ようやく暑さが一段落して涼しくなってきた。そんな季節の変わり目は朝夕と昼間の温度差がまだ激しい。それでそういうときに限って風邪を引いたりする馬鹿がいたりする。そういう馬鹿はまだ暑いじゃんとか言ってるそばからぐしとくしゃみをしたりする。で、やべ涼しいやと慌てて上着を着込んだりする。
「…だから。風邪引くっての」
 そういう馬鹿を約一名抱えてる身としてはさっさと暑くなったり涼しくなったりじゃなく一定になれ、と思うんであって。はぁと溜息を吐いてがらがらぴしゃんと開けっぱだった窓を閉めた。
 ソファではこくと船こいでる風呂上りが一名。
 ずんずん歩いて行ってテーブルの上の新聞紙を丸めて船こいでる頭をばこんと思いっきりしばいた。「いで」とこぼして頭をさすりながら顔を上げたが「痛いジオ」と涙目で訴えるのを無視して「うるせぇ。窓開けっ放しにすんな、風邪引くぞ」と返してキッチンに行く。それから振り返ってぽいとタオルを放る。ふわふわしたそれがの頭にかかって「髪拭けよちゃんと」と言い置いてから調理にかかった。がしゃんと換気扇をオンにする。ソファの方で「はいはーい」と適当な返事が聞こえたからきっちり一分待ってから振り返れば、頭からタオルをかぶったまままた船をこぎそうになってる馬鹿が一名。
 こんの野郎、人の忠告聞きゃしねぇ。こめかみが引きつるのを感じながらかちんとコンロの火を消して息を吐く。
 全く、何で俺がこんなことまでしなきゃならないんだよ。
「おぃ馬鹿。起きろ」
「、ねむ。ってた?」
「ああ。そのまま寝て風邪引かれたら迷惑だ」
 しょうがないから料理の手を中断し、わしわしとタオルで髪を拭いてやる。自分の髪の手入れの方は完璧だ。は手入れらしい手入れなんてしてないからこれくらいぞんざいでも文句ないだろ。
 わしわしとぞんざいに拭いてたらとんと寄りかかられた。それに一瞬でもどきっとした自分が我ながら恥ずかしい。
「、てめ。寝るな」
「勘弁してー…夜勤って疲れるんだよ。眠たい」
「んなこと分かってる。せめて髪乾かせ」
「髪くらい。そのまんまでも、平気だよ」
「アホ。それで春風邪引いたのはどこのどいつだ」
「…俺。かぁ」
 小さく笑ったが「でも本気で眠い」と漏らすから息を吐く。分かった分かったからもう一分待て。ほんとならドライヤーで乾かしてやりたいとこだがそれは我慢してやる。
 俺の首に腕を回してよりかかってきながら「ジオは髪、きちんと手入れしてるもんね。いいにおい」とか耳元で囁くにぞわと背筋を何かが駆け上がった。この野郎と思いながらこめかみが引きつらないのはあれだ、まんざらでもないとかどこかで思ってるからだ。畜生め。
 いたって冷静に。がしがしとの髪を拭きながら「いいか、お前が風邪引いて世話するのは俺だ。俺の仕事増やすなよ」と言う。冷静にを意識して言ったつもりが声が小さくなった。感情を抑制しようと思考が傾きすぎている。余裕がない。それを分かってるかのようにの掌が頬を撫でて落ちる。煽るみたいに。
「、これくらいでいいだろ。寝ろ」
「はーい」
 小さく笑われた。思いっきり顔を逸らしながら突き放したからだろう。ソファから立ち上がったがやんわり笑って俺の髪に口付けて「おやすみ」と言う。視線を逸らしつつ「おやすみ」と言って返したのは大人しく寝てほしかったからで、これ以上自分の中を掻き乱されたくないと思ったからで。で、さっさと寝て眠気ばっかりの頭じゃなくてちゃんと俺を見てほしかった。ちゃんと話してちゃんと一緒にいたかった。船こいで寝かかってる頭とかじゃなくて、きちんと俺を。
 仕事だ。仕方ない。分かってる。だから眠いときに俺を見ろなんてわがままは言わない。だからせめて無理せず寝るときは寝て起きるときに起きて、それで一緒にいてくれれば、俺はもうそれでいいから。
 ばふと盛大にベッドが軋む音がした。思考の渦から顔を上げて寝室まで行けば、なんていうか倒れてるのが一名。
 お前それで寝てるつもりか? 枕にどうにか頭はあるものの、斜めだし。つか布団かぶってねぇし。馬鹿じゃねぇの。いや馬鹿か、馬鹿なのか。そうだな、は馬鹿だった。
 納得しながら仕方なく布団を掴んでの身体を適当に転がしてベッドの奥に押し込んだ。それからばさと布団をかぶせて一息。
 飯が作りかけだった。だけどなんかもう作る気が。肝心の食べる相手がこれじゃあな。
「…はぁ」
 何となしに溜息を吐いて、それから眠ってるに視線をやった。ぎしとベッドに腰掛けてもう一回溜息。なんだかこっちまで眠くなってきた。

 お前に翻弄されて生きることには慣れてるし、お前と一緒に生きたいと望んだのは他でもない俺だ。俺自身がこの道を選んだ。お前と一緒に行こうと思った。お前と一緒ならどこまでだって行けると思った。どこへでも行けるとも思った。
 今も同じだ。どこへだって行けるしどこまでもついていくつもりでいる。
 ただ自分の中のどこかに不安にも似たようなものがあるのも、事実だ。

 自分の長い黒髪に手をやる。きれいだねジオ。かわいいねジオ。俺の髪に指を絡めてあいつは笑う。そのための髪ってわけじゃないけど、だから髪には気を遣っていた。手入れにはそれなりに時間をかけてるし、オイルとか髪質を保つのにも時間割いてるし。
 何を浸ってるんだか。自分に息を吐いて立ち上がろうとして、もう一度振り返って寝こけてるの顔を見つめた。あー馬鹿みたいに眠ってるなぁと感心さえする。
 次に起きたらきっともういつものように笑ってくれるんだろう。お早うジオって。いつものように俺を抱きしめるんだろう。それからおなかすいたーって俺によりかかって甘えてくるんだろう。そう考えたら飯を作っておかないわけにはいかない。せめて準備だけでもしておかないと。
 馬鹿みたいに寝こけてるの頬に触れて撫でてみた。体温がある。当たり前だけど。
(全く、俺の世界はお前がいればそれで完結するんだから。簡単なもんだよ。ほんと)
「…、」
 寝こけていた。そう気付くのに五秒かかって、天井から視線を逸らして寝室の向こうのリビングに目を向けた。少し開いてる扉の隙間からはテレビの光が見える。でも音は聞こえない。
 俺が寝てるからって気を遣ってイヤホンで聞いてるのかな。そう思いながらごそごそと起き上がった。ちょっと冷えると思ってジャージの上着を着込んでぎいとドアを開ける。ジオはつまらなそうな顔でテレビを見ていた。内容はニュース番組。そりゃつまらないよ、ジオ。
 だから後ろからそろそろ近づいてがばっと抱きついて「ジーオ」と驚かせたら面白いくらいのリアクションが返ってきて、びくと震えたジオが手にしてたらしいリモコンをがしゃと落とした。
 あれから俺はどれくらい気を失ってたのか、いや寝てたのか。少なくともジオをびっくりさせるくらい長くは寝てたらしい。そういえば今何時。
「てめ、驚かせるなっ」
「驚いた?」
 イヤホンを外したジオが噛み付くみたいに言うからあはと笑う。そういえば俺自分が何時くらいに寝たのかも憶えてないや。すっごいぎりぎりの意識で起きてたからなぁ。でもジオを心配させてたのは確からしい。どこかほっとしたように息を吐いて「腹減ったろ。すぐ飯にする」というジオの声に覇気がない。だから立ち上がろうとするジオに抱きついたまま「ねぇ、俺どれくらい寝てた?」と訊いた。眉根を寄せたジオが「知るか。6時間ぐらいじゃねぇの」と言うからぱちと瞬き。知るかって言っときながら知ってるじゃないかジオ。
「ごめんね。そんなに長く寝てたか俺」
「…疲れてたんだろ。もっと寝た方がいい」
「今夕方? なら俺夜寝るよ。今からはもう寝ない、ジオと一緒だよ」
 俺の腕から抜け出してキッチンに向かう背中にそう言う。「ああそうかよ」と言うジオがなんだかちょっとさみしそうに見えたから。だからジオの背中を追いかけてとたとたリビングを横切って、がちゃんと冷蔵庫を開けたジオをぎゅうと抱きしめた。いいにおいのする髪に顔を埋めて「ジオ」と呼ぶ。溜息のあとにばたんと冷蔵庫の閉まる音がして「何だよ」と返されて。「さみしかったね。ごめんね」と言えば沈黙された。
(当たり前じゃないか。俺が逆の立場になったらさみしいに決まってるのに、俺ってどっか馬鹿だな。ジオだってさみしいに決まってるのに)
 ぐっと腕を握られた。「お前が眠いの知ってるんだ、さみしいなんて理由で起こせるわけないだろ」なんて言う小さな声に笑った。
 そうだね、確かに眠かった。でも俺はお前のことだってちゃんと思ってるんだよ、ジオ。起こされたって別に怒ったりしないのに。
「料理、手伝うよ」
「馬鹿言うな。皿割るか指切るかぜってー怪我する。座ってろ」
「えー」
「えーじゃない」
 べりと俺の腕を剥がしたジオがもう一回冷蔵庫を開けてご飯の準備を始めた。じろと睨まれて「座ってろ」と二度目の言葉に首を竦めて「はーい」と返してがたんと椅子に腰掛ける。
 こうして待ってるだけも結構暇なんだけどなーと思いながらエプロンをつけて調理を始めるジオの姿を見つめた。やっぱり暇。
 でもまぁ、いいか。ジオを眺めてるのだって嫌いじゃないし、むしろ好きだし。久しぶりにしたいなぁとか言ったらジオは顔真っ赤にするんだろうけど、それもそれでかわいい。
 緩く頭を振っていやいやこれから食べるのはご飯でジオじゃないよ俺と確認。まだ寝てるなら起きろ俺の頭。
「ジーオ」
「何だよ。も少し待て」
「ん。ねぇあとでしよ?」
 ダメもとで訊いてみたところ沈黙が返ってきた。勝手に寝るだけ寝て起きてさみしい思いさせてしようとか勝手かな。俺ダメ人間かも。テーブルに頬を預けて「ごめん、嫌なら」「嫌だなんて誰が言った」「…だって何にも言わないからさ」「料理してんだよ。頭、こんがらがるだろ。お前、言うにしてもタイミングってもんが…ほんと馬鹿だな」じゃっとフライパンでお肉の焼けるいいにおいがした。あはと笑って「ごめんね、俺馬鹿だよね。ごめん」「…知ってるっつの。お前が馬鹿ってくらい。変なとこで気遣うなよ」と返ってきた言葉に唇の端を緩める。そうだよね、今更か。ほんと俺って馬鹿だね。お前もそれくらい分かってるか。
 ハンバーグと野菜のソテー。あとはおかずが色々。若干赤い顔のままジオが「さっさと食え。冷める」と言うから俺は「はーい」と笑って二人でいただきますをする。

すまし顔の迷子
(どこへいくにも二人でなくては動けない)