっ」と騒がれる始末。
 はぁ、本当神威って賑やかだな。確かこんなキャラではなかったはずだったんだけど。どちらかというとモトになった人がクール系だったからクールに傾くはずだったんだけど。…これならカイト買った方がまだよかったのかなぁ。
 なんて、本人に知られたら怒られるだろうことを思いつつ、仕方なく顔や足、肌の見えているところに日焼止めを塗った。
 彼の視界的にパーカのポケットに突っ込むのは怒られそうだったので、胸ポケットの方にちょっと強引に押し込んだ。「女子としての節度を知れ」だとか「狭い」だとか喚いていた彼も、アパートを出て高い音を出す錆びた階段を降りた頃にはすっかり外に夢中になっていた。
 財布は持った。エコバッグも持った。冷凍品用の保冷材入りバックも入ってる。よし。
 もう夏も終わりかけているというのに依然として陽射しは強い。なるほど。確かに、普段から部屋にこもって陽射しを避けている僕には干からびてしまいそうな強さと眩しさだ。これを日焼止めがある程度カバーしてくれればいいのだが。
 もそっとパーカのフードを被ると胸ポケットの神威が抗議してきた。目いっぱいこっちを見上げて「こら、それじゃただの怪しい奴だぞ」と言われたけど肩を竦めて歩き出す。だって眩しいんだもん。
 目指すは一番近いスーパー。軽い梱包材と食材を購入することが目標。
 ベッド、エッグチェア、パソコンも含め、こちらは業者に任せるしかない。冷蔵庫は長く使ったし処理が面倒くさいからこっちに置いていく。電子レンジはまぁまだ使えそうなので持っていく。洗濯機は壊れかけなのでこっちで処理。
(梱包が必要なのは、服と、本と、キッチン用品と…)
 頭の中でぼやっとイメージしてから、こういうことは神威に任せた方が確実だった、ということを思い出す。
 胸ポケットに視線を落とすと、神威は眩しそうにしながら視線をあっちへこっちへやっている。
「そういえばさ」
「んん? なんだ?」
「視覚があるのは分かるけど、触覚とか嗅覚とかはあるの?」
「残念だがそこまでは無理なようだ。今後の課題だろうな。これだけ小さいサイズだし、搭載仕切れなかったというのがホントのところじゃないか。サイズがでかくなるにつれて機能も充実するのかもしれん。というか、企業的にはそれを狙っていると俺は思うがな」
「ふぅん」
 強い陽射しに片手で視界をガードしつつ、舗装コンクリートがところどころ割れたりなくなったりしている道を歩く。
 過疎化した地域と都市化した地域とで人口の偏りに顕著な数字が出てきた現日本らしく、過疎化しているここでは売りの空き家が道のそこかしこにあって、半ゴーストタウン化していた。
 この間通ったときは家族が住んでいた家も『空き』の看板が門にかけてあり、その下に不動産屋の連絡先が書いてある。ああ、いなくなったのか、あの子供連れ。住人の少ないココのこと気味悪がってたもんなぁ。
 空き家を横目にしつつ、見えてきた角を右に曲がる。直進3分、さらに左に曲がり、直進して5分で一番近いスーパーが見えてきた。スーパーに辿り着くまでにまた一軒人のいなくなっている家を見つけて、本当にゴーストタウン化してきたな、と実感する。それは神威も同じだったようで「人が少なくなったな」とこぼした。独り言なのかもしれないけど浅く頷いて返す。
 ここからスーパーがなくなり、さらに人がいなくなり、電気やガスの類が止まってしまうのも、時間の問題だった。

 …このゴーストタウンでずっと暮らしていくと思ってたわけじゃない。それに、このままでは近いうちに電気でさえ止まるのではないかと思わせるここの過疎化ぶりに少し考えてもいた。父親の話は僕にとっても歓迎すべきものなのだ。
 何年か前には僕自身が生活していたマンションの一室。けれど、母に疎まれこの土地に追いやられてからというもの、一度も足を踏み入れていない場所。
 僕はこれからそこで暮らすのだ。もう父も母もいないそこで、この口うるさい神威だけを連れて戻るのだ。
 …思えば、あの頃から、僕のそばに変わらずにいた存在と言えば、彼だけだった。

「大きい家具は業者に任せるんだろう?」
「うん」
「なら自分でまとめられるサイズのものだけだな。となると、本の類に、少ない服と、食器類と…」
 胸ポケットでぶつぶつ言ってる神威はさっきまで「ここが人が買い物する場所か」と一人感心してて独り言がうるさかった。他所でやってくれ、と言いたいくらいにうるさかった。今はようやく落ち着いてくれたところで、彼の指示で梱包道具を揃え、購入。次は食品フロアへ向かう。
 ここでも神威は口うるさい。
「カップ麺以外も買えよ? たまには弁当とか買え」
「嫌だよ高い」
「なっ、248円のカップ麺を買う奴の台詞とは思えんぞッ。俺に言わせればカップ麺こそ98ですませるべきだっ」
「神威は味覚がないんだったね…98と248円のカップ麺の違いが分からないなんて……」
 買い物籠にカップ麺をバラバラ入れる。お気に入りは行列のできるラーメン屋さんシリーズだ。ラーメン、焼きそば、うどん、そば。会社にこだわらず、おいしいものをチョイス。あとは新商品の見たことのないパッケージのものをチョイス。改めて籠の中を覗いて頷く。うむ、充実。
「おい、こら、俺の話を聞かないか! カップ麺ばかり食べてたら栄養失調で倒れるぞっ」
 べちべちと叩いてくるので、小さなその手をピンと指先で払いのけてやる。「じゃあ野菜ジュースを買う」「だから、野菜を普通に食え。調理して食え」びしっと小さい手でこっちを指差す神威に僕は一言。
「めんどくさい」
「お前…っ!」
 ふるふるとポケットで震える神威をスルーして飲料コーナーで野菜ジュースを選び、籠に入れる。重くなってきた。
 ふと人の視線を感じてちらりとそっちを見ると、おばさん方がひそひそ何か言っていた。ふむ、と少し考えて、僕が大きな独り言で一人会話をしてるように見えるのかもしれない、と結論に至る。が、まぁどうしようもないのでスルー。
 世の中年からシニア世代の一般の人はVOCALOIDになんて興味ないのだろう。パソコンのできない人には特に遠い世界だし、何あの電子声、とむしろ顔を顰められるくらいだ。僕もそれくらいは知っている。
 カップ麺と野菜ジュース、冷凍食品をいくつか入れた籠を両手で持ち、よろ、と歩いていると、アイスのコーナーで足が止まった。
 籠を足元に置いて眺めていると、冷たいのいいなぁと食べたくなってきた。そこで疑問が湧いて胸ポケットに視線を落とす。
「神威はさ、食べ物とかどうなの」
「ショートするに決まってるだろ。阿呆か」
 普通にツッコまれた。まぁそうだよね。こんな喋りっぱなしの君でも精密機械なんだものね。
 じゃあ自分の分だけ、と視線を彷徨わせ、贅沢にハーゲンダッツを選択。味はストロベリー。理由は何となく。
 会計を終えて、持ってきた保冷材入りのバッグに冷凍品を詰め、大きいエコバッグの底に野菜ジュースを敷くようにし、あとはざらざらとカップ麺を入れた。そこに梱包材を上手に突っ込み、最後にストロベリーのアイスとプラのスプーンを載せる。
 先に購入したしっかりしたダンボールはたためなかったので、紐でくくって背中に背負っている。
 よいしょ、と両肩に引っかけてバッグを持ち、荷物で埋まってるみたいだな、と思いながらスーパーを出た。途端に熱い陽射しが僕を出迎える。なんだかまだ夏本番みたいだ。暑い。
 バッグからアイスを取り出して蓋を開け、べりと内蓋のビニールを剥がし、スプーンを入れる。
「…んまい」
 ぼそっとぼやいた僕に「俺も食いたい。食えたら」「ショートするんでしょ」「ああ。早く次のバージョンが出ればいい…!」胸ポケットから腕を突き出してばたばたさせる神威に僕は呆れた。「そんなに早く次が出るわけないよ」と言いつつアイスを食べる。ああ、冷たくて濃くておいしいな。
 そんなこんなで僕がボロアパートの一室に戻った頃にはお昼の時間になっていた。
 さっき買ってきた見たことのない新しいカップ麺のビニール包装を取っ払い、水を入れたやかんを火にかける。
 午後はネットから引越しの手配をして、取れた日にちによっては今から梱包作業に追われる可能性アリ。なので、僕は地図の確認をすることにした。
 本棚の一番端に追いやられていた、使用頻度の少ない本うちの一冊。マンションの一室からここへ来る際に一度使用、あとは近隣の見取り図くらいでしか活用していない、線が入っているだけの地図本だ。
 線を引いてあったり乗り換えの丸印がつけてあるこの地図を使って、僕はあの場所へと帰るのだ。
 そう考えるだけで、僕はひどく曖昧なもやもやとしたものを胸の内に抱える破目になるのだった。