「…遅い」
 携帯の画面を睨みつけながら寒さに凍える息を吐き出した。手袋もしてきた方が正解だったかと思いながらはぁと自分の手に息を吐きかける。
(映画見ようって言い出して待ち合わせってしたくせに何遅れてるんだあいつは。もう開演ぎりぎりだぞあの馬鹿)
 胸中で言いたい放題言いながらはぁと息を吐きかける。手が赤い。寒いのは苦手だ。暑いのも苦手だけど。
 電話でもしてやろうかと思いながら閉じた携帯をポケットに捻じ込んだとき「ジオー!」と聞き慣れた声。ぴくと身体が反応して顔を上げればいつも通り笑って手を振ってるあいつ見えた。だけどどこか、
「…なんかぼろぼろじゃねぇ? お前」
「あ、分かる? 路面が凍っててさー、派手に転んじゃった」
 片足をびっこ引きながら歩いてきたがえへと笑う。だから顔を顰めて「お前アホか?」「いや不可抗力です。で、遅れてごめんなさい」と頭を下げられて言葉に詰まった。そりゃあ好きでこける奴はいないだろうが。だからってびっこ引いてまで映画なんて見る必要は。つーかびっこ引くぐらい響いてんなら家に帰るのが妥当だろう。
「映画。遅れちゃう」
「あ? 見るのかよほんとに」
「見るから誘ったんだよ」
 びっこ引きながら俺の手を握ったに呆れた息を吐く。
 寒さに凍える手が自分じゃない誰かの体温に触れて安心したように痛くなくなった。馬鹿みたいに。
 もう片方の手をコートのポケットに突っ込みながら「どうやったらびっこ引くぐらい派手に転べるんだよ」とぼやく。があははと笑いながら「俺が転んだっていうか、転んだのおばあさんなんだけどね。庇ったら打ち所悪かったみたいでさ」それでさらっとそんなことを言ってポケットから財布を抜いて「俺出すよ」とカウンターに歩き出す。だから離された手にまた息を吐きかけながらちらりと頭上を見やった。案内はどこも満席か空席が少数しか表示されてない。
 映画館。どこにでもあるコロナワールド。まさか男二人で来ることになるとは思ってもみなかったけど。
(…馬鹿っぽい)
 びっこ引いて受付の奴と会話するの背中を見つめて視線を逸らす。建物の中に入っても冷たいままの自分の掌に息を吐きかけた。
 また痛い。また寒い。さっきあったかくなったって思ったのに。
「ジオ」
「、」
 呼ばれて顔を上げる。ひらとチケット二枚を振って「かろうじて空いてる。おいで」と俺を呼ぶから。だからポケットに手を突っ込みながら歩き出してそのチケットを受け取った。
「どの辺りになった?」
「もう端っこしか空いてなかった。ごめんね、俺が遅れたから」
「…不可抗力なんだろ。いつまでも気にしてるなよ」
 申し訳なさそうな顔をするから視線を逸らす。それからびっこ引くそいつのためにその手を握り込んで引っぱって歩き出しながら「ほら行くぞ」と言う。
 視界の端でが満足そうに笑ったのを見たらまた熱くなった。手だけじゃなくて顔も。
(…ばーか)
 今流行りの映画。ミステリーもの。俺は特別映画に興味がある方じゃなかったけどが行きたいって言った。原作を読んだことがあるらしく映像化したものが気になるんだそうだ。だから俺も付き合った。その原作とやらを読んだことがないし比較のしようもないけど、たまには息抜きに映画くらいいいかと思ったからだ。
 受験生ってやつで、来る日も来る日も勉強ばかり。俺より一つ上の所謂先輩だったこいつは今大学生。俺は同じ大学を目指して受験勉強の毎日。
 の奴は推薦で学校に入った。俺はサッカーならそれなりにできたけど勉強はまぁ普通だった。スポーツ推薦ならどこへなりといけたかもしれないけどの学校へはそれでは入れなかった。だから地道に勉強して受験して学校を受けるしかなかった。
 どこでもよかったなら、推薦で楽に入れるどこかへ行けばよかったのかもしれない。そんなところはきっと腐るほどある。
 だけど俺はのいる大学に行きたかった。それだけだった。そのためなら受験生ってやつもやってやるし勉強だって睡眠時間削って他の何を削ってでも頭に叩き込んでやる。だからの手に届かない場所に行くことだけは避けたかった。が手に届かない場所に行くことを避けたかった。
 できるなら一緒の大学に。同じ場所にいたかったから。
「くあー耳痛い…きーんてする」
「そうか?」
「そうだよ。あー酸素不足かもー」
「お前って案外繊細だよな…」
「そりゃジオもでしょ」
 こめかみをぐりぐりして雑踏の中で笑う。目を背けてすっかり寒さを忘れた手をポケットに突っ込んで「結局俺にはよく分からなかった。犯人死んだのか?」「あーうーん、これは本読んだ方がいいよ。その方があーってなる」「ふーん」だけど事実そんな暇はない。帰ったらまた勉強なんだから。
 が俺の腕に触れて「ね、ティータイムにしない? 俺おごる」「…お前なぁ」だから息を吐いて「俺が受験生って知ってて言ってるのか?」「うん。ジオが疲れたって顔してるからね」それで目元を指でなぞられて背中にむず痒い感じが走った。思いっきり顔を背けながら「おごりなら行ってやるよ」とぼそぼそ返せば視界の端でが満足そうに笑ったのが見える。
 馬鹿じゃねぇの。そう思いながら甘んじてその厚意を受け入れる。
 何でかって言ったら。そりゃあやっぱりおごりが嬉しくないわけがないし、事実まだ交通費しか出してねぇし。それに。
(…惚れた弱み。ってやつか)
 だから、雑踏と人混みの中はぐれないようにと握られた手をそれとなく握り返す。そうするとまたぎゅっと手を握られる。応え。だからさっきからずっと顔が熱い。ここに誰も俺を知ってる奴がいないことを祈る。言い訳が、きかないわけじゃないけど。でも。
 胸を張って言えることじゃない。
 誰が誰を好きになろうとそいつの自由だ。だから俺が誰を好きになろうと自由だ。
 だけどやっぱり、男が男を好きになるっていうのは間違ってる。世間一般で言わせれば。
「はいカフェオレ」
「ん」
 適当な喫茶店に入って適当なものを頼んで。の奴がわざわざあんまり熱くないようにお願いしますとか言ってくれたからかあと顔が熱くなった。外でそこまでしなくていいこの馬鹿。
 寂びれた、ってわけじゃないけどそんなに客のいない喫茶店。こういうところは地元で馴染みの奴が来るんだろうとか思いながらが頼んだサンドイッチの方を咀嚼していた。その間は手持ち無沙汰なのか今日も結ってある俺の髪を掌で弄びながら「また伸びたね」と言う。サンドイッチを口に押し込んで「知るか」と返しながらずずとカフェオレをすすった。確かに、熱くない。
 頬杖をついて俺の髪をじっと見つめるから視線を逸らして「お前は最近どうなんだ。忙しいのか?」「んーまぁねぇ。サークルなんて入らない方がよかったかなぁ」それで苦笑したがそうこぼして「ジオとの時間が減るばっかりだね」と言う。俺は口を噤んで周りに視線をやった。特別俺達の会話に聞き耳を立ててる誰かがいる、ってわけじゃない。
 だからの手に触れて押し返しながら「受験生なんだし仕方ない」と毎日毎日自分に言い聞かせてる言葉を口にする。苦笑いしたがコーヒーをすすった。それから「いつ」と漏らしてことんとカップを置いて手をぶらぶらさせる。それに眉を顰めて「足だけじゃないのか」「んー」誤魔化すように笑うに俺はさらに眉根を寄せた。
(転んだって、庇ったって、どの程度だ。びっこ引くの少しは治ったと思ったけどそれってお前が我慢してるだけでまだ痛いってことなのか)
 ぐるぐるする頭からはすっぽり勉強したことが抜け落ちている。俺はここに来るまで暗記のノート片手に受験生らしくしてたはずなのに。それなのに。
「ねぇ、ジオが無理してまで俺と一緒のとこに来る必要ないと思うよ」
「あぁ? 今更だろそんなの。もうお前んとこの大学に用紙提出した」
「あー…そうだね。今更か」
 頬杖ついたが「ジオは俺が好き?」と訊く。だから顔が熱くなるのを自覚しながら周囲に視線を走らせるのはもう癖だ。それで誰も俺達の会話に聞き耳立ててないってことを確認してから「好きだから一緒んとこ行くんじゃねぇか」と返す。小声になったのはもうしょうがない。
 が困ったように笑って「受かればいいけどさ。落ちたらどうするの」「…落ちない」「ほんとに? 心配だなぁ」「俺の記憶力疑ってんのか」むっとしてそう言えばが緩く頭を振る。それから困ったようにいつものように笑う。
「俺のためにって言えば聞こえはいいけど、俺のせいでジオは今大変だからさ。そういうのはやだなぁと思って」
「…俺は自分で望んでお前のいる大学に行くんだ。お前のせいじゃない」
「うーんでもさ。別々の大学でも全然いいんじゃないの。レベル合ったところってことで」
「俺はお前と一緒にいたいんだよ」
 どんとテーブルを叩く。聞き分けが悪いなお前と睨みつければが「そう。そっか。じゃあしょうがないか」と納得してない顔でテーブルに頬を乗せて息を吐いた。

「なんかさー、ジオが無理してるみたいに見えてさ。そういうのずっと見てるのって案外辛いね。必要なことでもさ、避けられるんなら苦しまない道を行ってほしいって。思ったんだよ」
「…お前ばっかじゃねぇの」
「馬鹿かなぁ。そうかな。甘いかな」
「そんなんじゃ社会に出て蹴落とされるぞ」
「うわーそれイヤだ」

 が笑う。笑ってから痛いって顔をして腕をさすった。だから俺は口を閉ざして手を伸ばす。の頭に触れて人の頭ってどう撫でればいいんだと思いながらくしゃっと撫でてみた。無駄に髪を乱しただけで全然撫でた感じにならなかったけど。
 はいつも俺の頭を優しく撫でるけど、あれって実はそれなりに大変なんじゃないんだろうか。相手が心地いいと思えるように人の頭を撫でるなんて。

「あと一ヶ月我慢しろ。そしたら結果が出るから」
「…そうだね。そうだ。一ヶ月、俺もバイトがんばってお金貯める」
「…それ何に使うんだよ」
「えー? 将来のための貯蓄です」
「……ばっかじゃねぇの」
「そんなことないよ。こんな時代だからこそ貯金は大事」

 が笑う。仕方がないから俺も笑う。そうやって日常は回っていく。
 とりあえず受験どうこうが落ち着くまではお互いまだ会えない。別に会ってもいいけど俺にとっての影響力はこの上なく強い。だから会ったら頭に刻み込んだはずのものを忘れるから、だから会わない。会えない。会いたくてもそれが俺のためだから。
 だからあと一ヶ月。あと一ヶ月我慢して、そうして合格したってに言ってやれば。知らせてやれば。そうすればやっと俺はの腕に抱かれて、その居心地のよさに目を閉じることができる。

ひたむきに君だけに、
依存