あなたとずっと一緒にいたい

 イタリアというのは、一日中騒々しい。朝は市場が並んでうるさく客引きをするし、昼間は普通のお店の営業が盛んで、観光場所は人通りも多く、夜は夜でバーとか飲み屋とか夜の店が遅くまでやっている。並盛との違いを言い出せばきりがないほどここは別世界だった。
 その日、僕とはヴェネツィアに向かっていた。
 並盛以外にあまり興味もない僕でも、どこかで見聞きくらいしたことのある名前だ。
 水の都って呼ばれるくらい町の中に水路が敷かれているところで、車の代わりにゴンドラが水面を走り、水路に渡された歩行者用の橋は四百にもなるらしい。というような基本的な情報を観光本から斜め読みしつつ、ちらりと視線を上げる。はイタリアに住んでたくせにここにはあまり来たことがないらしく、僕よりもずっと観光客気分できょろきょろしていた。
「仕事で一、二回くらいは来たんだけどさ、ちゃんと来たの初めてなんだ」
「ふぅん」
 ヴェネツィアが紹介されているページには目を通したので、本は斜めがけの鞄に突っ込んでおく。空いた僕の手を彼が当たり前のごとく、かつ自然に握って「あっ、あのジェラートおいしそう」とか手を引っぱって歩いていくから、昨日だけでその手を払うのに疲れた僕は、大人しく彼についていった。「キョーヤ何味がいい?」…その言葉に昨日のいちご味を思い出してしまった僕は馬鹿だ。ぷいっと顔を逸らして「なんでもいい」と言うと「はいはい」と苦笑いした彼がにこにこ笑顔の女店員に話しかける。そこから先はイタリア語での会話だったのでついていけず、英語だったらまだ聞き取れたのに、となんとなく不満になりつつ、大きな水路から小さな水路へと視線を流す。観光客を乗せたゴンドラが角を曲がっていって見えなくなった。
 ここまでは水上バスで来たし、水上タクシーとか渡し舟とか、ゴンドラとか、ここには並盛にないものが溢れている。川くらい並盛にだってあるけど、日本の川は海外と違って細くて流れが急だ。ゴンドラでゆったり水上を行くなんてことできはしないし、船を浮かべるほど深さも広さもない。
 …僕は今並盛じゃない場所にいるんだと改めて実感すると、妙だ、としか言いようがなかった。
 すぐそばに水があるのに、日本みたいな嫌な水臭さがない。海に囲まれているのだから多少の潮臭さは否めないけど、日本だったら絶対にねっとりとした海風が吹きつけるのに、ここの空気は違う。
 見える建物も、多くが煉瓦色で、写真や映像の中でしか見ることのなかった色と形を持って、当たり前のようにそこに建っている。
 水上バスが行き交う主要水路の一つである川の両サイドにはたくさんのテーブルと椅子が並べられていて、人出もそれなりだ。
 見当たる標識に日本語は存在しない。イタリア語、英語、あっても中国語くらい。
「はい」
 すっと目の前に差し出されたカップのアイスを受け取る。「何味?」「洋梨です。俺はグラッパ」「グラッパ?」聞いたこともないと首を傾げる僕に、スプーンでアイスをすくったが「じゃあ食べてみたら」と言うから、言われるままにスプーンを口に入れて、思わず顔を顰めてしまった。香りからぶどうなんだろうかと思っていたら違った。味わわずに飲み込んで洋梨のアイスを食べて口の中を誤魔化す僕に、彼が笑っている。その顔をきっと睨みつけた。
 グラッパって、なんだそれ、お酒じゃないか。
「昼間からそんなもの…」
「いいじゃんか。これ、一応イタリア産って呼べるものだからさ。記念記念」
 普通の顔でお酒のアイスを食べる彼を睨みつつ、日本でもありそうな洋梨味のアイスを食べる。グラッパを一口食べただけなのにまだ舌が熱い。
 アイスを食べて空の容器を店に返し、ヴェネツィアの地理を頭に叩き込んだらしい彼に「じゃあネックレス探しをしよう! 観光しながら! ほらキョーヤ」と楽しそうな声と笑顔で手を差し出されて、渋々、仕方なく手を重ねる。
 その手を振り払うことは、昨日だけでもう疲れてしまった。
 …僕だって本当は彼と手を繋いで歩きたいのだ。並盛ならそんなこと絶対にできないけど、僕を知る人間のいないここでなら、こういうことだってできるのだから。
 彼は、僕の手を引きながらヴェネツィアについてわかることを勝手に説明した。
 基本が濁った緑色っぽい水に侵食されている町は、最近老朽化が進んでいるらしい。確かに、パッと見てくたびれていると感じる建物も多い。三階建てか四階建てが並んでいる煉瓦のアパート群も壁に傷みが見受けられるものもある。地球温暖化で海面が上昇しているということもあり、最近は水の被害が多いのだそうだ。
 別に興味もないし、とその辺りの話は適当に聞いて、土産物屋が並ぶばかりの通りから離れて町の中へと入っていく。路地と路地の間に走る水路を繋ぐ橋を渡り、適当な土産物じゃなくてちゃんとしたものを作っている店を探す。
「…………」
 はなんだか楽しそうだ。
 そういうあなたを見てると、僕もなんとなく楽しい。あなたの心が繋いでいる手を通して僕まで伝わってくるようだ。
 ヴェネツィアングラスという伝統のせいか、あちこちにガラスを使ったオブジェが飾られている、煉瓦の壁に挟まれた狭い道を歩く。さらに狭い道に引っぱり込まれて、煉瓦のアパートの入り口しかないそこにここは行き止まりだよと言おうとしたら、キスされて、唇を塞がれた。
 キスしたいと思ってたから、ちょうどよかったけど。あのアイスのせいかちょっとお酒くさい。
 満足するまでキスをして、何もなかった顔で路地の道へと戻る。僕は彼ほど器用じゃないので、ちょっと顔を俯けつつ、ピリピリする舌を空気に晒した。ぶどうがすごく苦くなった味がする。
「あ、」
 少し行ったところで彼が足を止めた。手を引かれて僕も足を止める。彼の視線の先にはショーウィンドウがあって、控えめな感じのヴェネツィアングラスのネックレスが飾られていた。「入ろ」と手を引かれて、開けっ放しの扉の中へと踏み込む。
 店内には大小様々な大きさのガラスのオブジェ、ネックレスなどが並べられていた。
 …人目があるのが気になっての手を振り払う。彼は苦笑いをこぼしただけで何も言わなかった。
「……ねぇ、これ何?」
 適当に中を見て回り、目に留まった花が詰め込まれてる模様の小さなネックレスを指す。ふむと覗き込んだ彼が「ミレフィオリかな」と言うから首を捻った。…この、花がたくさん入ってるガラス工芸品をそう言うらしい。どこかで聞いたようなネーミングだ。「千の花って意味だよ」と笑う彼にふぅんとこぼして、確かに花がたくさん入ってるな、と十字架のネックレスを眺める。これはさすがに女性向けすぎるというか、派手だから却下。
 その隣は花から離れて、色ガラスのペンダントがたくさん並んでいた。チェーンや革紐も一緒に置いてあるということは、好きなペンダントを選んで好きな紐を選べということなのだろう。これくらいのものなら日本にでもありそうだし、却下。
 メンズ用にシンプルなものも売っていたけど、こっちはあまりにもシンプルすぎたのでこれも却下。
 残ったのは、虹色に見えるガラスをペンダントトップにしているビーズのついたネックレスだ。そう派手でもないし、ペンダントの大きさも手頃だ。だけどチェーンの部分がビーズっていうのが、とじっと見ていると、彼の手がそのうちの一つを取り上げた。すっぽり被れるくらい長さがあったからそのまま僕の首にかけて、うーんと悩んだ顔をする。
「ちょっと長いよなぁこれじゃ」
「…その前に、この部分につっこんだら?」
 とん、とビーズのチェーンを示すと彼は笑った。「そういうのも似合うけどな」と普通の顔で言うので彼の手をぎりっと一つつねっておく。「いだっ」と声を上げる彼の手をポイッと離して、置いてある鏡をそろそろと覗き込んだ。
 …これが似合ってるって? ただでさえ左の手首にボンゴレギアがついてて結構邪魔だと思うときがあるのに。
 胸の真ん中辺りにきているペンダントを一つ指で弾く。せめて鎖骨辺りにあってくれないと、揺れて邪魔になるじゃないか。丸みを帯びた四角い形や色合いはそれなりに気に入ったけど、これじゃあな。
 その辺りになってようやく中年の男が接客しにやってきた。「イラッシャイマセ」はかろうじて日本語だったけど、そこから先はイタリア語で僕にはさっぱりなのでに任せて、眉根の寄っている自分の顔が映っている鏡を睨みつける。
「キョーヤ、ちょっとこっち向いて」
 手を引かれて、何、と顔を向ける。僕の胸に触れた手に身体がかっと熱くなったけど、ペンダントをつまんだ指は、それ以上僕に触れない。鎖骨の辺りまでペンダントを持ち上げて店主と何か会話している彼から顔を背ける。
 昨日の夜、ホテルからの夜景を見ながらシたことを思い出しそうになる。
 いけない、と自分を律して違うことを探す。店内に視線を彷徨わせて違うことを意識する。考えちゃ駄目だ。考えたら余計に意識してしまう。
「お、どうにかなりそうかもキョーヤ」
「何が」
「チェーンのところ。別途料金かかるけど、好きなものに変えられるっぽい」
 どうやら、店主との会話はそういう話だったらしい。
 僕からネックレスを取り上げた彼が、また何か話をして、交渉は成立したらしい。よかったと僕に笑って「ペンダントはそのままで、チェーン部分変えようか。何にする?」と革紐やシルバー、ゴールドのチェーンを手に取る彼に、すっと革紐を指した。それなら結び目を変えれば長さだって変えられるだろう。駄目になってもどこかでまた買えばいい。彼もそう思ったらしく、ネックレス二つと革紐を持ってレジの方に移動した。
 ぼんやりその背中を眺めて、来店してきた他の客から距離を取る。
 彼といるときはそうでもないのに、一人になると、途端に誰かの会話が耳障りだと感じてしまう。がいればを意識するから他が気にならないのだ。だから、彼がいないと、他に意識がいって、苛々する。
 支払いをすませた彼が戻ってきた。「調整に三十分くれってさ。その辺で休憩しようか」と手を引かれて、浅く頷く。さっきまで他人の存在に苛々していた僕は、消えていた。
 路地の小路で、中央にガラスのオブジェ、それを囲むように花壇とベンチがあった。そのうちの一つに腰かける。
 水の音が絶えることのない場所だな。あと、いい天気だ。晴れてよかった。
 彼がいたら、退屈でも、穏やかになる時間。
 彼がいなければ、ただ退屈で、他の存在にイラつく時間。
 ……変なの、と自分でも思う。極端すぎる、と。彼に言われるまでもない。僕は彼に依存しすぎている。こんなんじゃがボンゴレの仕事だと僕のもとを離れるようなときが来たとして、生きていけない気がする。

 彼は僕の酸素なんだ。僕の肺を満たした海水で、僕は人間じゃなくて魚になったから、彼の海から上がったら、呼吸困難で死んでしまうんだ。
 何とも引き換えにできない。僕が生きていくことにはが必要不可欠だ。

 こてん、と隣の肩に頭を預ける。何も言われなかったけど、髪を撫でられた。指で梳かれる感覚が心地よくて目を閉じる。髪を梳く指先から愛を感じるんだ、なんて言ったら笑われるかな。
「さっきのあれ、結構高価なやつなんだけどよかった? レインボーカラーのディクロイコガラスなのと、オプション変えちゃったから、値段弾んだよ」
「いいよ、別に」
 さして気になる問題でもない。お金なら彼に預けてイタリアの紙幣に換金してある。足りないというのなら世界共通のカードでも出すさ。
 三十分とちょっと、そうやってぼんやり過ごして、手を引かれてさっきの店に戻る。しっかりした皮の袋でネックレス二つを渡された。彼はさっそく袋からネックレスを取り出して僕の首につけた。
 前からじゃなくて、後ろから、つければいいのに。なんで前から腕を回して。それじゃ、やりにくいだろうに。
「…後ろからやればいいだろ」
「いや、位置見ながらと思って」
 鎖骨の間より下辺りにペンダントがくるように革紐をしっかり結んだ彼が、同じ要領 で自分のネックレスをつける。
 …お揃いだ。手作り品だから全部が同じってわけじゃないけど、虹色のガラスのペンダントをつけてるってところは、同じだ。
「やっとできたね、お揃い」
 へらっと笑った彼がペンダントを指で叩く。
 僕は顔を俯けて、なんかニヤニヤしてる店主の視線から逃げるように彼の手を掴んで店を出た。イタリア語で店主の方に何か声をかけていた彼が僕の早足に慌ててついてくる。「キョーヤ?」と呼ばれて歩調を緩め、追いついた彼を見られない。
 顔が熱い。
 本当に、馬鹿みたいだな。僕も、あなたも。
 同じようなネックレスをつけただけだっていうのに、こんなに嬉しくて、繋がった気でいる。いくらでも身体を繋げてきたくせに、今までよりも、昨日よりも、あなたを近くに感じる。
 …馬鹿みたいに幸せだ。
 あなたがいるだけで、僕は、こんなに幸せだ。