「大丈夫?」 ふいに声が降ってきた。雨と一緒に。 それが自分に向けてのものだと思わなかった。だから小さくなって雨と寒さに震えたままでいた。だけどふとぽつぽつ当たっていた雨の感触がなくなった。ぱちと目を開けると、薄汚れた路地裏の景色、それから人の靴が見える。 「うわ、冷たいじゃんかお前」 俺を抱き上げた手の持ち主は、服が汚れることを厭わず黒い俺を抱き上げて鞄から取り出したタオルでくるんだ。おなかが減ったし寒いし冷たい。思考が凝り固まっている。柔軟さがない。相手は人間。どんな可能性もあった。よい方にも悪い方にも。 だけどその人間はよい方の人間だった。俺は運よく拾われた。それは秋も深まって寒さも増す、雨をしのぐには屋根のあるところでないと辛くなってきた、そんな冬も間近の季節のことだった。 「ぬるま湯! ぬるま湯なら大丈夫でしょ? ねぇジオ」 ジオと。そいつは俺にそう名前をつけた。どこからそう取ったのかは知らないが勝手にそう呼ばれた。呼ばれ続けるといっそ鬱陶しくて嫌でも憶えた。濡れるのが嫌いな俺はしゃあと唸ってその手から逃げ回る。風呂なんてごめんだった。犬じゃないんだぞ俺は。 だけどそのうち逃げ回ることが疲れてその手に捕まる。「だーめ、そろそろお風呂に入るんだよお前も!」という声。じろと睨めば俺の頭を撫でつける掌。それから笑った顔。 「はいお風呂ゴー」 ばたばたとその腕で暴れてついでにがぷと噛んでやった。それでも「痛い痛いジオ痛い」と顔を顰めながらも俺を抱く腕は俺を離さない。本気でやっていないからというのもある。本気でやったらさすがにお手上げで俺を手放すだろうが、本気でやらないとならないほど俺は風呂が嫌いじゃない。好きか嫌いで言ったらもちろん嫌いだが。 犬じゃないんだぞ、といつも思う。犬だったら一緒にお風呂というのもありかもしれない。だけど俺は犬じゃない。猫だ。猫は濡れるのを嫌うものだ。それくらい本を買ってるんだから知ってるだろうに。 かわいい猫との暮らし方・しつけ方、なんてベタな本まで買って。俺がそんなものに当てはまるとでもこいつは思ってるんだろうか。 洗面所の扉を閉められて初めてその腕から抜け出す。逃げ場は、ない。 「ぬるま湯だってば。約束。そんな嫌そうな顔しないでよ」 困った笑い方をするそいつに俺は不機嫌に尻尾を振る。 ねこのきもち、なんて雑誌まで定期購読して。馬鹿じゃねぇのこいつと何度も思った。 アパートの一人暮らし。猫なんてご法度に決まってるアパート内。それでもそいつは拾い上げた俺を家に置いた。爪とぎを買ってきて掻くならここねと俺にくどいぐらいに教えた。トイレはこっちだからねとこれもくどいぐらいに教えられた。一回言われればそんなことぐらい分かるっていうのにこいつは馬鹿か。馬鹿だ、馬鹿なんだ。 またその腕に抱かれて湯気でむわっとしてる浴室内に入れられて。俺はなるべく隅っこにいる。毛がぺたぺたする。湿気は好きじゃない。だけどまず俺をきれいにしようとシャワーのぬるま湯で俺を濡らす掌を引っ掻いて噛みついてまで逃げ出すほど、俺はそいつが嫌いではなかった。 だから不本意ながらわしゃわしゃとシャンプーで洗われる。一ヶ月に一回きっちりと。 「ジオはいい子だよね。本気で引っ掻かないもん」 シャンプーが目に沁みるのが嫌な俺は目を瞑ってる。降ってくる声とわしゃわしゃと俺を洗う掌の感触。 目を閉じれば思い出せる、寒さとおなかを満たすのに必死だった日々。 人に拾い上げられればなんてことはない、寒さも飢えもすぐに満たされた。こんなふうに冷たい雨でなくあたたかい雨で全身を洗われるようになった。俺は運がよかった。人に拾い上げられた。それは野生の誇りを捨てるということでもあったけれど、俺は特別そこにこだわりはなかった。誇りだろうが何だろうが、車に撥ねられれば俺達はあっさり終わる。そんなふうにサバイバルな生き方をするよりこんなふうにぬるま湯に浸かる方がずっといい。 「はい流すよー」 声が降ってくる。だから息を止める。シャンプーが洗い流されて全身お湯で濡れる。身体が重くなる。そういうのは好きじゃないけど仕方がない。一ヶ月に一回だから俺も我慢する。洗われれば身体が痒くないからその方がいいのも事実だし。 俺を洗い終わった後に自分の方を洗い始めるそいつをぱちと開けた目で見やる。ちらりと自分を見てみれば、ぺったりした毛並みが見えた。 暑いくらいのここの空気は好きじゃない。好きじゃないけど仕方ない。一ヶ月に一回なのだから。だから大人しく洗われてやるのだ俺は。 そいつが手早くシャワーを終えて開けた扉から外に出る。ぶるぶると身体を振るう。飛んだ水雫にそいつは笑う。バスタオルで俺をくるんで「はい拭くよ。風邪引いたら大変」と先に俺のことを優先する。言ってる先からくしとくしゃみしてるのだから言わんこっちゃない。てめぇの方を優先しろって話だ。 だけどわしわしと俺を拭くタオルの感触。毛がつくとかそういうことはいいのかとか思うけど、そいつは特別気にしてないようだ。だから俺も気にしない。 そのうちに手早く着替えたそいつがドライヤーで俺を乾かし始める。ごおおと耳にうるさいことこの上ない音が俺は嫌いだったけど、仕方ない。これがないと身体が乾かないのだ。乾かないままだとぺったりした毛が身体にはりついて重いし、外での日々を思い出す。だから俺はこれも我慢して乾かされる。 「ジオはいい子だね。みんな嫌がって逃げるって言うんだけどな」 (知るか) みんなって誰だよと思いながらつんとそっぽを向いたままでいる。苦笑いしたそいつがかちんとドライヤーのスイッチを切って「はいおしまい。いい子でした」と俺の頭を撫でる。不本意ながら撫でられる。そうすると思い出す、いつかの掌の感触。 自分の髪の方は乾かさないままがちゃんと脱衣所の扉が開けられて、熱気から逃げるように外に出る。ソファの方に行く。 窓の外では雨が降っている。いつかの日のように。 「ん? どしたのジオ」 雨が降っていた。そうすると俺はだいたいそいつの膝に跳び乗る。不思議そうな顔で首を傾げるそいつから視線を逸らして適当につけられてるテレビの番組を見たりする。人間がやってることの内容は分からないからただの流れる景色だ。 雨が降っている。俺は雨が苦手だ。だからそいつの膝で丸くなる。ソファで適当にくつろいでたそいつが苦笑いして俺の頭を撫でる。 「かわいいジオ」 (かわいくない) 「あのね、今度またたび買ってこようか。なんか遊び道具もいるよね。俺が仕事行ってる間お前ここに一人だもんね」 (…別にそんなものいらない) 「あとねー缶詰。たまにはキャットフード以外食べたいでしょ? おやつも何か買おうか」 (別にそんなものいらない) 「家とかほしい? いつまでもダンボールにタオルじゃお前もやっぱり嫌だよね」 (別に、嫌じゃない) 「雑誌に色々載っててね。お前に首輪つけてないけど、やっぱりいらないよね。重いだろうし」 ぱちと目を開けて顔を上げる。「お?」と首を傾げたそいつにみゃあと鳴く。俺はあまり鳴かない。鳴く必要がないからだ。こいつがいなければ一人の部屋でどれだけ鳴こうとも誰も来てくれない。そんなこと分かってる。こいつがいれば俺が鳴く必要がない。だから俺は鳴かない。 呼んでも来てくれないなら、呼んだって意味がない。 だから俺が鳴くのは飯を早くしろと言いたいときか何か催促のときか。それとも嫌だと言うときかのどれかだ。 だから今鳴いたのは、別に嫌じゃないという意味で。首輪をつければ完全にお前のもので俺は人間のもので、別にその証拠があったって構わないと思った。ねこのきもちの雑誌を広げて「今度ジオの写真撮って投稿しようかなぁ。あ、バカチョンじゃ駄目かな」とか独り言を漏らすそいつにみゃあと鳴きかける。俺の頭を撫でる掌。くしゃと耳が折れる。 「あー、でもお前カメラの方向いてくれないもんね」 苦笑するそいつ。言葉が通じないということがたまにひどくもどかしい。言葉が通じたらどれだけ言いたいことがたくさんあるか。お前は俺に語りかけるばっかりで俺の言葉は聞いちゃくれない。 たとえ聞いてくれたとしても、俺の言葉はお前に通じない。 「ジオかわいいから、絶対雑誌載るよ。ねぇ今度写真撮ってもいい?」 (嫌だ) そっぽを向いたら苦笑いされた。「やっぱ駄目か」という声が降ってくる。外では雨の音。俺を撫でるのはあの頃から少しも変わらない掌。 俺はもうだいぶ外に出ていない。それでも構わないと思っている。俺の世界はこの狭いアパートの一室だけ。だけどそれでも構わないと思ってる。 ふいに俺の脇に手を入れて抱き上げたそいつ。身体が持ち上げられる。足が浮く。じろと睨めばいつもの笑った顔。 「かわいいねジオ」 (かわいくない) 「大好きだよ」 (………) こつと頭に額が当てられる。その胸に抱かれて俺は不本意ながら目を閉じる。 言葉が通じないのがこれほど不便だと思ったことはない。 その言葉に言葉を返すことさえ、俺はできやしないのだから。 |