髪を伸ばし始めたきっかけは、いつかの朝、俺の髪に櫛を通していたが言ったからだ。
 ジオの髪はきれいだね。さらさらで、肌触りもよくて、黒い色もきれいで。
 そう言って微笑んだに魅せられて、髪を伸ばし始めて、その頃になって疎い俺はようやく気付いた。
 自分のこの変化が、腹違いの兄弟であるあいつが女物を好み出した理由と同じなんだろうと、ようやく気付けた。
「…何してる?」
「ああ、ジオ」
 俺がを見つけたのは、メインの屋敷から少し離れた古びた館だった。
 あいつはページをめくったら埃が舞いそうな古い書物を手に埃一つない床に座り込んで、読みふけっていたらしい。「あれ、今何時?」と寝ぼけたことを不思議そうな顔で問うからポケットに手を突っ込んで懐中時計を突きつけてやった。目の焦点が合わないのか文字盤を三秒くらい睨んだあと、「わっ!」と声を上げてがばっと立ち上がったの腕から本が落ちそうになる。腕から滑る前にしっかり抱え直す辺り、その書物の価値には気付いてるらしい。
 慌てたように走っていって「やばいもうそんな時間か、全然気付かなかった」「阿呆だろ」「ごめん、気をつけてたんだけど、なんか面白かったから」「…反省してるのか? お前」「ごめんごめんなさい、怒らないでジオ」本棚に書物を戻してきたが笑う。困ったなって顔で笑って手を合わせて「ごめん、この通りです。遅いけど今から簡単なものなら用意できるから」と言われて、そう簡単に折れてやるもんかと目に力を込めて相手を睨んだ。
 今日は俺が要望したお手製のキッシュのティータイムになるはずだった。それが時間になってみればやって来たのはいつものメイドにいつもと同じような茶菓子とコーヒーか紅茶のセレクトのみ。のことを問えば戸惑った顔で知らないと返されるし、わざわざ探しに来てみれば、こんな場所で本の虫で、俺との約束なんてさっぱり忘れている。これが面白いわけがない。
 ふんとそっぽを向いて腕組みをして、からは盛大に顔を逸らしてやった。
 今回ばかりは俺も頭にきたんだ。特製ベーコンとが育ててる野菜の入ったキッシュは本当にうまいから、楽しみにしてたっていうのに。
「ジオ」
 呼ばれたって返事なんかしてやらなかった。
 が、本当に怒り心頭で頭にきていたのなら、この場を去っているだろう。どうでもいい使用人の失敗なら解雇すら言い渡していたかもしれない。だけど相手がだったから、俺は怒ってるを示しながらもまだここにいるわけだ。
 かつと靴音が響いて、不意打ちで、背中側から抱き締められた。よく知っている息遣いが耳元で言う。「ごめんジオ」と、卑怯な声音で俺に謝る。
 腰に回された片腕と、頬をなぞった手が首を伝って肩へ落ち、肩から胸をなぞって腰で止まった。
 卑怯すぎる掌に歯噛みして、精一杯の虚勢で「そんな簡単に許すわけないだろ」と言うものの、言葉には力が入っていなかった。それが分かっているように耳元で声が笑う。
 くすりとした笑みを息遣いだけで想像した。
 耳がとにかく熱く、顔も熱く、身体も火照っていた。
 震えそうになる手に力を込めて拳を作り、解いて、その手をの腕に重ねた。どこか甘い香りを感じながら「明日は作れよ、絶対」と言うと相手は笑った。「必ず」という声のあとに、耳を噛まれて、ぞくりと背中を奮わせた感覚に我慢の限界がきた。こんな書庫だ、誰もいやしない。誰もいない。だったら、いいだろう。これくらいは。
 ぐっとの腕を握って「キスしろ」と命令すれば、「仰せのままに」と応じた声の持ち主は簡単に俺の唇を奪った。
 手馴れたように。そうすることに迷うことすら忘れたように、俺の腰を抱いて、唇を重ねて、それ以上はしない。
 使用人らしく主人の命令を待つ姿に苛立ちが募った。少し離れた唇が何かを言う前に「もっと」と命じれば、重ねるだけだった唇は貪るという行為に変わった。
 …いつから自分がこんなことを思うようになったのかは分からない。もう忘れた。
 俺が主人だから。お前は使用人だから。命じれば何でもするのかと、そんな好奇心から始まったのだろうか。
 は何でも言うことを聞く。手を取れと言えばそうするし、キスをしろと言えば唇を重ねるし、抱けと言えば抱き締めるし、もう一つの意味を込めて抱けと言えば、ベッドの上でも俺を抱く。
 おかしな話だ。使用人に使用人以上の何かを思うことなんて今まで一度もなかったことだったのに。
「今日のお茶はなんだった?」
 髪を撫でる手を感じながら、の胸に顔を預けて、ぼんやりした意識で今日の味気ないティータイムを思い起こす。「…セイロン。に、適当な茶菓子」とぼやけばは苦笑いした。
「適当なって、適当に憶えてるんだ」
「特別うまくなかったし…お前の作ったやつが食いたかった」
「うん、ごめん。明日は必ず用意するから」
「……ん」
 甘い香りのするシャツに顔を埋める。
 そうしていると幸福だった。どんな食事よりもどんな地位よりもどんな金銭よりも、それらを味わうときよりも、ずっと幸福だった。
 いつまでもこうしていたかったけど、俺もも、もう自分のいるべき場所に戻らないといけない。いつまでも溶けた思考でもいられないのだ。ルピみたいにいつでも自分勝手にしていることは、俺にはできない。
 の腕から抜け出して「もう行く」と書庫の扉を押し開ければ、「俺もあとから行くよ」と背中に声がかかる。一緒に出て行くところを見られるとまた余計に噂を立てられる。はそういったものが俺の地位の妨げになると分かっているから、そうやって遠慮する。
 …本当は一緒に出て行って、ルピみたいに、人目なんて気にしないで手を繋いだり抱きついたりしたいのに。そんなことをすれば俺の立ち位置がどうなるのか、俺も、も、よく分かっている。
 超えられる一線。踏みつけている線。あと一歩で超えられるその線を、まだ超えられない。
 書庫のある古い木造の建物を出て振り返る。
 本当なら今すぐ駆け戻ってやりたい。その衝動を抑え込んで前へと向き直り、広い庭の石畳の道を歩き出す。
 一人の道はやけに広く、吹きすぎる風は肌寒く、人恋しさを呼ぶだけで、ちっとも秋の風情を楽しむことはできなかった。