夜、甘いにおいがして目が覚めた。
(…?)
 もぞと布団から顔を出せばそれなりに冷たい空気が肌に触れる。そんな中リビングから薄く光が漏れていることに気付いた。リビングというかあの光のぐあいからすると多分キッチン。
 それから隣にあるはずの温もりがないことにも気がついた。
「…………」
 もふと枕に顔を埋めてチョコ作ってくれてるんだろうなぁと考える。半分寝てる頭でジオがいないと寒いなぁと思ったりジオがいないとさみしいなぁと思ったりジオがいないとかなしいなぁと思ったりした。睡眠とジオとを天秤にかけたら簡単にジオの重りがごっとんと落ちて睡眠が彼方に吹き飛んだ。ぱちと目を開けて心って正直と思いながらもぞもぞとベッドを這い出る。
 最小限の明かりだけで、多分俺を起こさないように。きっとそう考えたんだ。この分だと俺が仕事行ってる間も暇ならチョコ作りの練習をしてたのかもしれない。ジオは凝り性だから、やるって決めたら本当すごいの作るしな。
 そういえば今日、今夜だけどバレンタイン。だ。
「ジオ」
 きいとドアを開ければぎくって感じに振り返ったジオが「、おま、起きて」と言葉に詰まった感じの喋り方をするからやわく笑った。だってお前がいないんだもん、そりゃあ起きるよ。
「甘いにおいがする」
「そりゃチョコ溶かして…あ」
 しまったって感じでさっとキッチンを隠すジオがなんだかかわいい。パジャマにエプロンなのもかわいい。睡眠を追い払った頭で「今日だねバレンタイン」「ま、まだできてないぞ」「知ってる。俺が勝手に起きただけ」頑なにキッチンというかチョコを隠し続けるジオがかわいいなぁと思いながらぎゅうとその身体を抱き締めた。ああやっぱりあったかい。甘いにおいがする。チョコかな。ずっと触ってたら香りがうつるのかもね。
「ジオ」
「なん、だよ。っていうか寝ろよ。仕事あるだろ」
「うん。でもジオと睡眠秤にかけたら睡眠飛んでっちゃったから」
 今はさらさらと背中に流してある黒い髪に顔を埋めながら「ジオ」とこぼす。目は眠いって訴えてる。だけど俺の意識はジオを求めてる。
 甘いにおいが鼻をくすぐっていく。
「ジオ」
 眠い。やっぱり。そう思いながらジオの髪を指で梳いた。慣れない手つきで俺の頭を撫でたジオが「何だよ」と言うから俺はそれだけで口元が緩んで笑顔になれる。

 生まれてきてくれてありがとうとか。生きてくれててありがとうとか。好きになってくれてありがとうとか。愛してくれてありがとうとか。
 バレンタインって本当は感謝の気持ちを込めてってものだったはずなんだけど、日本じゃそれがちょっと特別で。まぁ好きな人にチョコをあげるっていうただそれだけのイベントになっちゃってるんだけど、それでも好意を伝える波としては十分に世間に効果があって。でもそういうのとは関係なく俺はジオのことが大好きで。求めてて。こんなにもただ。
 こんなにもただ。好きで好きで仕方ない。愛したくて、愛されたくてたまらない。

「ジオ」
 髪に隠れた首筋に唇を埋める。どんと胸を叩かれたけど気にしなかった。人肌が恋しいっていうのは多分こういう状態のことを言うんだろうなと思いながらジオの首筋を舐め上げた。チョコの甘いにおいがする。気のせいか肌の味もいつもより甘い。
「てめ、今何時だと思って、」
 抗議の声を遮って唇を奪った。チョコの味見でもしてたんだろう、すごく甘い味がした。ブラックコーヒー飲みたいと思いながらジオの唇を何度もついばんだ。
 甘い。そう思いながら何度も何度も。愛に胸を焦がすままに何度も何度も。
 どんと胸を何度も叩かれて、耐えるみたいに固く瞑った瞼と睫毛の長さが分かって。ただ愛おしいと心が感じるままにジオの髪を梳いてその唇を奪った。
 抵抗はすぐになくなった。本気で嫌がってるんじゃないと俺も知ってる。だからたまにこうしてみる。愛を伝えてみる。愛が返ってくる。それが幸せだと、そう思う。
 息を切らせたジオが朱色に染まった頬で「てめ」と睨みつけてくるからへらっと笑う。かわいいなぁもう。
「甘いね。苦手なのに味見してたの?」
「不味いもん食わせるわけにはいかないだろ。もう寝ろよお前」
 びしと寝室を指差されて肩を竦めた。仕方ないからジオを解放して「じゃあここで見てる」と言ってがたんとリビングの椅子を引いて座り込んだ。ジオが呆れたような諦めたような息を吐いて赤い顔を背ける。
「寝ろよ。見られてたらできないだろ」
「やだ」
「…お前な」
「言ったでしょ。ジオが一生懸命チョコ溶かして作ってって姿が見たい、って」
 テーブルに頬を預けながら「ジオ」と呼ぶ。
 フローリングを睨みつけてたジオが「朝眠いっつっても叩き起こすからな」とぼやいてこっちに背中を向けた。かちとコンロに火が灯る音とかしゃんとスイッチの入った換気扇。また漂い出す甘いにおい。
 閉じそうになる瞼を押し上げながらその姿を見つめた。気を失うまでこうしてようと思いながら眠たい目でジオの背中を見つめた。ジオが俺にチョコをくれるんなら俺だってジオに何かあげたいな。でも何をあげれば。ジオも甘いものはあんまりだしチョコはもうたくさんだろうし。
(…んー)
 ぐいと目元を擦る。やっぱり眠気が。
「ジオぉ」
「あ? んだよ」
「ジオは何がほしい? チョコはいらないでしょう?」
「…何でもいいのか?」
「俺が買えるものならね」
 目を擦りながら「買わなくていい」という言葉に視線を上げる。相変わらず甘いにおいのする中「お前がほしい」という言葉にぱちと瞬いた。
(それは俺も。っていうか)
 だからむくと起き上がって「ねぇジオそれってしたいって意味で」「違うっつの!」振り返ったジオが真っ赤な顔して激昂したのでうえと首を竦めた。こんな時間にそんな大声。耳きーんてする。
「そういう意味じゃない。ただ俺は、」
「?」
 かしゃかしゃかしゃと休みなくチョコをかき回していた手が止まった。ジオがまたこっちに背中を向けて「お前がどこにもいかないならそれでいいんだよ」とぼそぼそ言うから。だから俺はまた瞬きしてついつい頬を緩めてしまう。
(行くわけないのに。俺だってお前がここにいてくれるならそれだけで幸せなんだから)
 眠気。吹き飛ばしたくてがたんと席を立った。ジオが「寝ろよ」と言うから笑ってその腰に腕を回して「やだよ」と返し長い髪に顔を埋めた。甘いにおいがする。チョコのにおい。
「おぃ」
「何もしないよ。しないから続けて。こうしてたい」
「……勝手にしろ」
 ぼやいたジオの手が俺の手に触れて離れた。またかしゃかしゃかしゃと溶けたチョコがかき混ぜられる音がする。換気扇の音もする。それからジオの鼓動が分かる。首、脈。あるからかな。
(眠い…)
 眠気とジオ。秤にかけたら同じくらいにゆらゆら揺れた。そんなに眠いか俺と思いながらジオをぎゅうと抱く。そうすると「暑苦しい」という不機嫌そうな声が耳に届く。だけど薄目を開けてみれば黒い髪の間に覗く耳は真っ赤だった。ジオ今顔真っ赤なんだなと思いながらまたその首筋に顔を埋めて「俺はあったかい」と呟く。

 ジオはあったかい。ジオがいないと世界が真っ暗になる。俺はどこへどう生きていけばいいんだろうと思う。だからジオが生きていてくれて俺はすごく嬉しい。大袈裟なって笑う奴だっているだろうけど、俺は、それくらい。ジオのことが。

「ジオ」
「んだよ」
「ジオは俺のもの。俺はジオのもの。ね」
「…そんなこと分かってる」
 かしゃんと手の止まる音と俺の手に重ねられた掌。「寝ろよ。俺はここにいるんだから。それとよりかかるな重い」と言われて苦笑いして顔を上げた。やっぱり眠い。寝ないとダメか。ちぇ。
 がしと腕を掴まれてずんずん寝室まで連行された。「ほら寝ろ」と布団をばさりとのけられて肩を竦めてベッドの方に潜り込む。布団をかけられて枕に頭を埋めながら「ジオ」と呟いて腕を伸ばす。呆れた顔で俺の手を取ったジオが「何回俺の名前呼べば気がすむんだ」と言うから俺は笑う。
 何回だって呼ぶよ。そこにお前がいるんなら何度だって。俺のこと見てよって何度だって。
「ジオ」
「…寝ろ。。ほら」
 もう片方の掌で視界に蓋をされた。だから大人しく目を閉じながらぎゅうとジオの手を握り締める。ぎゅうと握り返された。俺は口元だけで笑う。
 睡眠とジオの秤がゆらゆら揺れて睡眠に傾き始め、世界が暗転する。

君の背中に縋りたい、
だなんて
(そんなのきっとお前も同じで。だからこそ俺は)