そうしてお前は道を選ぶことになる

「早く等身大サイズが出ればいい…！」
　それが最近の俺の口癖である。背丈が足りないと何かとすぐにぼやくのだが、はそんな俺に慣れたらしくよくスルーされる。
　全く料理くらい自分でしろよ、と何度ツッコんでもめんどくさいとカップ麺と野菜ジュース以上で飯を終わらせる奴のために、エプロン着用、三角巾装着の俺が台所に踏み台を設置してまで飯を作る。この形が定着してからそろそろ半年になろうとしている。
　本来の二分の一サイズの身体は身長的に90センチかその辺りしかなく、俺はその辺のガキくらいの背丈しかなく、手足の長さもそれに比例する。
　くそ、届かん、とぷるぷる腕を伸ばしてキッチンの戸棚に背伸びで手を伸ばしていると、ぽん、と肩に手を置かれて背伸びやめろとばかりにぐいーと体重をかけられた。「おい、こら」逆らえずに踵をつけて見上げれば、台に片足を乗せたが「どれ」と調味料の類に目をやる。どうやら取ってくれるらしい。「ハーブ入りの塩があったろ。緑っぽい蓋の」「え？　あー、これ」ひょい、と目的のハーブ入りソルトを俺の手に落としたがやれやれと離れていく。行き先はリビングのくたびれてきているソファ。ぼすっと腰かけ、ぼやっとテレビを眺め出す。
　くそう本来の背丈があればこんな失態などないものを、と野菜炒めに塩を振りかけつつ思い、ん？　と首を捻る。
　いや、そもそもだ。が自分のことは自分でやって女子らしく料理の一つくらいしていれば、俺はこんなことせずにすんでるんじゃないか。
「神威ー」
「む？」
「そこ、高いなら、調味料とか位置を移そうか。レトルトとか」
「いや、その前にお前が自分で料理をしろって話だろうこれは」
「嫌だよめんどくさい」
　ほらきたこれだ。何でもめんどくさいめんどくさいと。俺だってお前のために料理なんて面倒くさ……くはないが。
　なんていうんだ。お前の面倒を看ることに慣れすぎて、めんどうくさいとか思う気持ちは忘れた。
　…何となく負けた気分になる。主夫か俺は。
「お前、そんなんじゃ俺が壊れたらどうするんだ」
　投げやりにかけた言葉に、返事がなかった。嫌味の一つでも返ってくるのかと思いきや。
　野菜炒めに牛肉を入れて甘だれで味付けし、昨日のあまりのご飯も投入し、ザ・男料理の本日の朝食兼昼食である炒飯が完成する。
　よそって持っていくと、が難しい顔でテレビを睨んでいた。そこには俺と同じ二分の一サイズのKAITOを連れている女子が映っている。「…おい」まさか俺の声を無視してKAITOなんぞのことを考えてるのか。ぴきっとこめかみがひきつる感覚を覚え、だん、と勢いよくテーブルに飯を置くと、はようやく俺を見た。
「神威、壊れるの？」
　…それはあまりにも平淡な声だった。
　常日頃からダルいめんどくさいっていうのが声にまで出ているような奴だから、そのダルさが抜けて何も混じってないと、本当に起伏のない平淡な声だけを聴覚が捉える。
「ああ、いや、例え話だ。深い意味はない」
　テレビの液晶画面の中では子供みたいなKAITOが少女に抱き締められて照れ臭そうに笑っている。
　…ああ、俺にはああいうふうに笑うことはきっと一生ないだろうな。何事もダルいめんどくさいを連発する、女子らしさはおろか人間らしさすら忘れていってるのために、家事炊事に没頭する主夫みたいにしか生きられないだろう。
　まぁ。それで何がいいとか悪いとか、そんなことは思わないが。ただ、少し残念だ、と感じただけだ。
　テレビからぷいっと視線を逸らして蓮華を握る。ザ・男のぶち込み料理を黙って食べ始める俺をじーっとが見ている。
　一分過ぎても俺の炒飯に手をつけようとしないため、びしっと蓮華で指して「食べろ、冷めるだろ」と指摘すると、彼女はようやく蓮華を持ち上げた。
「そうか…神威は機械なんだもんね」
　ぼそっとぼやかれた声に炒飯をすくった蓮華の手を止める。「なんだ、忘れてたか？」と笑うと彼女は大真面目な顔で一つ頷いた。…お前、俺が茶化して笑ったんだから少しは察しろよ。
　ふう、と一つ息を吐いて、VOCALOID特集を終了したテレビに視線を投げる。
　…気持ちは分からないでもない。
　手乗りサイズから出発したVOCALOIDのリアル化は、サイズを等身大へと近づける度に改良が重ねられていた。今回この二分の一サイズになってからは、視覚、聴覚だけでなく嗅覚、触覚、味覚さえ備わったのだ。さらに食物の摂取が可能になり、それを自分のエネルギーへと効率よく変換することまでできるようになった。VOCALOIDは機械、ということを忘れてしまうのも無理はない。
　ただ、やはりこの身体は機械だ。生活防水には対応しているが、水に濡れることは好ましいとは言えず、入浴の類は禁止事項とされている。温泉もプールも海も×。著しい気温・気圧変化のあるところも×。たとえば北極とか南極とか砂漠のど真ん中とか山の上とかそういう意味だろう。まだ改善点はあるが、そこを覗けば、二分の一サイズのVOCALOIDはとても人間に近づいたと言える。二次元と三次元の壁を破る存在としては十分な役目を果たしたろう。
　ぼちぼちとした動作で蓮華で炒飯をすくって食べているが「神威はいつか壊れるのかなぁ」とぼやくので、「縁起でもないこと言うな」と返しつつ俺も炒飯をばくり。「言い出したの神威だよ」「軽く流せばいいものを、生真面目に受け取ったのはお前だろ」よく分からない言い合いなすりつけ合いをした挙句、食事が終われば、その話も自然と打ち切られていた。
　長い紫の髪を頭の上の方で結んでやり、ポニーテールにしてもぽよぽよと揺れる髪をさらに縛る。なぜかといえば、長い髪はうなじ辺りにある接続口をいじる際には邪魔だからだ。
　小さな溝に爪を引っかけてぱかりと開けると、自分とPCとを繋ぐ専用コードの差込口がある。そことPCとを繋げば、俺は現実の身体に意識を傾けつつもPCの中へ入り込んで色々な操作が可能だ。マウスやキーボードを操るよりもよほど早く目的を終えられる。
　というわけで、俺は自分とPCを繋いだ状態で、日課になっている某掲示板サイトを覗きに行く。目を通すのはもちろんVOCALOIDに関する記事だ。
　いくつか窓を開いて同時進行で読み込み、読み進め、十五分後には窓を閉じた。特に新しい情報というのはなさそうだ。
　ついでにメールをチェックすると、また通販サイトから『ご注文の確認』メールの新しいものが届いている。
　デスクチェアに座ったまま顔だけ向けると、はエッグチェアの中で小説を読んでいた。漫画よりは頭を使うが、その前にお前は外へ行け。
「、また何か買ったのか」
「買ったよ」
「お前な…。金は無尽蔵じゃないんだぞ」
「残高は見てるよ。父さん、少しは僕に引け目があるのか、毎月仕送りしてくるじゃない」
「それはそうだが…今度は何買ったんだ全く」
　メールの詳細をチェックすると、公式サイトで衣服とあった。手乗りVOCALOIDでヒットを記録している公式で、なぜ服。思わず顔を顰める俺である。
「なんだこれ。誰が着るんだ？」
　顔も声も顰めた俺に、は呆れた目を向けてきた。
「君のだよ。そのサイズになってもう半年だろう。いつまでも僕のお下がりのTシャツと半ズボンじゃかわいそうだと思ってね」
「む……」
　思いがけない言葉に口を噤む。
　確かに、俺の服装はオシャレには程遠く、のTシャツをだぼっと着て半ズボンの腰紐をぎゅっと締めて着回している。家の中で行動するのにこれで困ることもない。まぁ、外で買い物するにはちょっと格好悪いが、別に、必需品では。
　ぐるぐると考えたが、興味が湧いてサインイン、が購入したという俺の服を見てみた。
　手乗りVOCALOIDからこっち、大ヒットを記録している公式では俺達の制服とも言えるイメージ服も発売されていた。サイズ別に。はそこで二分の一の俺にぴったり設計されているあの着物服を購入したらしい。
　が。値段を見てぶっ飛んだ俺は、さっそくそれをキャンセルした。
「高すぎるだろこれは…なんで俺だけすごく高いんだ……」
　各衣装服をチェックした末にぼそっとぼやく俺に、がエッグチェアの中でふわあと欠伸を一つ。「そりゃあ、着物だからじゃない？　他のみんなより凝ってるし」「いくら何でも高い。キャンセルしたからな」「…なんだ。せっかく頼んだのに」ちぇ、と拗ねた顔をしたに、着ているTシャツを掴んでぱたぱたする。「このままじゃかっこ悪いってんなら裁縫でも始める。パッチワークみたいな服でも作ってやろう」と拳を握る俺に、彼女は呆れたように笑う。「まぁ、いいよ。神威の好きにしたら」「あ」「あ？」首を捻ったにぐりっとPCの方を向く。適当な子供服サイトをぱぱっと呼び出して、
「ジャージが欲しい」
「なんでジャージ…」
「うるさい。どうせ買うならジャージにしてくれ。サイズぴったりなやつ」
「はいはい…どうぞ買って」
　好きにして、とエッグチェアのクッションにもたれかかる。
　彼女が着ているのと同じメーカーのジャージが欲しい。なんでって、……まぁいいじゃないかそんな些細なことは。別にひっそりこっそりペアルックとか思ってないぞ。思ってないからな。ほら、メーカーもののジャージなら動きやすいし、それなりに丈夫だし、外へ出たってそんなに格好悪くないだろ。それだけだよ。
　俺が買い物をすませた頃にははエッグチェアの中で本を置いてうとうとしていた。
　膝を抱えた姿勢のままよく眠れるもんだ、とその姿に感心し、呆れ、うなじからコードを引き抜く。潰れそうな本を取り上げ、ブランケットを被せてやる。どことなくばらばらした長さの黒い髪がふわっと宙に浮いて、沈む。
　美容院なんて行かないの髪は俺がカットしているが、やっぱり専門の奴に任せた方がきれいに仕上がるのだろう。どことなく歪な前髪を撫でて、そばを離れた。
　たまには男のぶちこみ料理以外を披露してやろうじゃないか。レシピは記憶したし、下ごしらえをしよう。
　人気アイドルとできちゃった婚をした男。二人の結末は、よくある不幸の形で終わった。
　結婚したことで人気アイドルとしての彼女の支持率は下がり、さらに子供ができたことで、子育てに専念しなければならない彼女には芸能界から去るしか道がなかった。
　男は当時の人気アイドルと結婚した一般人（といっても高収入職についていた）ということで、一時的に世間から注目された。だが、特筆するほど仕事ができるわけでもなく、悲惨な人生を歩んできたわけでもないので、本当に一時的に注目されただけで世間から忘れ去られた。
　人気アイドルとしての自分を誇っていた彼女の精神は、堕ちたアイドル、子育てに追われる日々によって徐々に崩れ始め、そんな彼女のことを、男は面倒くさいと思うようになる。
　ただでさえ人気アイドルの座を降りた彼女には世間知らずのかわいさしか残っていなかったのに、そのかわいさすら失われ始め、男が彼女に向けた愛情というのは冷めつつあったのだ。
　夫婦間が冷え込む中、二人の間に生まれた命は、は、行く場所がなかった。
　常に閉じこもるように部屋で過ごし、一人という退屈を紛らわすために俺というソフトを購入し、没頭した。それ以外を忘れるようにと。
　すでに愛の失われた男と女にとって、という存在は邪魔でしかなかった。だから追い出された。はそれを拒否しず受け入れた。拒否する権利もありはしなかった。
　そうしてあのボロアパートへと追いやられ、数年を過ごし、呼び戻されたのは母親が事故で死んでから。父親は女のもとへと逃げてから。
　選択の余地などない人生がなだらかに続くだけの道。
　は、恐らく、生きることにくたびれている。俺はそれに気付いている。
「。提案がある」
　夕食にはちみつで浸けたやわらかい豚テキとサラダ、炊き立てのご飯を用意した。豚テキをかじったが首を傾げる。「何、提案って」昼寝をしたからだろう、多少目はぱちっとしているし、一言目から却下とかそんな言葉を聞かなかっただけ運がいい。その運のよさという気紛れがそっぽを向かないうちに俺は彼女に一気にこう言ってやった。
「お前全然外に出ないしたまには遠出しようせっかく季節もよくなってきたんだ山とかいいぞロープウェーとか俺も乗ってみたい」
「は、」
「今の季節の山は観光地値段だが旅行にはちょうどいいぞ紅葉とかきれいだぞなぁ行こうそうしよう予約取ったからな！」
　訓読点を無視して台詞の一気読み、最後にびしっと指を突きつけて言葉を吐き出しきると、豚テキを食べる体勢で固まっていたがまず取った行動は。口に入れかけた豚テキを食べ、咀嚼し、飲み込み、そしてぎろりと俺を睨んで。「何それ。冗談？」と間違いなく機嫌の降下した低い声で問いかけてきた。「冗談じゃない」その機嫌の悪そうな声に負けじと胸を張る俺。
　彼女はしばらく食事を続け、きっちり全部食べ終わってから、はあぁ、とこれ見よがしな溜息を吐いてみせた。
「旅行ってこと？　それももう予約したって？」
「うむ。ついでに言えば三日後だ。二人一組最後の空きだった。今からキャンセルするとキャンセル料でだいぶ取られるぞ」
「……三日後って。君ねぇ」
　俺と付き合いの長いもさすがに怒り半ばで呆れてもいる。はあぁ、とまた長い溜息を吐いて「なんで僕が山なんか…」嘆かわしいと言いたいかのような絶望しきった声を出すから、がしっと細い肩を両手で掴んだ。「お前はもっと笑って生きているべきだ」と言った俺に彼女は怪訝そうに眉間に皺を作る。

　今をただ漂いふわふわしているだけのお前には、たとえ嫌がろうとも、生きているという心地を知ってもらわなければならない。お前にそれを教えてやれるのは俺しかいない。俺は人間ではなくVOCALOIDだが、そんな俺でもできることがあるのなら、全てやりたい。
　お前が嫌がることは避けて通ってきたが、強引に手を引いてでも外の世界へと引っぱり出さなければ、お前は知らん顔をしたままこの狭い世界の中で朽ちることを選ぶだろう。
　それでは駄目なんだ。
　お前は俺の主人だ。こんなでも、俺の主人だろう。俺はお前が朽ちることなんて望まない。

「いいか、世の16歳の女子で料理の一つも本気でできない奴ってのはまず少数だし、おまけに週一ペースで外出するのがいい方なんて女子だって少数だ。おまけにお前は趣味といえばパソコンをいじることか読書というヒッキーだしバイトのバの字も知らないニートだし、ああもう、とにかく俺はお前が心配でならないんだよ！」
　話の路線が迷い始めたため、一度言葉を区切る。は次の言葉を頭の中でまとめる俺を眺めていたが、彼女からはもう先ほどまでの怒りとか呆れとかは感じられず、ただぼんやりと俺を眺めていた。
「…神威は心配性だね」
　ぼそっとしたぼやき声にきっと睨む。はやはりぼやっとした顔をしている。生きているという現実に稀薄な顔。果たして今自分が生きているのか、そうでないのか、それすら曖昧なぼんやりとした顔。
「当たり前だ。お前はそんなでも俺の主人だ。主人を案じないVOCALOIDがどこにいる」
　言い放った俺に、ふ、と口元を緩めて笑ったが俺を押しのけるようにしてソファを立った。俺の猛攻に諦めたのか、降参したのか、両手を挙げて「はいはいはい。どうせキャンセル料取られるんだろ。行けばいいんだろ、行けば」と、投げやりではあるが彼女からも了承を得ることに成功。よし、と拳を握る俺である。

　もうあまり時間もないのだ。
　、お前はいつまでもこのマンションの一室にこもって世界を拒絶できるわけではないんだよ。
　お前はもう16歳になった。日本の成人は20歳だ。あと4年。その間に俺はお前を自活できる人間へと育てなくてはならない。なぜなら、成人を迎えたら、子供に後腐れを感じていないあの父親からの援助金というのは間違いなく途絶えると見ているからだ。
　今のままのお前では金がなくなったら衰弱死するまで今の生活を普通に続行、やがて死亡、なんて姿すら想像できて空寒い。それだけは阻止しなくては。
　もうあまり時間がない。
　俺はこの4年の間に、お前をもう少しでも前向きな人間へと育てる責務があるのだ。
　だが、俺が望んでいたの中の変化というやつは、意外な形で訪れることになる。
「…？」
　じゃり、と石の小道を踏む足音が止まった。他の誰かなら気にも留めないが、それがのものだったから、数歩行ってから俺も足を止めた。が、小さい故に、後ろから人に押されて無意味に前に進んでしまった。
　ツアー客の何人かに迷惑そうな顔をしながら彼女を抜かしていく。
　何やってんだあいつは、と立ち止まったままののもとへ人の流れに逆らって戻り、手を掴む。
「おい、遅れてるぞ。なんか珍しいもんあったか？　…聞けよ！　今は集団行動なんだからな？　おい、」
　無反応にイラッとしたとき、彼女の手がすっと持ち上がってどこか一点を指す。「ねぇ、神威」「ああ？」なんだよそっちに足を止めるほど珍しいもんがあるのか、と顔を振り向けた俺は、彼女が指差すものを景色の中に認めて言葉を失った。
　ここから先は立ち入らないでくださいね、という、しかし乗り越えることも簡単である高さの柵の向こうの方。青い空には白い雲、見渡す限りの山々に清々しい空気。砂利道の脇には木に似せてあるプラスチックの柵があり、その向こうには保護対象である高山植物が顔を覗かせている。
　の指が示した先の方。清涼な山の景色のその一片に、あるはずのないものが転がっていた。
「ミクだ」
　ぐっと柵の手すりを掴んだにおいまさかと思ったら、彼女は行動していた。柵を踏み越え、立入禁止の柵内に入る。「おい君っ！」と制止の声を上げるツアーの親父ガイドにがしっと腕を回して俺が止める。「こら君、離しなさいっ、彼女を止めないと！」「ええいちょっと待て」俺と親父が言い合ってる間にはざくざくと歩みを進めていく。
　あんなところにミクが転がってるはずがない。はずがないと、思いたいが。
　高山植物の保護なんて無視で歩いていくにツアー客がどよめく。先頭で旗を掲げて歩いて説明をすることだけがお仕事、という顔のツアーの女ガイドは困った顔をしているだけで彼女を追おうともしなかった。
　体格差がある故に、俺が他のツアー客の大人に押さえつけられ、親父ガイドが柵を乗り越えたとき。高山植物の間に座り込んだが、担ぐようにして誰かを持ち上げた。
　長い緑の髪が目につく子供の背丈。そして、こんなところで転がっているという現実と、が躊躇うことなく触れたという現実を合わせて考えるなら、あれはVOCALOIDの初音ミクだ。
「おい…なんだあれ。緑の髪してるぞ」
「ああ、ボカロとかいうやつだろ。ほれ、そこにいる子もそうだし」
「それにしたってなんでこんなところで転がって……気味が悪いねぇ」
　ひそひそ声を交わす中年を無視し、「、そいつ生きてんのか！？」と声を張り上げる。VOCALOIDに対して生きているのかという表現はあれかもしれないが、壊れてんのか、と叫ぶよりはマシかと思った。思ったんだが、周囲は俺の生きてんのか発言にさらにどよっとして「死体！？」とか失礼なことを言う。
　大人の拘束が鬱陶しいのでそれなりに力を入れて蹴りを見舞って拘束を振り切り、柵に手をつき身を乗り出す。
　ずる、とミクを引きずるようにして戻ってきたが「意識はない」とこぼして俺にミクを預ける。
　気味悪がって寄ってこない大人達と俺達の間には微妙な隙間ができていて、俺はそこへミクを引きずった。
　チチチチ、と視界が電子色に瞬き、ポインタが出現、目の前の対象物、転がったまま動かないミクの解析を開始する。
（手足の欠損はなし。ただし胸部・腿・背中など諸所に修繕が必要な部分あり）
　閉じられたままの瞼を無理矢理開けて、ひいっという間抜けな大人組みの悲鳴を聞き流しつつ、反応のないミクの瞳の電子回路から分かる限りのことを解析する。
（電子回路に欠損あり。声帯は…駄目だろうなこれは。持ち主の特定のID№、は削られてるか…とすると）
　よいしょ、と柵を乗り越えて戻ってきたがミクの傍らに膝をつく。「どう？」「良いとは言えないな。むしろ悪い。、ちょっと支えてろ」ん、と頷いたがミクを抱き起こす。そのうなじにある溝に爪を引っかけてぱかっと蓋を開けると、中にはどろっとしたものが詰まっていて反射的に手を引っ込めた。
　ぼた、と落ちた液体から臭うのは鼻をつくようなガソリンの臭い。
　…間違いなく、このミクはもう救いようがない。
「……ひどい…」
　震える声をこぼしたは、泣いていた。
　もう二度と動くことはないであろうミクのうなじからガソリンが流れ、公式認可の制服へと吸い込まれていく。
　……こういうことが起きるだろうと、俺は思っていたよ。俺達ソフトウェアを購入しながらゴミ箱にポイする輩と同じことさ。どんなに高額になろうとも、厭きたら捨てることだって躊躇わないんだよ、人ってのは。
　だが、これは確かにひどいな。公式でもVOCALOIDの廃棄方法についてはちゃんとした手順がありそれなりに費用がかかると記載だってされている。恐らくは廃棄にかかる費用を払いたくないがためにこんなことをしたのだろうが。それにしたって、ガソリンを詰める必要は、なかったろ。
「ひどい…ッ」
　もう動かないミクを抱きかかえて静かに泣くに、幾分か心が安らぐ。
　お前が泣いてくれてる分だけ、そいつはまだツいていた。
　前まではサイズが小さかったから、無断廃棄したとしても見つかりにくかったということもある。だが、二分の一サイズが出回るようになった今、これからこういう問題は大きく取り上げられるようになるだろう。
「」
　周りには、相変わらずどよめき、近寄ろうとしない大人。動かないミクを抱えて泣いていると、そして俺。
　心中複雑になりながらも、とりあえず泣きやめと彼女の顔にハンカチを押し当てる。

　…このミクの発見が、お前の未来を決定することになろうとは、このときの俺はまだ気がついていないのだった。