頼むからもうこれ以上俺を
追い詰めるな

 いつだったかこんな話をした。
 何で男のこと好きになれんだよと訊いた俺に、あいつは困ったなってふうに笑った。よく知ってる笑顔だ。あいつはそういう顔で笑って話をすることが多い。そうじゃないときはどうだろう、あいつはいつも笑ってるから。どうして笑えるのか知らないけど笑ってるから。
 一番幸せそうに笑うのは、言うまでもなくルピの話をするとき。
 どうしてかな、俺にもよく分かんないや。けど。そこで言葉を切った相手にけど? と続きを促せば、やっぱり困った顔で笑ったあいつが俺の頭を撫でるのだ。ルピとは違って仮面の名残で覆われてしまってる頭を、冷たいだろうその名残をそれでもいつもの優しい手つきで。
 ジオにもいつか分かる日が来ると思うよ。あいつはそう言って笑った。
「……………、」
 そんないつかの夢を。見た。
 起き上がればいつもの部屋の景色と、眠りに落ちる前まで読んでた本がばさと音を立ててソファから落ちたところ。やべぇまた寝こけた。欠伸を漏らしてぐいと目を擦ったとき、滲んだ涙を欠伸のせいと取らず別の意味に取った俺は、本当に救いようがない。
 いつか分かる日が。
 そんな日来るはずもないし来てほしくもないと思ってた。恋なんて知らないままでいい。俺は従属官のままただ陛下に仕えていればいい。そうすれば俺の場所はそこにあって俺はそれなりの安全と地位を得られる。
 それだけ。俺が従属官になってこだわってるのはその一点。従属官なら従属官らしくあるべき。そうしていればいいだけという話なのだから、それもまた簡単だ。
 だから。恋なんてものはする必要もないしそんなものするはずもないと思っていた。
 破面だ。許されない存在からさらに歪んだ進化を遂げた自我を持ってしまった化け物。死神とぶつかれば斬るか斬られるかの闘いをせねばならず、俺達は命を吸って生きる。誰かの魂を得て息をする。
 どこの世界でも歪みはある。尸魂界も現世もここも同じだ。分かってる。人間だって自分以外の動植物を犠牲にして息をしてる。分かってる。これはそれと同じことだと。
 ただ違うのは。人間は自分達の言葉しか分からないから、動植物の悲鳴を聞かずにいられることだ。その罪に苛まれることがない堕落と隣り合わせの生き物。尸魂界もその点においては同じだ。
 俺達だけが。歪んだ存在だけが、歪んだものを聞き届け覚えその悲鳴を打ち砕く。
(馬鹿みてー)
 とんと仮面の名残を叩いた。額のすぐ前にある歯型、その冷たい感触。視界の端を少しだけ塞ぐ牙の残り。
 別にかわいくあろうなんて微塵にも思ったことはない。これが邪魔だって思ったこともそんなにない。どうせどこかしらに残るものなんだから、残ったもんは残ったもんで仕方ない。
 だけどこの間。とその隣を歩くルピを見た。あいつは相変わらず笑ってた。それにルピの方はそっぽを向いてたけど、あれはどう見たって照れ隠しだ。多分あいつもそんなこと分かってるんだろう。だから笑顔だった。
 笑顔。だった。
「…畜生」
 冷たい仮面が。頭を覆うようにあるその仮面が怨めしいと、思った。
 ルピってやつは頭の左側に少し名残を残すだけだった。髪はが言ってた通りの黒に少し紫がかかった癖っ毛。長い袖と腰のところが開いた服は想像通り。だけど表情はだいぶ、違ってた。
 どっちも幸せそうだった。それがひどく気に入らないと思ってる自分がいる。牙を剥いてやりたいと思ってる自分がいる。牙を剥いてしまいたいと思ってる自分が。壊してやりたいと思ってる自分が。
 だけどそれじゃああいつの笑顔を手に入れることはできない。そんなこと分かってる。
 だからこれはどうしようもない片思い。救いようのない想い。救われることもない想い。
 本来俺達という存在が斬られることでしか昇華されないように。それでも自我を持った俺達という存在は消滅という恐怖を恐れ退化を恐れ同族を喰らい続け。悲鳴の中で生き続ける。悲鳴のただ中で。
 ここに救いはない。それは藍染様がいようといまいと同じ。そう思ってた。
 あの人がいるから今の虚圏がある。それも分かってる。だけどもし今の虚圏ができなかったら、俺はこんなこと考えなくてもよかったかもしれないのに。
(…畜生)

「ジーオー」

 そのときだった。声がしたのは。
 がばと起き上がれば、ばしゅと開いた扉の向こうから声の持ち主がやってきた。「ルピに叩かれたぁ」と頬を押さえて痛いって顔をしてるあいつは、いたっていつも通り。
 なら俺は。俺も、いつも通りにしなければ。
「はぁ? 何で」
「うー、浮気疑惑をかけられましたぁ」
「…浮気?」
 その言葉にぴくと片眉が跳ね上がるのが分かる。俺の問題じゃあないが疑惑と表現する辺りに迷惑がかかってるってことだ。それは俺に直接関係しないが俺に全く関係のない無視できる話でもない。
 そんなことできる奴じゃないと分かっていながら「へー、浮気したんだ。やるじゃん」と感情の込められなかった空っぽの声で言えば、あいつは少し赤くなってる頬でいつものように笑う。
「してないよ。っていうかそれがお前との話なんだけどって言ったら怒る?」
「、」
 息が。詰まったのは。言うまでもない。
 ばふと許可なく人のベッドに腰かけて「そりゃあ俺が行ける場所って限られてるからさー、ここには何度も来てるけど。でもなんでそんな噂立っちゃったのかなぁ」参った顔と参った声でそう言って笑う
 俺はぎしと拳を握った。
 どうしようもない怒りと無力感と、空しさが。募っているのがよく分かる。
「……お前ってほんと。勝手」
「へ?」
 だから立ち上がる。この感情をどこへぶつければいいのか俺は知らない。だけど向けたい相手なら今ここに、俺の手の届く場所にいる。手の届かない場所じゃなく、目の前に。
 だから「お前のせいだ」と言い置いてから噛み付くようにキスとした。ごつと仮面がの額にぶつかって痛いって顔をされたけど、拒絶で引き離されることはなかった。それがまた俺に傷を作る。何すんだよジオって言って引き離してくれれば、よかったのに。
「、ジオ?」
「……畜生」
 相手の胸ぐらを掴んで、力のなくなった膝をつく。
 引き離せばいいのに、はそれをしない。いつもの優しい手が少し躊躇ったような間を置いてから、やっぱりいつもみたいに優しく俺の腕に触れただけだった。
 救いようのない想いに救われたいと願うのは愚かなことだ。それは俺達という存在の悲鳴の連鎖を断ち切るのと同じくらいにひどく困難。不可能。それなのにそれを可能みたいに思わせるあの笑顔が、俺は欲しかった。今この腕に触れているその腕が、俺は欲しかった。
 この手に、誰よりも、欲しかったんだ。誰かのものになる前だったらはルピルピなんて言わないでジオって俺のことを呼んでくれてただろうか。幸せそうなあの、笑顔で。
 誰かのものになる前だったなら、は俺のことを呼んで手を繋いでいつもの顔で笑ってくれたんだろうか。俺はそんなあいつから目を背けてその手を振り払っていたんだろうか。照れ隠しで、まるでルピみたいにして。
「…噂じゃない。ホントだ」
「え?」
「俺はお前が好きだよ。バーカ。ざまぁみろ。これで邪魔、してやった」
 ぎりと強く手に力を込める。自分で何を口走ってるのか分からなくなってきた。顔を上げられない。上げたら最後堪えてるこの涙まで落ちる破目になる。
 だけど優しいその手は俺の冷たい仮面を、それでも撫でる。そうして牙を伝って顎に手を添えられる。俺も頭のどこかに少しだけ名残が残る、それくらいがよかった。こんなゴツいのじゃなくてもっと、邪魔じゃないものがよかった。
 これじゃあどんなに頑張ったってルピを越せるはずもない。
「ジオ」
「呼ぶな」
「ジオ」
「言うなよ。どうせ決まってるくせに」
 優しいこの手はときに残酷なほどに俺を追い詰める。破面として生まれながらもその手では何一つ破壊できないような優しさを備えた瞳が俺を見ている。その手を振り払ってやることができない。今俺はどうしようもなく、弱く、脆い自分を自覚してる。牙を剥けない。視界の端にいつもその存在を訴えるかのように白いそれがあることを分かっていながら。
 俺は。こいつに牙を剥けない。
 だから腕を伸ばす。その背中に腕を回してぼふと薄い胸に顔を埋めた。のにおいがする。どうしようもなく泣きたくなる。
 ただの従属官をしていればそれでよかっただけの日々を送ってたのに。自ら望んでそうなったのに。それが少しくらい楽な位置だって知ってたから、少しくらい安全と立ち位置が保障される場所だって知ってたから。だから望んだのに。自分で進んで十刃の中で高位に立つあの人のもとに。
 その頃は。こんな想い知らないまま。
 なのに今は、それにこんなにも囚われたまま。
(…畜生)
 それでも俺を拒絶しないが憎い。ごめんって一言言って俺のもとにもう来ない、それだけでいい。それで俺はきっと終われる。終わらせてみせる。だけどこいつがそんな奴じゃないってこと、俺は痛いくらいに知ってる。
「ジオ。これって浮気現場だよ。俺ルピに叱られる」
「……どうでもいい」
「そうだね。ジオにはどうでもいいのかもしれないけど。俺はどっちからも痛いんだよなぁ」
 困ったように笑った声が降ってくる。それなのに仮面から髪にかけてをなぞる手はいつものように優しい。
 この人が俺だけのものだったなら。そんな愚かな望みを、俺はもうどれくらいの間考え続けてきたんだろう。

つまらない強欲に
手をめて
(それでも俺はそこから抜け出せないままで)