「ただいまぁ」
 がちゃんと慣れた扉の音がする。ソファで丸くなっていたところからぱっと顔を上げれば、疲れた顔でばたんと扉を閉じたそいつがけほと咳き込んだ。それに眉根を寄せる。何となく顔色が悪い。
 いつもはしないくせにキッチンでコップを手にしてがらがらがらとうがいをしたそいつ。俺の視線に気付くといつもの困った顔で笑った。「風邪もらっちゃったみたい」と。
 いつもただいまージオさみしかった? いい子にしてた? 壁どこも引っ掻いてないね、お前ってほんとにいい子だねと。呆れるくらいに言葉を投げてくるくせに、俺に早めのご飯をやって錠剤を飲んで、そいつはすぐにベッドに入り込んだ。いつもなら俺がご飯を食べるのを鬱陶しいくらいに見てるくせに、今日は視線を感じない。それでまだ一人なのだと錯覚を起こす。だけどけほという咳の音で俺は一人じゃないと思い出す。
 早めにご飯を片付けてそいつが潜り込んだベッドに寄っていく。けほとまた咳の音。それに眉根を寄せながらベッドに跳び乗る。もふもふと布団を踏んでそいつのそばに行った。人間の風邪は猫である俺にはうつらないから心配ない。
 枕元まで行けば、薄目を開けたそいつが困ったように笑う。「風邪なんだ。ごめんね」と。何がごめんなのかよく分からない。もらってきたって言うんならお前はうつされたってことで被害者だ。謝る必要は欠片もない。
 だけど布団の中から伸びた腕と、その掌に頭を撫でられて。いつもみたいに一緒にいてやれなくてごめんねと、そういう意味のごめんだと悟った。
 だから。馬鹿かこいつと思いながら俺は枕元で丸くなった。困ったように笑った顔で「ジオ」と呼ばれる。
 俺は人間じゃない。だからお前の世話もできない。俺にできるのはお前のそばにいることぐらい。風邪で辛いんだろうお前のそばにいることぐらいだ。
 少し寒い。そう思ってもそもそとそいつの布団の中に潜り込んだ。不本意ながらその腕に抱かれるようにして丸くなる。眠くはない。だけどこれで少しでもお前がどこかしらで安心して早く眠れるのなら、苦しくなくなるのなら。俺はそれでよかった。
「あったかいねジオ」
(当たり前だろ。早く寝ろよ馬鹿)
「明日、元気に、なったら。遊んであげるからね」
(分かったから寝ろよ馬鹿)
 ぼやく声に胸のうちでぼやいて返す。俺を抱き締める腕。寒いのか布団の中で小さくなるそいつを見上げる。耳にかかる吐息の熱さ。熱があるんだろう。
 俺は。何もしてやれない。だって猫だから。
 人間だったらよかったのに。何度もそう思った。だけど俺は猫だった。こいつに拾われた運のいい猫だった。ただそれだけだった。
 俺は人間じゃないから、こいつに何もしてやれない。
 と。鳴いても。伝わらない。ただ薄く笑んだ口元と閉じた目で満足そうに笑うそいつがいるだけ。俺がいると言ってもそいつにはただ鳴いてるようにしか聞こえない。この思いは伝わらない。俺の言葉は一つもお前に伝わらない。
 だから、早く元気になれよと。いつもみたいに笑えよと思って、俺はそいつの腕に抱かれたまま黙る。少しでも早く眠って少しでも早く薬が効いて、少しでもこいつが楽になれるように。俺ができることは何一つなかった。
「くぁー…、寝た」
 それで目を覚ましたそいつが起き上がる。もう夜中だった。俺までうとうとしていてその声で目が覚めた。俺を抱き上げたそいつが笑う。少し元気になったようだ。
「お早う」
(夜だぞ馬鹿)
「あー飯…何か食わないと」
 ごそごそとベッドから抜け出すそいつを追いかけて俺もベッドを下りた。がちゃんと冷蔵庫の扉を開けて「うわー何もないや」とぼやくそいつの足元に寄る。冷蔵庫からの冷気に身を竦めたそいつがぱたんと扉を閉じて「仕方ないカップ麺にしよ」とレトルト食品の入ってる戸棚をあさる。それで取り出した行列のできるシリーズのラーメンのビニールを破りながら「どしたのジオ」と俺の頭を撫でる掌。
 みゃおと鳴く。べりとラーメンの蓋を開けてコンロにやかんをかけたそいつが俺の頭を撫でる。「どしたのジオ」と。
 だいぶ顔色はいい。きっと薬が効いたんだろう。だから油断せずにちゃんともう一回薬を飲めと言った。薬瓶は机に放置したままだから忘れてるかもしれない。だから俺はとって返して丸くて高さの低いテーブルに跳び乗ってかしゃんとその瓶を転がした。ごとんと床に落ちたそれを拾ったそいつが「ああ薬。ちゃんと飲めって?」と顔を上げるからみゃあと鳴く。そうしたらそいつが笑って俺を抱き上げた。「大丈夫飲むよ」と。
「いい子だねジオ」
(別に。これくらい普通だ)
「それにお前賢いよ。きっと大きくなったらかっこいいオスになるね。ガールフレンドいるなぁ」
(…別に。そんなのいらない)
「あ、お湯」
 俺を床に下ろしてコンロの方に駆け寄るそいつ。カップ麺にお湯を注いで携帯で時間を確認しながら「えーと五分五分」とぼやいてテーブルの方にカップ麺を持っていく。俺はテーブルのそばに座って待っていた。床に座り込んだそいつが袖で目を擦って「あー視界ぼやける」と漏らす。
 じゃあやっぱりまだ完全には治っていない。油断は禁物だ。人間でも猫でも、病気が悪化すれば辿る道は同じ。
 だからポケットに入れられてる薬の瓶をたしと尻尾で叩く。携帯で五分のアラームをセットしながら「ああ薬? 大丈夫だよ忘れてない」と笑って俺の頭を撫でるそいつ。「心配かけてるね。ごめんね」と言われてそっぽを向いた。別に心配なんてしてない。お前に風邪引かれたら俺が迷惑って、ただそれだけの話だ。
 俺を抱き上げて目線の高さまで持ち上げたそいつが笑う。いつものように。
「かわいいねジオ」
(…かわいくない)
「お前は俺の自慢だよ」
 胡坐をかいた膝の上に下ろされる。携帯を開いて「あと三分」とぼやいてぴっとテレビをつけたそいつ。部屋に音が流れる。そうするとやっといつもの生活が帰ってきたような、そんな気分になる。
 この部屋が静かなのはこいつがいないときだけで十分。主がいるにも関わらずしんとした部屋なんて、俺はごめんだ。
「よーし薬飲んだ。歯磨きした。シャワーはやめとこうかな。一日我慢しよ」
 空になったカップをぞんざいに洗ってゴミ箱に突っ込んだそいつがベッドに戻ってくる。ぱちんと電気の消えた暗闇の部屋。再び音のなくなった部屋。だけどあいつはそこにいる。
 だから俺は先にベッドにいる。俺に気付いたそいつが首を傾げて「今日はそばにいるね。寒い?」と言って俺を抱き上げてベッドに入った。
 別に寒くなんてない、いつも通りだ。お前がいつも通りじゃないだけで俺はそれに合わせてるだけだ。それだけ。
 そいつが「明日も仕事なんだよね。起きなかったら起こしてね」とか言うからふんとそっぽを向く。目覚ましがあるんだから俺が起こすまでもなくどうせ起きるくせに何言ってるんだか。
 頭を撫でる掌の感触。いつもなら俺はダンボールの中だ。毛布が敷かれてるし雨も風もないんだからそんなに寒くもない。布団の中はちょっと暑いし、出るにしても重たい布団の中を潜り抜けるのは疲れる。
 だけどまぁたまには。お前が風邪を引いたときくらいは、こうして布団の中で一緒に眠ってやってもいい。

あなたが帰る場所
(俺はここでお前を待つ、ただの猫)