自分、というものを自覚する。
 真っ暗闇の中に沈んでいるか、光の中に焼かれているか。そのどちらかである、と思ったのは、自分の姿が全く分からなかったからだ。上も下も右も左も何もなかったからだ。視界だ、と思っている見えるものに何も映らなかった。ただ、在る、ということだけが分かること。
 未来と過去。どちらか一つを見れるようにしてあげる。どっちがいい?
 声。が。降ってきたのか、湧いてきたのか。よく分からない。ただ、自分の声じゃないものがここに在る、ということは分かる。
 未来と過去。どちらか一つを見れるように。見られるようにするなら。どっちが。
 それについて考えてみて、過去、と答えた。どうして、と訊ねられて、また少し考える。
 未来を見られたら。これから起こることを知りながら生きるのは、強いひとでなければできないことだ。自分はそんな立派な奴ではない、と思う。そう思ってしまうのだから、過去を選ぶ。消去法ではあるけど、過ぎ去ったことを振り返って未来を見る方が、自分には似合っている。きっと。
 あと、それから。過去が見られないと、分からないと、想い出ってヤツを大事にできないって、思うから。
 腕も脚も口も耳も眼も、心臓も、胸も、鼻の穴だって、みんな二つずつつけてあげるからね
 みんな二つずつ、と言われて、その通りの自分を想像して、口が二つあるのはちょっと気持ち悪いだろと思った。
 二つある口がそれぞれ違うことを喋るとか。それで喧嘩したりとか。そんなの気持ち悪いし、うるさいし、口は一つで十分だ。
 一人、大切なひととキスできる口があればそれでいい。
 それに心臓。身体の核が二つあるのは、確かに便利かもしれないけど。でも、それは遠慮したい。感じる鼓動が二人分だと分かるのは、大事なひとと、身体を重ねたときであってほしいから。
 大切なひとを抱き締めて、そのとき初めて、胸の両側で鳴る鼓動が分かるように。
 一人で完結しないように。一人で生きていかないように。一人じゃどこか欠けてるように。心臓は、一つだけでいい。
 じゃあ、最後にもう一つだけ。涙もオプションでつけようか? なくても全然支障はないけど。面倒だからってつけない人もいるよ。どうする?
 少し考えて、いる、と答えた。どうして、と訊かれて、大切なひとに会ったときに、ちゃんと喜んで泣けるように、と言ったら少し笑われた。むっとする。こっちは大真面目で本気の答えを言ってるっていうのに。
 じゃあそうしよう。声はそう言ってパチンと指を鳴らした。
 明るかったのか暗かったのか。それすら分からない視界がさあっと広がって、視界だ、と思っている自分が見ているものの中に、懐かしいような姿の誰かが映る。
 誰だ、と訊いても相手は笑うだけだった。少しかなしそうに。少しさびしそうに。
 望み通り、全てが叶えられてるでしょう。だから、涙に暮れるその顔をちゃんと見せてよ。誇らしげに、生きてよ
 その声を最後に。視界がぶっつり途切れる。
 それが誰だったのか、というのは、目を覚ましてすぐに思い出した。
 。俺の、恋人じゃないか。
 夢だったのか。さっきのは全部。そうだと思いたくてかざした手が思っているより小さくて、がばっと起き上がると、そこは人間社会によくある子供部屋の風景の中だった。
「どこだ…ここ」
 掠れた声をこぼし、肩にかかる黒髪を指でつまむ。布団を蹴り上げて部屋を出て、見慣れない景色の中をどたばたと動く。
 こういう景色を知ってる。ここは現世か。あいつがよく話していた人間社会の、中だ。でもどうして俺がここにいる。俺は、
 俺は。そうだ。俺は死んだじゃないか。死神に殺られて死んだじゃないか。
 あいつだって、死んだじゃないか。
 ようやく見つけた鏡にバンと手をつく。肩にかかるかかからないかくらいの長さの黒い髪。黄色のような金のような瞳。「俺は」とこぼす声は憶えのあるものだ。身体は、小さいけど、俺の思う通りに動く。ならこれが俺の身体で、俺の意識は鏡に映ってる小さなこの身体の中に。
 は、と息をこぼす自分の中が渦巻いている。ぐるぐると。蛇がとぐろを巻くようにぐるぐると。
 俺は。小学生で。ここは俺の家で。今いるのは洗面所。二階が俺の部屋。特技はサッカー。
 ここは俗に言う現世のくだらない日常の中。が羨ましいと笑っていたつまらない生活の中。
 ぐるぐるする意識で鏡の中の自分を見ていると、頭の中の混乱は少しずつ静かになっていき、やがて今までの俺と過去を思い出した俺が混ざって溶け合った。
 破面としての俺は死んだ。それは決定的な事実だ。
 だけど俺はここに在る。
(………生まれ、変わった、とか)
 さっきの夢を思い出してぐしゃぐしゃ髪をかき乱す。信じたくはないがそれくらいしか現状を説明する方法がない。
 それじゃあはどうした。どうして俺を再構成するような夢に出てきて声で導いた。どうして笑った。どうしてあんなにかなしそうに、さびしそうに、笑ったんだよ。
 鏡の中の自分がぼろりと大粒の涙をこぼす。
 …涙を流すのは、大切なひとに再会して、嬉し泣きをするためだって自分で言ったのに。
 二つくれるっていう心臓と口を一つでいいと遠慮したのは、お前とキスするためで、お前と身体を重ねたときに初めて、二つ分の鼓動が分かるようにって。思ったからなのに。
 一人でなど生きていけないように。一人じゃどこか欠けてるように。一人で完結しないように。そのために欠けることを選んだのに。これじゃあ全然、意味がない。
…、……っ」
 ずるずるとその場に座り込んで、フローリングの床に手をつく。ぽたぽたと透明な雫を散らすフローリングを掌で叩く。強く叩けば痛みを感じた。俺は、生きていた。
 壁掛け時計が示す数字は『5/7 AM 00:15』
 5月の7日。俺の、誕生日だ。
(さっきのは誕生祝いのつもりか馬鹿。自分のことはいいからって俺を優先させたわけか。全くちっとも分かっちゃいない。相変わらずお前は馬鹿だ。本当、馬っ鹿だよ。お前)
 それから六年生きて、俺は高校一年生ってヤツになった。
 相変わらずこの世界の中で生きるのは違和感しかないが、生きることをやめるのなら死ぬしかない。単純な選択肢が二つだけある命で、死を選べない俺は、生を選んだ。生き方をこの世界の流れに合わせた。その方が楽だから。
 死を選ばないのは、あいつのせいだ。俺の意識を醒まさせたあいつのせい。あいつのやったことを無駄にしたくない。だから、俺は死を選ばないし、選べない。
 …あいつは俺の記憶を戻して、何がしたかったんだろうか。
 俺に生きてほしかったのか。この俺に。何も知らない俺じゃなく、以前を知ってる俺に。お前を知ってる俺に。
 どっちにしたって余計な世話だった。おかげで俺はこんなめんどくさい社会に取り込まれて息をしている。そんな自分が心底嫌になる。
 高校一年の5月の7日。16回目の誕生日を迎え、学校に行く前に家族におめでとうと祝われた。帰ってきたらお祝いだと笑う家族に俺はそうであるように笑って返した。学校へ行けば友達に祝われて、そうであるように笑いながら、心はずっと憂鬱だった。
 人間の寿命は70だったか80だったか。俺はあと何回誕生日を迎えないとならないのか。こんな意味のない誕生日なんかなくなればいいのに。
「えー、今日はみんなに新しい仲間を紹介する。こんな時期だが家庭の都合というやつでウチへ通うことになったー、」
 教師のつまらない声に転校生か、と意識を傾けた俺は、信じられないものを見てガタンと席を立った。
 教師に紹介されて教室に入ってきたのは。同じブレザーの制服を着崩して教壇の横に立ったのは。
です。よろしくお願いしまーす」
 へらっとした笑顔を浮かべてそこに立っているのは、間違えるはずもない、俺の、恋人だった。
 全力で床を蹴って走った。走ってに抱きついた。
 左胸がどくどくと鼓動している。自分の心臓の音だ。そして右胸に、の鼓動を感じる。きつく抱き締めればその分だけ近くなる、その鼓動が分かって、涙がこぼれた。
 ざわつく教室の音と、耳元で笑った唇が漏らした僅かな吐息。それすらはっきりと思い描ける。俺達はずっと一緒だった。
「急すぎるだろ、ジオ。みんなびっくりしてるよ」
 だから、俺の名前なんて言わなくたって、お前は俺を知ってるわけだ。
 は、と短く笑って、に縋って崩れ落ちる。力の入らない俺の脇を抱えて抱き上げたはよく知っている笑顔で笑った。「久しぶりだジオ。随分待たせたね」と笑う相手に唇を噛んで、こんな場所でしたら後悔するかな、と思ったけどキスをした。
 きゃーとかおいとかなんだなんだと沸く教室の風景なんて、今はただのBGMでしかない。
 お前とこうするために、口は一つでいいって言ったんだ。そのためにこの唇はあるんだよ。
 きょとんとした顔のが困ったような顔をして俺の髪を指で梳いた。計算されたみたいに髪を縛ってるゴムが解けて、ぱらぱらと癖のついた髪が視界の端を流れ落ちてくる。
 感謝しろよ。この髪だって、お前が俺だとすぐに気付いてくれるように伸ばし始めて、ずっと気を遣ってきたんだから。
「待った?」
「…待ちくたびれた」
「そっか。うん。お前のこと先に行かせたせいかな。思ってるより時間が空いちゃって。でも、俺も来たから。だからもう大丈夫」
 ぎゅっと俺を抱き締めて大丈夫と囁く声に、うるさいBGMを聞きながらぎゅっと目を瞑る。
 ああ。そうだな。お前が来たんなら、もう大丈夫だ。この世界がどれだけ煩わしくても、苛立っても、空しくなっても、悲しくなっても、憎くなっても、大丈夫だ。生きていけるよ。生きていける。

 転校初日から俺は有名人になってしまった。というのも、みんなが見てる前でジオが俺に抱きついてキスしてしまったからだ。おかげさまで俺達についての噂はわっと広がり、次の日も、その次の日も、他のクラス、あるいは他学年の生徒から質問攻めに合った。
「ふー…」
 購買横の自販機でコーヒーを買った。お金を入れてボタンを押せばガコンと音を立ててコーヒーが吐き出されるこの機械、何回やっても感心する。人間社会って面白いなぁ。
 取り出したコーヒーの缶をプシュっと開けて中身を呷った。今日も質問攻め疲れた。
「おいこのサボリ」
 不機嫌そうな声をかけられて顔を向けると、ジオがいた。とっくに始業のチャイムは鳴ったのに。缶から口を離して「ジオだってサボリじゃん。ゆーとーせいなのに」と笑うと睨まれた。おお怖い。
 機嫌の悪そうなジオは苛々と踵で床を叩きながら「なんだって女子はああうるせぇんだ。鬱陶しくて授業も集中できねぇ」とぼやくから、ああ、それは確かに、と頷いてからコーヒーを呷る。
 あっちの世界では気にしてもいなかったけど、この世界では男同士の恋人っていうのは多少問題を孕むらしい。別にいいんだけど。だからって俺達が変わるわけでもないし。
 空にしたコーヒー缶をゴミ箱に放る。それを見計らったようにジオが俺の手を掴んで歩き出した。「どこ行くの」「どこだっていいだろ」「いいけどさ。あんまりサボってると成績にも響くよ」「んなことどうだっていい」俺よりはずっとこの校舎を知っているジオが何の表示もない教室の扉を開けた。今は倉庫として使われてるのか、乱雑に机と椅子が積まれて、色んなものが押し込まれている。スペースは前の扉の付近しかない。そこへ連れ込まれて、ピシャンと扉を閉めたジオが中から鍵をかけた。
 しん、と静かになった狭い空間で、黒い髪の間から見える耳に唇を寄せた。
「真っ赤」
「、」
「だよ。ジオ」
 くすくすと笑うとジオが振り返って唇に噛みついてきた。痛いな、と思ったけど受け止めて細い腰に腕を回す。
 現実方面が色々と忙しくて、まだちゃんとジオに触れていなかった。俺も触れたいって思ってたところだからちょうどよかった。
 相変わらず敏感なジオの舌を奪い、細い身体の輪郭を両手でなぞって、ズボンのベルトを外した。チャックを下げて触れてみれば、それと分かるくらい昂っていた。そういうジオに俺も興奮するんだよな。
「こないだ」
「ん?」
「俺の誕生日だった」
 ぼそっとした声に手を止める。「ああ、プレゼント? 今は何も持ってないんだけど」困ったなと笑うとジオは俺を睨みつけた。どこか潤んだ目で俺を睨んで「今欲しい。お前が」とこぼして俺のズボンのベルトを乱暴な手つきで外し始める。
 ああ、うん。それなら今でもあげられるかな。でもな、場所が。埃っぽい教室の隅でいいのかな。ラブホとかでシた方が思い出に残ると思うんだけど。何より、これがこの世界の俺達の一度目になるわけだし。
 とか何とか考えはしたものの、ジオが今すぐ欲しいと譲らないから、結局そこで一度目をシた。
 口で口を塞ぎながらセックスをして、果てたジオに合わせて俺も果てた。中に出してからしまったここまだ学校なのにと思ったけど、ジオが幸せそうだったから、まぁいいか、と俺も笑った。
 それから、その日は学校をサボって、二人でぶらぶらと街の中を歩いた。
「ジオさぁ」
「ん」
「六年あったのに、誰も作らなかったんだ。恋人」
「は」
 くだらないとばかりに笑ったジオが「馬鹿じゃねぇの」と言うからちょっと首を捻る。「俺がここに来る確証なんてなかっただろ?」「ねぇよ。ねぇけどな」ぼそぼそっとした声で、言いにくそうにしながらジオが俺の手を緩く握った。その手をしっかり握り返す。俺より少し小さい手。よく知っている。この手を取るために、俺はここにやって来たのだから。
 指を絡めて手を握り合う。ジオの言葉を待っていると、ちらりと俺を窺う瞳と目が合った。やんわり笑うと、頬に少しだけ朱色を走らせたジオがそっぽを向く。相変わらずかわいい。
「俺はお前のもんだし、お前は俺のもんなんだ。他を作る気なんてハナからなかったよ」
 ぴたっと足を止めるとジオが遅れて立ち止まった。「なん」だよ、と言いかけるジオをぎゅーっと抱き締める。「かわいいなぁジオ。一途だ。俺嬉しい」「う、うるさいっ、離せ!」「やーだ」明らかに周囲から浮いてたけど、俺は構わずジオを抱き締め続けた。ああかわいい。かわいいなぁジオ。
(お前を大事にしなくちゃ)
 ぼぐっと鳩尾をぐーで殴られてさすがに痛くて咳き込んだ。その隙に腕の中から逃げ出したジオが「ばーか、の馬っ鹿!」とダッシュで走っていく。
 胸を押さえて咳き込みつつ、走って逃げたくせに先で待ってるジオの姿に小さく笑った。
 ああ。お前がそうやってこの世界で待ってるって思って、俺はここへ来たんだ。
 ちょっと待たせた分、しっかり愛するから。わがまま何でも聞くから。お前が望む俺であるから。遅刻したこと、いつか許してね。