ありきたりな出逢い方

 黒い霧に混じって、黒い雨が降っている。
 血よりずっと生臭く、水より粘性のあるものが肌を伝う。それだけでも眉を顰める程度には気持ちが悪いと思うのに、鼻をつく何かの腐ったにおいは嗅覚を捻じ曲げるようでただただ不快だ。
 つまり、簡単に言うと、気分が悪い。
 ぱた、ぱた、と落ちる雫が鬱陶して前髪を払った。外で潜入調査をする場合ビジュアルも重要ですとキイチにしつこく言われてから前髪を伸ばしてキープしてるけど、やっぱり、邪魔だな。切ろうかな。そうしたらまたうるさく言われるんだろうけど。
 掌を広げると、それまで握っていた手頃な大きさの岩はざらりと崩れて形を失って砂になり、さらさらとこぼれ落ちていった。
 壊れた玩具。そう形容するのが一番しっくりくる壊れたものが転がって動かない景色の中、一際大きい玩具から吹き上げられる黒い血はまだ止まない。
 はぁー、と深い溜息を一つ。
 終わった。
 能力軀あるいは能力者が潜んでいると報告のあった地区に駆り出され、実力充分という過大評価の判子の裏に人員不足の文字を見つつ、一人で三体を相手にして、正直少し疲れた。
 今回のは一般人が暴走したパターンで、残念ながら火不火の情報はゼロ。ただの処理仕事だった。
 腕を伸ばして足元に咲いている花をなるべく根本から葉と一緒につまんで抜いた。黒い雨に汚れた花弁を指でやわらかく払ってから唇を寄せて軽くキスをする。俺の意思を汲み取った花と葉と茎が急速に成長し、俺を中心とした壊れた玩具の景色を呑み込んでいく。
 黒い雨を吸い込み、代わりに花の香りを撒き散らし、気持ち悪い雨も気分の悪くなる臭いも根こそぎさらっていく。
「葬送」
 ぽつりと呟く、その言葉が終わりの合図だ。
 壊れた玩具が一つ、また一つと崩れてなくなり、その姿を青白い光へと昇華させ、天に召されて消えていく。
 能力者の細胞に蝕まれた動物・人間その他を治療する手段がない現状、俺達にできるのは、これ以上被害が広まらないように死神の鎌を振るってその首を落とすことだけ。
 青白い光の全てが消える頃、役目を終えた花はカサカサの枯れた姿になって掌から落ちていった。
 黒い霧も黒い雨も全て吸い込んでくれたから真っ黒になってしまった花の残骸も、夜の暗さに紛れて消えてしまう。
 唯一残っていた花の香りも強い風が一つ吹けばどこかへ消えてしまうだろう。
 すっと花の香りを吸い込み、汚れるからと放っておいた外套を掴んで羽織り、赤い月が出ている空に浮かび上がる。
 念のためもう一度周辺を見回りして、それから帰ろう。壱號艇と貳號艇、近い方でいい。早くシャワー浴びたい。そして寝よう。
 現在地から近いのが貳號艇だったから平門に一本電話を入れた。
 俺の腕輪の接近を感知してるはずだから間違っても艇に攻撃されることはないけど、弾かれることくらいは何回かあったから、念のためだ。
『ちょうどいい。面白いものがあるから期待していいぞ』
 近いんで貳號艇に帰還しますと事務事項だけ告げて切ろうかと思ったら、笑った声にそんなことを言われた。辟易と吐息する。平門が面白いというものはだいたい面倒なものと紙一重だ。だいたい、平門にとって面白いものが俺にとっても面白いものであったことがあろうか。経験上からも期待なんてできるはずがない。
「なんですかそれ。嫌な予感しかしない」
 正直にこぼして通話を切り、貳號艇内に帰還。『お帰りメェ』『お帰りメェ』門番の羊二匹に出迎えられて「ただいま」とこぼしてとんと床に足をつける。
「空いてる部屋、どこでもいいから案内して」
『照会するメェ。少し待つメェ』
 ばさ、と外套のフードを外してべたつく前髪をかきあげた。
 もう切ろう。キイチにうるさく言われるだろうけど決めた。切る。
 通路の奥から羊がもう一匹やってきて門番の羊と情報交換し、『ついてくるメェ』と短い足で歩き始めた。羊が歩く度に着ぐるみが歩いてるみたいな足音がする。
 ダルい、眠い、を堪えながら羊についていって、『この部屋を使うメェ』と案内された部屋にふらっと入室、まっすぐバスルームに向かって外套を脱ぎ捨てた。これもべたべたする。駄目だな全部洗濯しないと。明日どうせ報告書を書くからその間に…。
 ばさ、と脱ぎ捨てたシャツがキイチがこれが似合いますと押しつけてきたものだったことを思い出し、汚しちゃったなぁ、とぼんやり思う。
 鏡の中には黒い色で汚れている自分がいて、今にも寝そうだ。
 報告書は、明日でもいいか。その間に羊に洗濯してもらおう。そうしよう。
 次の日、定時刻に羊に起こされた。普通に起こしても起きなかったらしく無慈悲にベッドから放り出され、壁に叩きつけられる前に寝起きの頭で空中に浮かんで静止。ふあ、と欠伸をこぼしつつ床に踵をつける。
 相変わらず容赦ない起こし方だ。まだ寝たいのに…。
「俺、仕事のあとはたっぷり寝る人なんだけど…知ってるだろ羊」
 恨みがましくこぼしたところで羊には通用せず『知ってるメェ。平門が呼んでるメェ。そちらが優先メェ』と切って捨てられた。
 朝一から報告書を要求してくる気か。平門の人でなしめ。俺は仕事のあと寝ないと駄目なのに…。
 くあ、と欠伸をこぼしつつ顔だけ洗って部屋を出た。ベッドに潜り込んだところで羊に強制起床モードで起こされるくらいなら眠くて意識半分でも平門のところへ行くしかない。
 先を歩く羊に仕方なくついていき、見憶えのある部屋の前で足を止める。入室する前に羊にバスルームに放置したままの洗濯物を頼み、「です」と断ってからドアを開ける。
 まず、開口一番言っておきたいことがある。
「途中で寝ますよ俺」
「構わん。口頭で報告しろ」
 いつも通りの平門がソファの前で朝食を摂っていた。二人分並んでいて向かい側に誰もいないってことは、俺の分か。
 帰ってきてシャワー浴びて寝たし、朝もまだだし、そろそろ何か胃に入れたいと思ってたところだ。
 平門の向かい側に腰かけ、サンドイッチを手に取って口に突っ込んだ。とりあえず腹に入ればいいという食べ方をしていたら平門が呆れた顔で「お前、台無しだぞ」「ふぁい?」「キイチが気遣っているビジュアルが」平門までそんなこと言うのか、と半ば呆れつつマスタードのついた指を舐めた。
 人に言わせればそれなりにイケメンであるらしい俺は、その容姿を活かして行ってこいと無茶ぶりの潜入調査を命じられることも多々ある。そのときは外で作ってる顔とキャラに合うように仕種も心がけるけど、艇に帰ってきてまでそんな面倒なことしたくはない。どちらかといえば俺は面倒くさがりで雑なのだ。寝起きだし、眠いし、腹も空いてるし、素になるのはしょうがない。
 注意されても気にしないまま、サラダ、スープ、スコーン、紅茶、と次々平らげつつ片付けた仕事のことをかいつまんで話した。つまりハズレだったとまとめると平門は紅茶のカップを傾けつつ心持ち残念そうな顔をした。「そうか。ご苦労だった」「いーえ…」腹が満足したのでごろりとソファに転がって、昨日の平門の言葉を思い出した。
「そういえば、面白いものって? まさかまた仕事とか……」
 嫌な予感たっぷりにぼやいた俺に平門は片手を振った。違う、と。「眠いか?」「眠いですよ」「会いに行くか」眠いかと訊いたわりに全然眠気を配慮してくれない。会いに行く、という表現からして面白いものっていうのが事件じゃないってことは分かったけど、別に、どうでもいいというか。今の最優先事項は睡眠っていうか。眠いし。寝よう。
 寝よう、と目を閉じたのに「羊、を運べ」と命じる平門にはぁーと吐息して邪魔な前髪をかきあげる。「どうでもいいですから…」ぼやいたところで平門の命令は絶対である羊はメェメェと複数で寄ってたかって俺のことを持ち上げて運び始める。
 歩幅が小さい羊に運ばれるとかなり小刻みに揺れて腹の中が地味にシャッフルされ、食べたばっかりには辛い吐き気を覚えるため、「行けばいいんでしょもうっ」とぼやいて俺を持ち上げる羊の角から逃げて空を舞った。平門はといえば、そんな俺を見て人でなしの顔で笑っている。
 連れて行かれたのは與儀の部屋だ。ニャンペローナで飾りつけてあるからすぐ分かる。
「與儀、俺だ。无と花礫はいるか?」
(无…花礫……?)
 聞いたことのない名前に疑問を憶えつつ、今にも閉じそうな瞼を指で引っぱる。限界が近い。眠い。ビジュアル? そんなものどうでもいいよ知らないよ。俺はもう寝たい。
 と、ガチャっと勢いよく開いたドアにつけてあるニャンペローナの頭の形をしたベルがチリチリ音を立てた。「平門さん!? にだぁ」パァッと子供っぽい笑顔を浮かべる與儀にひらひら手を振る。地味に久しぶり、だった気もするけど、もう声帯すら寝たいようで声が出ない。
「昨晩帰還したところだ。二人はいるか」
「あ、はい。无ちゃーん花礫くーん、平門さんと、あとがねー」
 一人でも賑やかな與儀の間延びした声を聞きつつ、視界が斜めになり、トス、と平門の肩に頭がぶつかった。もう姿勢を維持できそうにない。眠くて。「まだ寝るな」無慈悲に引っ叩かれるものの目は覚めない。
 與儀の賑やかな部屋から現れた、白い髪に赤い目の男子と、黒髪黒目の男子。白髪の子は純粋無垢な子供みたいな顔をしていて、黒髪の子はだいぶ目つきが悪い。我が強そうだ。
 やっぱりと言うべきか、名前に聞き覚えがなかったし、見たこともない二人だった。
(クロノメイの卒業生ってわけでもないだろ。まだそんな時期じゃ…じゃあ、なんで、艇に)
 最後に回った頭がそんなことを考えた。
 次には俺の身体は眠気で傾いで、床にぶつかる前に誰かに抱き止められたけど、その腕が誰のものかも分からないまま、意識は泥沼へと落ちた。