これが過ちだとしても、俺は

 まずい展開になった。キョーヤがテントを出て行ってしまった。プラス、さっきエンジン音がしたことを考えるに、バイクでどこかへ行ってしまった。
「キョーヤっ!」
 無駄だとわかってたけどテントを飛び出して叫ぶ。名前を呼ぶ。「キョーヤ!」と声の限り叫んでもキョーヤは戻ってきてくれない。
 どうしよう。俺は多分、キョーヤをすごく傷つけた。だってさっきのキョーヤ、泣きそうだった。
 リング争奪戦の舞台が並中だと知られるのももちろんまずい。それもある。でもそのことよりも、俺はキョーヤ自身を心配していた。キョーヤは俺をトンファーで殴ろうとしたけど殴らなかった。泣きそうな顔で俺を睨みつけて出て行った。僕はあなたの何、なんて言葉を残して。
 坂道を駆け下りてディーノとロマーリオのいるキャンピングカーまで走った。だんとドアを叩いて「ディーノ俺っ、!」だんとも一つ強くドアを叩くと、寝起きって顔のディーノが出てきた。「どしたぁ」「キョーヤが行っちゃったんだっ」「ん? どこへ」「わかんないけど、多分並中、じゃないかな。追いかけないと」「なにぃ!? そいつは一大事だっ、おいロマーリオ!」ばたばた車の中を行く足音。俺は唇を噛み締めてキョーヤを引き止めることのできなかった自分を悔やんだ。
 あのときもう一度手を伸ばしていれば。あの手を掴んでいたら、止められたかもしれないのに。
 だけど俺は、言うべき言葉が見つからなかったんだ。泣きそうなキョーヤの言葉に応えるだけの言葉を持ち合わせていなかったんだ。だから言えなかった。迷ってしまった。キョーヤの手を握ることができなかった。止められる言葉が見つからなかった。
 本当はもう、どこかで感じている気持ちがあることにも、気付いているのに。
「こっちも車を手配した。テントの方は俺の部下が片付ける」
 ばんとドアを開け放ってキャンピングカーから出てきたディーノに一つ頷く。お世話かけっぱなしでごめんディーノ。
 山道に到着した黒塗りの車の一つにディーノとロマーリオと一緒に乗り込んで、夜の山道をライトが駆け抜ける。
 拳を握って黙り込んでいる俺に、ディーノがやわらかく訊いてきた。「どうした、喧嘩なのか?」と。俺はそれに緩く頭を振る。多分違うと思う。これは喧嘩じゃない。「じゃあどうしたんだ。キョーヤが勝手にキレたのか?」「…多分俺が悪いんだと思う」「お前が?」目を丸くしたディーノと、その向こうからこっちを見ているロマーリオ。なんとか顔を上げて俺は笑ってみせる。「俺も全然ガキだね。もっと上手にやれるつもりでいたのに」と言うとディーノは困ったような顔をした。
 ぽんと頭に手が置かれて、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でられて「ちょっとディーノ」抗議の声を上げてその手を掴んで止めると、ディーノはにかっと笑う。
「心配すんなって。あいつはあんな性格だから、素直になれないだけで、お前のこと大好きだと思うぜ」
「いや…そういう心配じゃなく」
 天然なのか計算なのか。笑っているディーノから視線を逸らしてふうと息を吐く。
 あのキョーヤが俺を好きだなんて。大好きだなんて、あるはずがない。
 じゃあなんで二回もキスしてんだよって事実は今は棚に上げておく。だってそうだろ? 男同士で好きだなんていうのはおかしなことだろ? そういう人達が世の中にいるってことはもちろん知ってるけど、俺はそっちの気はなかったはず。だと思う。ちょっと自信ない。だってキョーヤはきれいだし、トンファー振り回す問題児だけど、かわいいとこもあるんだ。
 って違う。だからそうではなく。

 僕は、あなたの、何

(キョーヤは俺の……)
 ぼんやり窓の外を流れる景色を見ていると、山の中から道路へ、そして町中へと入っていく。
 あの言葉に。俺はなんて返せばいいのだろう。
 ディーノが部下に問い合わせて調べたところ、キョーヤはやっぱり学校へ向かったようだった。
 今日は嵐の守護者、自称王子のベルと獄寺隼人の対戦で、嵐戦の名のとおり、学校はかなりひどい有様になっていた。これは絶対キョーヤ怒る。事実、さっきからガシャアンとかガラスの割れる音が響いている。リング争奪戦が続いてるのか、それともキョーヤが怒って暴れてるのか、二択に一択だ。
 車を飛び出して並盛中学の敷地内を走る。「あ、おい!」後ろからディーノの声が聞こえたけどとにかく走った。階段を駆け上がって音のする方へ走る。今はとにかくキョーヤを止めないといけない。それが一番の優先事項。
 のされて転がってるヴァリアー側の人間を跳び越えながら考える。俺はあの言葉にどう返すつもりなんだろう、と。
「校内への不法侵入及び校舎の破損。連帯責任でここにいる全員咬み殺すから」
 聞こえた声に、階段を段飛ばしで上がる。キョーヤの背中が見えた。間に合うか、間に合え、間に合え!
 手を伸ばして、キョーヤを抱き締めて、引き寄せるようにして後ろに倒れ込む。どたんと尻餅をついたけど気にしない。全力疾走と階段を駆け上がったせいで息は苦しくて仕方ない。でもキョーヤのことは離さない。離せない。
「キョーヤ、ごめんね。ごめん」
 ぎゅっと抱き締めて「いい子だから手は出さないで」と囁く。キョーヤは動かない。手にはトンファーがあるし、俺の腕なんか簡単に跳ね除けていけるだろう。でもできればこのまま、腕の中にいてほしい。
 一分はそうしていた。キョーヤは動かなかったので、ゆるりと顔を上げる。あまり近くに寄りたくないと思うヴァリアーの面々と、リボーン率いる沢田綱吉とその仲間が見える。なんかみんな俺達に注目していた。
 そんなに見られると恥ずかしいものがある。視線を泳がせて「えっと、ごめんなさいすいません。すごく邪魔しました、キョーヤともどもごめんなさい」頭を下げてもしーんとしてる現場になんか逃げ出したくなった。
「おせーぞ。雲雀はお前に任せたっていうのに何してんだ」
「ごめん…」
 リボーンの声にうなだれると、俺の腕を剥がしたキョーヤが立ち上がった。視線で追うと、怒ってはいないようだけど、口はへの字に曲がったままだ。キョーヤが言わんとしているところはわかってたから「校舎の破損は直るの?」と訊くと、よく分からない覆面をつけた女の人に「はい。我々チェルベッロが責任をもって」と返された。チェルベッロ。聞いたことのないけど、大丈夫かな。
 キョーヤがずんずん無言で歩いて行くから慌てて立ち上がる。「じゃあ本当ごめんなさい、お邪魔しましたっ」と言い置いてからキョーヤを追いかける。
 俺はまだ、あの言葉にどう返せばいいのか。よくわからないままだ。
「キョーヤっ」
 ぱし、と腕を掴んだときにはもうだいぶ歩いたあとだった。止まってくれたけど、キョーヤは俺を見ようとしない。
 何か言わなくては。でも何を。
「…どうして言わなかったの」
「え?」
「リング争奪戦の舞台が、並中だってこと。どうして言わなかったの」
 感情のない声と俯いたままのキョーヤに「えっと、それは、キョーヤが怒ると思って…」「言わなければわからないままで終わってたと思うの?」「いや、思わないけど。もうちょっと上手に教えるつもりだった。こんな形じゃなくて」それは本音だった。本当はもっと上手にやんわりキョーヤに教えるつもりだった。こんなふうに学校が壊れるところ、キョーヤが見たいはずがなかったんだから。それは俺の力不足だ。
 しゅんとして「ごめん」と謝る俺に、ようやくキョーヤがこっちを見てくれた。灰の瞳で俺を睨みつけて「あなたはさ」という声が急に不安定になる。強く鋭いのが常の瞳がじわりと滲んでいく。
「あなたは、僕を信じられないわけ。あなたが頼めば、僕だって我慢くらいしたのに」
「…キョーヤ」
 再び俯いてしまったキョーヤが俺の手を振り払った。つかつか歩き出す背中を見つめてぐっと唇を噛み締める。
 俺は間違ってるだろうか。泣きそうなキョーヤを放っておけないと思う俺は、間違っているだろうか。
 いや、たとえ間違っていたとしても、俺は。
 大きく足を踏み出して走る。歩いているキョーヤにはすぐ追いついた。手を伸ばせば振り払われる。もう一度と手を伸ばせばトンファーを振り被ったキョーヤが俺を振り返った。殴られるかもしれない。いや、泣かせたんなら殴られたって仕方ない。当然の報いだ。覚悟は決めてある。殴られても仕方ない。痛いだろうけど、大丈夫。
 今はキョーヤの心の方がきっとずっと痛んでる。
 伸ばした手でキョーヤの背中を抱いてぎゅうと抱き締めた。トンファーで頭を殴られることを覚悟した。それでも離さないつもりでぎゅっとキョーヤを抱き締めた。
 振るわれたトンファーは、俺の頭に当たる寸前でぴたっと静止する。
 震えているその腕を取って、揺れている灰の瞳を見つめて、キスをした。角度を変えて何度もキスをした。唇を舌でなぞったり甘く噛んでるうちにキョーヤの手からトンファーが落ちてごとんと重い音を立てる。
 何度も何度も、呆れるくらいにキスをして、飽きるくらいにキスをして、唾液が顎を伝って落ちた。
 完全に道を踏み外した自分ってものを自覚したけど、今はもうどうでもいい。キョーヤを丸くするために日本に呼ばれたんだってこともどうでもいい。今はただキョーヤが泣かないようにこうしていたい。
 呆れるくらいキスをして、飽きるくらいにキスをして、唇を弄んで、貪って、気付いたときにはキョーヤは泣いていた。泣かせたくないのに泣かせてしまった。慌てて顔を離して「ごめ、キョ」ヤ、と続けようとして唇を塞がれる。ごちっと歯が当たって痛かったけど我慢した。キョーヤは涙を流していたけど、それはキスが嫌だったからってわけではないらしい。
 不器用な口付けに応えるために、頬に手を添えて目を閉じる。
 間違いなく、今のキョーヤはかわいらしい。
 俺の人生、この先どう転ぶんだろう。そんなことを考えながらちゅっと音を残して顔を離すと、キョーヤはぷいとそっぽを向いて袖で口元を覆った。その目にもう涙はなかった。泣いていたとわかるのは目元が少し赤いことくらいだ。
「帰ろうか」
 そう声をかけるとこくりと一つ頷かれる。キョーヤを解放して歩き出すと、くいと手を引かれた。俯いたキョーヤが俺の片手を緩く握っている。
 止めたいのではなくて、このまま歩けってことだろうか。首を捻ってそう考えて、歩き出す。キョーヤはついてきた。つまりこうして歩けってことだ。手を繋いで歩きたいってこと。
 なんだろ、本当かわいいなキョーヤって。そう思ってしまった俺の負けだった。
 自分と同じくらいの大きさの手を緩く握り返して校舎を出る。
 嵐戦の勝敗も気になるところだけど、今日は大人しく帰ろう。結果は明日リボーンにでもディーノにでも訊けばそれでいい。