天の梯子がかかる街で

 次の日は、本場のピザが食べたいというのためにナポリまで移動した。
 かなり人口過密度の高い街で、それが社会問題にも発展しているらしい。に手を引かれていなければ人の群れに暴れ出しているところだ。
「ねぇまだ?」
「もーちょっとです。ね、もうちょっと我慢して」
 海岸沿いの道を行く彼が困ったなと僕に笑いかけ、ご機嫌取りをしている。バスを降りてすぐだって言ったくせに、と睨む僕に彼は困った顔で笑うばかりだ。
 ナポリの海岸沿いというのは人が群れすぎていた。普通に抱き合ってるカップルが腐るほどいる。キスしてる人だっている。…同性同士は、見かけない。
「ねぇちょっとだけあっち行こ」
「は? ピザ食べるんじゃないの?」
「ちょっとだけ! ねっ」
 手を引かれて、簡単に乗り越えられる手すりの向こうの消波ブロックに下り立つ。ひょいひょいと慣れた足取りで海の方に近づく彼に、仕方なくついていく。
 ザアン、とブロックにぶつかった波が砕ける音がする。
 波飛沫が来ない場所で腰を下ろした彼を立ったまま睨んでいたけど、「ほら隣」とコンクリートのブロックを叩いた彼に、仕方なく腰を下ろす。
 僕にとっての海はすぐ隣にあって、本物の海は、目の前に広がっている。どっちの海もきらきらしてて眩しい。
「観光はしない? 世界遺産とかあるよ」
「興味ない。人が多いし」
「んー、じゃあ景色のいいところへ行こう? せっかくのナポリなんだから、街の風景見ておこうよ」
 ね、と手を握られて、ぶすっと拗ねた顔をしている僕に彼が笑う。そのまま顔を寄せてキスしてくる。
 その辺で抱き合ったりキスしてるカップルが多いからか、僕は抵抗せずにそのキスを受け入れていた。
 見せつけられたら見せつけ返したいのだ。やられたらやり返す、僕はそういう性格だ。
 耳を打つ波の音が時間間隔を曖昧にしていく。彼の蒼い瞳が僕を取り込んで、逃げられなくする。
 どのくらいキスしていたのかわからない。飲み切れずにこぼれた唾液が顎を伝ったときに初めて正気に返った。
 よく考えずともここは道沿いからそう離れてはいなくて、人の目があった。急激に恥ずかしくなってきて彼の胸を押し返して身体を離した。気持ちとは裏腹にまだキスしていたいとばかりに僕と彼の口を繋いだ銀の糸が恨めしい。
「ピザを、食べに、行くんでしょう」
 顔を俯けてぼそぼそとこぼす僕に、「そうだね。行こう」と笑った彼が手を引いて立ち上がる。
 ああ、顔が熱い。
 たん、たんとブロックからブロックへ移動しながら、鎖骨の辺りで跳ねたペンダントを意識する。
 …これから毎日、これをつけていよう。彼と繋がっていよう。いつでもどこでも。
 本場物だというピザを食べて、まぁ確かに窯焼きは香ばしくて焼き立てはおいしい、と納得しつつ、昼食を終えた。
 食後のカフェオレのカップにふーと息を吹きかける。コーヒーは苦くて好きじゃなかったからカフェラテで妥協したのだ。
 あたたかい液体に口をつけて、それでも苦いかな、と思って砂糖を入れた。
 紅茶は主流じゃないからどこにでもあるものしか置いてない、と言う彼の言葉に従って、紅茶以外を選んだのだ。エスプレッソやカプチーノが有名らしく、彼はせっかくだからとカプチーノを頼んで、苦そうな顔で頑張って飲んでいた。
 昼食時間を外して十四時に入ったっていうのに、人の波が引かない。ナポリは本当に騒がしいところだ。
「このあとはどうするの」
「街の景色を見よう。上の方から」
 観光本を取り出してどこがいいかと悩み出す彼を、テーブルに頬杖をついて眺めつつ、たまにカフェラテをすする。
 彼が悩み出して何分か経った頃、視線を感じて顔を上げた。ざわざわと人が行き交う街の景色は相変わらず見慣れない。日本のものより一回りも二回りも大きい建物群や聖堂、カラフルな色合いの壁、どことなく香る海のにおいも、全部慣れない。
 そんな中で慣れているこの視線。この感じは。
「…ねぇ」
「ん?」
「マフィアはイタリアが発祥なんだってね」
 きょとんとした顔の彼が「そうだけど。何急に」と首を傾げるから、気付いてないのか、と口を噤む。
 確かボンゴレはマフィアの中で大きい方だと言っていた気がするけど、組織に喧嘩を売る馬鹿とか、やっぱりいるんだろうな。風紀委員に楯突いた鈴木アーデルハイトの粛清委員会とかいうのがいい例だ。この間の継承式で他所への守護者としての顔見せというのをしてしまっているし、未成年の子供をガキだと判断して始末しにくる奴がいないとは限らない。
 まぁ、いいけど。喧嘩を売るなら買うだけだ。
 彼は見られていることに気付いてないようだったから、話を戻した。「で、決まったの」「ん。やっぱり歩こう! 歴史地区見ながら上まで行きましょう」ぴっと大通りを指されて、げんなりした。却下したい。ものすごく。でも、相変わらず注がれている視線のことを考えるなら、人混みの中にいた方がよさそうだ。多くの人の目がある場所で下手は打ってこないだろう。
 仕方なく了承して、食後のお茶を片付けて、腹ごなしに彼と一緒に人混みの中を歩いた。
 …つかず離れずの距離をついてくるところ、やっぱり目当ては僕か、それとも彼か。
 通りの左右に並ぶ店や屋台を眺めていた彼がふと足を止めた。一瞬だ。すぐに何事もなかったように歩き出すけど、その表情は僅かに曇っている。
「もしかしてさ、俺達つけられてる?」
 今頃気付いたらしい。神妙な顔をしてみせる彼にはぁと吐息して「あなたが観光本睨んでる辺りからだよ」と言うと、「ああ、だからマフィアがうんたらって…うーん」悩んだ顔をした彼が思い切ったようにくるっと振り返った。…本当に、馬鹿なのかあなたは。一応マフィアの一員なんでしょう。なんでそんな馬鹿丸出しみたいな行動に出られるんだ。本当、馬鹿でしょ。
「キョーヤ見て! いい景色だ」
「…あなたって馬鹿でしょう」
「うるさいなぁ、馬鹿ですよ。馬鹿な俺は嫌い?」
 はーと深く吐息して、仕方なく、彼と同じく後ろを振り返る。
 視線のもとを探すのではなくて景色を眺めた。陽が傾きつつあり、高い建物と建物の間から射す陽射しが濃い光の密度で道と行く人を照らしている。
 …なんだっけ。雲の間から光が射す、あれみたいだ。
「嫌いなわけない。どんなでも好きだよ」
 そうぼやくと、彼は照れくさそうに笑った。あなたがそういう顔をすると僕まで照れくさくなってくるので、転ばないうちに前に向き直って、ぎゅっとその手を握る。
「俺も、どんなキョーヤでも好きだよ」
 笑った彼の声が耳をくすぐって余計に気恥ずかしくなってくる。
 ざわざわと揺れる落ち着きのない空気、人混みが発する音、飛び交う聞き慣れない言葉。その中で知っている体温をぎゅっと握る。
 …ここがイタリアで、行き交う人のほとんどが僕らの日本語の会話を理解していないことが唯一の救いだ。
 こんなことを従来で口にするなんて、並盛じゃ考えられない。
 そこからさらに歩いて歩いて、視線がついてくるのがいい加減鬱陶しいので、を適当な路地にひっぱり込んだ。まだついてくるのなら制裁を加えてやろうと折りたたみのトンファーを展開する。「キョーヤ」と困った顔をしたは、僕のことを止めはしなかった。仕方ないかな、という顔だ。
 案の定僕らを追って路地に入ってきた二人組の男の一人の足を引っかけて転ばせる。不意を突かれたもう一人が銃を取り出すのが見えて反射でその腕をトンファーで潰してやった。押し殺した悲鳴すら耳障りで、足元の男の方はだんと背中を踏みつけてナイフを手にしている手を踵でだんと潰す。
 いい加減鬱陶しいんだよ。僕との時間を邪魔して。咬み殺してやろうか。
 一人の頭にトンファーを突きつけ、一人のことを踏みつけて制している僕に、が動いた。転がっている銃を手にして「まぁ、形式だしね」とこぼして倒れている方の男の頭に銃を突きつける。
 男二人はすでに顔面蒼白だった。命がけの喧嘩ってのをしたことがないんだろう。その点僕らは修羅場をくぐり抜けているため、こんなことじゃ動じない。
「…カモッラか」
 くるりと銃を引っくり返してそうこぼした彼に首を捻る。「何それ」「ナポリを陰日向から支配してるマフィア、かな」「ふぅん」動こうとした一人の頭をごっとトンファーで殴りつけると簡単に失神した。弱い。相手にするのも馬鹿馬鹿しいくらいだ。手慣れた様子でくるりと銃を回した彼が「手加減した?」「したよ」「そう。いい子だ」と言って銃を構え、撃たずにグリップの部分で男の頭を殴って気絶させた。銃は手放すのかと思ったらちゃっかり鞄にしまう彼に眉を顰める。
「そんなものどうするのさ」
「帰りにボンゴレに預けてくる。ナンバーとか割り出せると素性の割り出しも早いし。まぁ、形式的にね」
 肩を竦める彼に、トンファーをたたむ。ふぅん。形式ね。まぁ、いいけど。
 路地から出て、ようやく視線がなくなったことに胸のつかえが取れた。
 自然と手を伸ばして彼の手を握っている自分がいる。そして、自然に僕の手を握り返す彼がいる。
 ようやく辿り着いた高台からは、夕陽に照らし出されるナポリの景色が広がっていた。全体的に白っぽい街だったけど、今は夕陽のせいでオレンジ色に染まっている。
 ふぅん、と欄干に手をかけてもたれかかる。まぁ、確かに、日本じゃ見られない景色なのかもしれない。でも感動するほど特別きれいというわけでもないような、と考えていると、肩を抱かれた。「キョーヤ」と囁いた声がすぐ耳元で心臓がとくとくと騒ぎ出す。
「好きだよ」
「…知ってるよ」
 照れくさくて視線が惑う。抱き寄せられるままその腕の中に収まって、もういいや、と強張る身体から力を抜く。
 人の目があるよ。恥ずかしいよ、すごく。でも、にこうされること嫌いじゃないから、強がって腕を突っぱることができない。
 並盛だったら絶対にこんなところ晒せないけど、こっちにいる間くらいは、なんて、僕も甘いな。
「僕も、のこと、大好きだ」
 コートの胸に頭を預けてぼそぼそ小声で伝えると、頭を撫でられた。髪を梳く指の感触に目を細める。少し視線をずらせばネックレスのペンダントが見えて、虹色の色彩が夕陽を受けて輝いていた。もう少し視界を傾ければ、彼の腕と、ナポリの街が見える。
 抱き返すことはしない、それは恥ずかしい、と拳を握って、彼の背中に伸びそうになった腕を密かに律した。