ぽたん。
 水の音で意識が浮上した。それまで眠ってたのか、それとも意識を失ってたのか。とにかくその水の音で目が覚めて、手を伸ばして前髪を払いのけて目を擦る。なんかねむ。やっぱ寝てたのかも俺。こんな遅くなるまで夜遊びしてるあいつを帰ってきたら絶対叱ってやろうとか思ってたのに。
 ぽたん。
(水…水道?)
 捻りが緩くて水漏れしてるんだろうか。そう思ってベッドから起きようとして、人の気配に気付いて動きが止まった。ぽたんとまた水の音がする。
 いや、待て。本当にこれは水の、音か?
 小さく呻くような声。微かな吐息とジオと紡がれた声に今度こそがばと起き上がった。いつ入ってきたのか窓辺にあいつがいる。今は黒い格好でうなだれるようにして背中を丸めている。ずかずか歩いていってがしとその襟首を掴んで引き寄せて「てめぇ、またやってきたな」と怒りを滲ませて言ったにも関わらず、相手は小さく笑って「だって、けんかを、うられて」とか何とかこぼす。喧嘩売られてそれを買うのは自由だがそれで負けてたら意味ねぇだろこの馬鹿
 仕方がないからシャツのボタンをぶちぶち外してばさと前を開けた。ぽたんとまた水の音がする。水の音。そうだと思ってた、血の落ちる音が。
「飲めよ。もたねぇぞ」
「…で、も」
「いいから飲め」
 紅い瞳が迷うように淀んだ。俺がいいって言ってんのにどの辺りに遠慮してんのか、苛々したからがしとその頭を掴んで無理矢理自分の首筋辺りに押し付ける。「飲め」と再度言えば、諦めたような吐息と一緒に首筋にぴりっとした痛み。片眉を顰めてその小さな痛みに耐えながら、その背中がずたぼろなのに今更気付いた。腕も穴が開いてる。一体どんな喧嘩をすればここまでになる?
 首筋を伝う自分の血の感触。ああしまった今日は白いシャツだ、汚れるな。そんなことをぼんやり考えて、血を吸われてる所謂隷属の自分を思い浮かべた。あんまりしっくりこない。
 伝説に残る吸血鬼は随分と普通の顔でどこにでもいそうな奴で、ついでに馬鹿で、どうしようもなく人間臭い。そのうちじゅわと音がして腕の穴が塞がった。肉体の高速再生ってやつだ。その辺りを見てるとこいつは人間じゃないんだなと思うものの、それくらいで。身体の構造が違うくらいで、きっと根本的なものは俺達人間とそう変わらない。
 じゅる、と血をすする音がした。首筋を舐める舌先の感触がくすぐったい。
「ちょっとはマシか」
「うん。腕治った」
「背中も治せよ。外出られねぇだろ」
「あんまり飲むと、ジオが貧血になる」
「俺のことは構うな。どうせ買い物くらいしか予定ない」
「…買い物」
 ぼやいたが顔を上げた。牙の痕を舐めながら「明日、どこにも行かないでくれないかな」と言うから眉を顰めて「何でだよ」と返せば、は困った顔で笑う。「喧嘩に負けちゃったから、明日は一緒に外へ出れないんだ。ジオを守れないから、できれば行ってほしくない」「…喧嘩の理由って。俺か」「ん」曖昧に笑ったが俺のことを抱き締めた。「ジオ」と耳元で囁く声に目を閉じる。
 ほんと、お前は馬鹿だなぁ。
 言葉足らずで説明足らずのさっきの台詞から想像するに、他の吸血鬼が俺のことを寄越せとでも言ってきたのか、それとも俺に関する何かに触れたのか。それでこいつは俺を守るため勝負を受けて不覚にも負けたわけだ。というかそういう計算された喧嘩の場合、まず奇跡でもない限り勝負を挑んだ方が勝つ。当然の話だ。
 こいつは喧嘩に向く性格じゃない。蝙蝠を操ってそれに化けたり夜の空を飛んだりはしても、人を襲うことはしない。
 俺の血だけ吸って生きていく。そう約束したんだから。
 ああ全く、本当に馬鹿だな。少しくらりと揺れた頭に手を添えて、もう血が足りないかと我ながら自分に呆れる。きちんと食事して健康な食生活を送ってるっていうのに、少し血を取られただけでこれだ。情けない。お前の怪我が全部治るくらい満足するまで吸わせてやれればいいのに、お前は俺が貧血になるからと遠慮するし。実際もう貧血気味だし。
 の身体の細胞は自己再生を繰り返し、そのうち背中の傷は塞がるだろう。だけど他者の血があればもっと早く治ることができる。それが血の力なんだそうだ。
 いいにおいがすると、は俺のことをよくそう言う。

「…おい。起きてるかよ」
「うん…疲れて眠たくなってきた」
「ベッドで寝ろベッドで。せめて横になれ。止血はしてるんだろうな?」
「うん。だいじょぶ。表面は塞がってきてる」
「じゃあほら寝ろ。今すぐに」

 抱きついて離れないの頭をばしと一つ叩いた。痛いって顔をしたはまるで小動物か何かのように瞳を潤ませてすんごく頼りない顔をしている。これが伝説の吸血鬼? 冗談にも程があるだろと思いつつ一歩踏み出したところでふらついて、に支えられた。「やっぱり貧血」「うっさい」いつもより少し冷たいその手を払ってベッドに行った。跳ね除けたままの形の布団をめくって「ほら寝ろ」とベッドを示す。たとえ赤い色で汚れても構わないように寝具は全て黒で統一してある。これなら血がついても多少誤魔化しがきく。
 が申し訳ないって顔をしながらいそいそベッドに潜り込む。枕に顔を預けたところで「ジオはどこで寝るの」と眠そうな声で問われて親指でソファを示す。展開すればベッドになるタイプのやつだから、あとは布団を引きずってくればいい。
 開け放したままの窓に気付いて、壁に片手を這わせながら手を伸ばしてぴしゃんと窓を閉めて鍵をした。血がついてないのは、あいつが気を遣ったからだろう。
 悪魔の類の訪問は窓、それから扉。熟知してるそれらを一通り頭の中で振り返ってからコップで水を飲んで、ぴりっとした痛みの走る首筋に手をやる。明日もタートルネック決定だな、俺。
「ジオぉ」
「…んだよ。情けない声出すな」
 振り返れば、小動物みたいな顔をしてるがこっちに手を伸ばしていた。「キスして」という身も蓋もない言葉にはぁと溜息を吐く。
 ほんとに、お前は馬鹿だな。ほんっとに。
 仕方がないからベッドまで戻ってぎしと膝をつく。結ってない長い髪がぱらぱらとの頬にかかった。その髪に指を絡めたが嬉しそうに笑う。「ジオの髪は今日もきれいだ」と。ほんとにらしくない奴だと思いながらかさついた唇に口付けを施す。伸ばされた腕が俺の首に回った。もっとしていたいの意思表示。できるならもっと深いところまで一緒に堕ちていきたい。だけど貧血気味と怪我人じゃ、それは無理な話だ。
 の唇に指を押し当てて「全快したらな。それまで我慢しろ」と一方的に告げて立ち上がる。俺も寝ないと限界だ。明日はレバー料理決定。
「ジオぉ」
「…んだよ」
「おやすみ」
 ふにゃっとした、何とも気の抜けた笑顔でそう言われた。だから俺は呆れ気味に「おやすみ」と返し、ソファをがったんと倒してベッドにした。常備のクッションを枕に、傍らに積んである毛布を掴んでばさと被る。本当なら向こうの部屋から布団一式を引きずってきたいところだが、眠気はそうないけど意識がおぼつかない。今日はもう寝る。
 明日になったらちゃんと食べて、あいつにもちゃんと食べさせてやらないと。
 首筋の牙の痕が、じんじんと疼いている。
 たまに思う。俺は何をしてるんだろうと。どうして普通の道を踏み外してしまったんだろうと。どうしてこの牙の感触に慣れてしまったのだろうと。
 じゃあ逃げられたのかと言われれば、逃げられなかったと思う。吸血鬼なるものが人間では分からない血のにおいとやらを嗅ぎつけて人を襲うのなら、曰くいいにおいのする俺は、いつかは襲われてたのだろう。吸血鬼に対抗する手段なんて知らない俺はそのまま干からびた死体になって終わっていた。運が悪ければ従属として死んでも死に切れずに生きることになっていたかもしれない。
 それを、救ったのだと表現すれば。は確かに俺を救ったのだと思う。
 十字架も、日光も、ニンニクも。はどれも平気だ。陽の光は眩しそうにするし、昼間は始終眠そうだし。どれも大して効果らしい効果がない。古くから伝わる吸血鬼はもう古いままじゃなく、苦手なものを克服するために強く。なったんだろうか。
「ジオ。朝だよー」
「…、」
「朝ご飯俺作ろうか? ベーコン使っていい?」
「…ああ」
 呻くように返事をして、重たい瞼を持ち上げた。視界の端をのシャツ姿が通り過ぎる。どうやら勝手にシャワーを浴びたらしく、どこにも血の跡はなかった。血が足りてない頭を振って、邪魔な前髪を払いのける。そろそろ髪を切らないと駄目か。
 随分前から起きてたらしく、テーブルの上にはもう皿もスープもパンもサラダも全部揃っていた。「おぃ」とフライパンに向かう背中に声をかければ「うん?」と気の抜けた返事。換気扇が回っている音とじゅわとフライパンにベーコンが落ちた音。それにかんかんと卵の割られる音がする。
「いつ起きた」
「えーっと、一時間くらい前?」
「…背中は」
 そばに置いてあったガウンに手を伸ばして羽織る。ひんやりした空気に少し身震いした。手を伸ばしてテレビのリモコンを取りぽちとボタンを押す。適当なニュース番組にすれば、今日の天気や気温についてやっていた。足りてない飲み物の方を冷蔵庫から出して、今日は健康を重視にオレンジではなく野菜ジュースの紙パックを手に取る。
 フライパンを持ってこっちにやってきたが「はいできた」と皿の方にベーコンエッグを盛り付けた。いつもと反対だと思いながらコップを出してきてジュースを注ぐ。はいつも水だから今日も水にした。
「で。背中は?」
 返事がないから再度問いかける。困った笑い方でフライパンをコンロに置いたが「そりゃあまだ痛いよ。表面は塞がったけどね」「血は。いらないのか」「大丈夫。一日かければちゃんと治るから」首を振ったに「そうか」とぼやいてがたんと椅子に腰かける。が向かい側に腰かけてぱちんと手を合わせた。「いただきまーす」の声に肩を竦めながら手を合わせてからパンをちぎる。
 地味めな食事。血を摂ればお前はそれですむんだろうに、それでも俺に合わせて人間の食事もする。吸血鬼。さっぱりらしくないけど。
 お前は人間でよかったろうと思うのに、お前は人間じゃない。それが時々どうしようもなく辛い。どうにもならないことが、それでもどうしようもなく胸に深く突き刺さって俺を抉ることがある。

「今日は外に出ないでね。お願いだから」
「分かってる。…買い物があったんだけどな、本当は。パンが切れる」
「宅配にしよ? ネットで注文」
「簡単に言うなよ。高いんだぞ宅配は」
「だって」
「大体なんで外に出たら駄目なんだよ。意味分かんねぇ」
「んー、えっとね。この家自体には俺が呪いをかけてるから大丈夫なんだけど、昨日負けちゃったから、家の外で力が使えないんだ。一日だけ。だから外で何かあっても、俺は人間並みのことしかできないから。ジオが襲われたりしたとき、ちゃんと守れるか、自信ないし」
「ふーん」

 かぼちゃのスープをずずとすする。猫舌の俺のためにぬるめの温度だった。向かい側で困った顔でパンを頬張るはやっぱり小動物の顔だ。言ってることがたとえ異常でも、こいつが言ってれば冗談か何かみたいにも聞こえる。
 力が使えない。ってことは、吸血鬼にとったら致命的。なのか。人間の俺にそういったことはぴんとこない。力なんて言えるようなものはもともと持ってないし。
(というかやっぱり俺のことばっかりか。馬鹿だなお前)
 テレビからはニュースの音がする。今日の気温と今日の天気。だけど一日外に出れないならあまり意味のない情報だ。夜は冷凍で常備してるレバー料理だなと頭で考えて野菜ジュースを飲み干した。
 恐らく普段とそう変わらない朝の風景。吸血鬼と向かい合って食事して、一緒に生活して、それ以上をすることもある。その存在に惹かれたのは俺からかからかもう忘れた。ただそれでも、もう手離せないことだけは確かだ。
 首筋にある二つの小さな牙の痕に指を這わせる。
 ああ全く、俺も本当、馬鹿だなぁ。

「どうかしてる」
その通りだとも