身体で愛を紡げたなら

「アラウディー」
 よく晴れた日の午後、窓から射す光を受ける形でソファで寝転がり、気持ちよくうつらうつらと眠りかけていたのに、の声で意識が醒めた。
 目が覚めたばかりでぼやけた視界とぼやけた頭でむくりと起き上がる。陽射しの中にいるせいか部屋の全てが暗い世界に沈んで見えて、の声がした方に視線を彷徨わせて視界を慣らす。人がせっかく昼寝しようとしてたのに、なんてことしてくれたんだ。
 何度か瞬きしているうちに視界が回復して、それと同時に甘いにおいがすることに気がついた。「何このにおい」顔を顰めてゆるりとソファから立つと、オーブンの前で手招きしているを見つけた。何か焼いているようだ。においからして甘いもの、お菓子系か。
「前にたくさんチョコをくれたろ。だから、今度は俺がパイ生地から仕上げまで一から作ったアップルパイをプレゼントするよ。もう焼ける」
「……僕、寝てた?」
「? ちょー寝てたけど。その隙見て焼いてたわけだし」
 当たり前のようにそう言って首を傾げたから顔を背けた。
 …気付かなかった。僕は寝ていたのか。に覗き込まれても起きなかったのか。よほど、僕は彼という存在を肯定して疑っていないのだな。他の誰かなら絶対飛び起きていたろうに。
 改めてオーブンの方を見てみる。甘いにおいはここからだ。嘘を吐く理由もないし、の言葉のとおり、この中では手作りのアップルパイというのが焼かれている最中なのだろう。
「パイ生地から作ったからさ、総合調理時間が五時間か六時間の力作だよ」
 得意げに胸を張る彼に、僕は違う意味で顔を顰めた。五時間も六時間もパイ生地を作ったりりんごを煮潰したりしていたの体力面の方が心配になったのだ。「」「んー」まだかなーとオーブンを覗き込んでいる彼に「薬は飲んだの」と訊ねると、彼は上の空で「あー多分」とか適当なことを言う。ぐいとエプロンを掴まえて引っぱり寄せ「飲んだのか飲んでないのか」と問い質すとストップと手をかざした彼が「ちょい待ち、思い出す、ま」そこでごほと咳き込んだ。ごほごほと続けて咳き込むからぱっと手を離してテーブルの上の薬瓶を掴んで戻る。シンクに手をついてごほと咳き込んだ彼に薬瓶を突きつけ、適当なコップに水を入れた。早く飲めと薬とコップを押しつける僕に彼は苦笑いの表情で手で口を押さえ、こもった咳を続ける。
 バレンタインのお返しにとこっそりアップルパイを作ってくれたことは嬉しいよ。だけど、それは君の体調以上に優先されるべきことじゃないだろう。
 僕が一番に望むことがあるとしたら、君の健康。それ以上にはない。
 げほ、と咳き込んだ彼が掌の上の錠剤をざらりと口に入れてコップの水を流し入れた。背中をさすっていた手を離しながら思う。本当に、薬の数が増えたな、と。
 薬を飲み下し、とんとんと自分の胸を叩いたが「あーびっくりした」「こっちのセリフだ」「はいごめんなさい。アップルパイ作りに夢中で」子供みたいな笑顔を浮かべる彼を一つ睨んだところでチーンと間の抜けた音。「あっ」と慌ててアップルパイに意識を向ける彼に、ふん、と腕組みしてそっぽを向く。
 君が、僕に何かお返ししようってアップルパイ作りに挑戦したことは、まぁ嬉しいんだけど。何か納得いかない。自分よりアップルパイが優先されている現状にか、それとも、アップルパイに気を取られて薬を飲むことを忘れたことにか。
 熱気を伝えてくるオーブンの方に視線を投げる。いいぐあいに焦げ色のついたアップルパイがシナモンたっぷりの香りを放っている。売り物のようにとはいかないけど、形にはなっているし、香りからしてもアップルパイそのものだし。おいしそうだ。月日が過ぎるほどにの料理の腕が上がっている気がする。僕は彼に任せきりにしているのだから、当然といえば当然の結果だけど。
「アラウディー皿、皿取って」
 串を刺して焼けたかどうか確認している彼に手を突き出され、仕方なく戸棚に寄ってアップルパイが載りそうな大きさの皿を一枚取り出し、の手に預けた。
 適当に飲み物を用意するために冷蔵庫を覗き、テーブルにすでに紅茶の用意がされているのに気付いて、やかんに水が入っていることを確認して火にかけた。
 …僕は彼がアップルパイや紅茶の用意をしている間寝こけていたのか。何か、恥ずかしい。寝顔見られてないだろうな。いや、見られたのか。変な顔してなかったかな。夢なんて見てないけど、自分の寝顔なんて確かめようがないし。
 ぐるぐる考えつつカップとポットを熱湯であたため、視線で窺うと、四苦八苦しながら型からアップルパイを取り出したが「よし、あとはちょっと冷ませば」と袖で額を拭った。…もう咳はしていない。それでいいはずが、少しだけ恐ろしくなる。飲んですぐに効く強い効力のある薬。そんなものをずっと服用し続けている彼の身体がどんな状態になっているのか、想像すると怖くなる。
 病の症状は抑えられ、目で見ている分、彼が咳をしない分、薬を服用し続けることが彼にとって楽なことなのだ、よいことなのだと思いがちになる。
 だけど実際、症状は抑えられるだけであり、病は現在も徐々にの身体を侵しているのだ。
「何?」
 じっと見つめていたようで、首を捻ったに顔を背けてそっぽを向く。
 不覚にも視界がじんわりとしていた。
 おかしいな。僕はこんな涙もろい奴だったろうか。
 いや、僕だって血と涙の通っている人間だったのだ。今頃そんなことを思うくらいだから、本当に、僕は、人間らしくない人間だったのだな。そして、今頃になってやっと、人間らしさを知ったんだ。

 こんなもの知らない方がきっと楽に生きられた。楽で、人生に退屈したまま、生き死にに頓着せずに自由に孤独に生きたろう。誰かを好きになることも愛することも知らなければ、何も知らないまま生きて、何も知らないまま死ねたのだ。
 僕から退屈と自由を奪った人は、僕に好きと愛を与えて、世界の色を教えた。
 たとえば、誰かと食べる食事が少しだけおいしくなること。たとえば、誰かと一緒のベッドの夜が、狭くてもあたたかく、寝心地がよくなること。たとえば、立地条件と広いだけが取り柄だった家に、自分以外の誰かが生活することで、家にぬくもりを与え、親しみを与えること。彼が教えてくれたことは教科書には書いていないことばかりで、学ぶべきものなど疾うの昔に終えた気でいた僕は、彼がやんわりと教えてくれたこと達にひどく驚いたものだ。
 当たり前のものが自分に欠けていることは知っていた。ただ、それがこんなにも日常に溢れていて、胸が熱くなるくらいあたたかいものであるということを知らなかった。
 知らないままでいた方がきっと楽で、淡白に、今までどおりに生きられて、それは退屈で仕方のない、モノクロの、色のないままの、魅力もない世界で。
 たとえ病に侵されていようと、世界はきれいだと笑った君が僕の手を握る。彼に握られた手を焦点にしてぼやけていた視界がはっきりして、色を宿し、僕の世界は風が吹き抜けると同時に全てが光のもとに眩く輝いて。あんまりにも眩しいものだから。色が溢れているから。君の顔がぼやけて、よく、見えないよ。

「アラウディ」
「、」
 ぽふ、と軽い音と一緒に抱き締められて、彼の接近に気付けなかった自分を呪った。
 あまりにも彼という存在、その細胞一つ一つを受け入れている自分を唇の端で嘲笑う。ざまあない、と。
 人を好きになるつもりなんてなかった。彼を好きになるつもりもなかった。無法者を追う警察官として初めて顔を合わせたときだって特に何も思わなかった。
 貴族の女に擁護されて捕まえても釈放される彼を懲りずに捕まえに行く、また釈放される、また捕まえに行く。釈放される。その繰り返しで、いつの時点で歯車が狂ったのかもわからない。
 この僕が、誰かを愛することなんて、ない。そう思っていたのに。
 ぼんやりと彼が着ている青いシャツを眺める。「やかん…」「もう止めた。今抽出中」ああ、そんなことも気付かなかったのか。僕は大丈夫なのかな。これで仕事で失敗でもしたら色ボケだってに笑われても仕方がないな。
 何度か頭を撫でられて、僕は子供か、と呆れつつ、されるがままでいる自分に一つ吐息する。
 それでもこの身体は彼を拒絶しないのだからどうしようもない。
「アップルパイ駄目だった?」
「別に…」
「そー? 寝起きのせい? ぼやってしてる」
「……寝起きのせい」
「そ」
 じゃあいいけど、と言った彼に促されて身体を離す。涙は堪えて押し込んだ。「ほら、席着いて。あとは俺が用意する」浅く頷いて椅子の背もたれに手をかけて、紅茶のポットを揺らすを眺めた。
 …僕はもう、この家に彼の姿のない生活など、想像できそうにない。
「ねぇ」
「うん?」
 夕方になって、夕刊が届いた。さっそく拾ってきたがソファに腰かけて目を通し始める。
 新聞なんてざっとしか見ない僕に比べて、はなるべく目を通すようにしている。あまりに世情に疎いと店の人との付き合いができないから、が理由らしい。
 その手からばさりと新聞を取り上げると視線が追いかけて、それからその目が僕のことを見た。何、と首を傾げる姿はいつもどおりだ。薬で身体が安定している。
にとって僕はきれいなんだろ」
「そうだな。きれいだよ、すごく」
「つまり魅力的ってこと?」
「そうなる、かな。何、急に」
 お前こういうこと言うの嫌がるよな? と首を捻る姿に細く吐息する。ばさ、と新聞をソファに落として普段なら口にしない言葉を紡ぐ。「僕のこと好きなんでしょう?」「うん、好きだよ」「愛してる?」「うん、まぁ。…え、何、ちょっと何々」パチンと展開したナイフでピッと青いシャツを一閃すると、呆気なく布地がずれて肌色が覗いた。ちゃんと計算したからナイフは生地を裂くだけで彼の肌を傷つけてはいない。うん、腕が落ちているわけじゃないみたいだ。よかった。
 呆気に取られた顔をしているが隙だらけだったから、肌色に誘われるまま普段は隠れて見えない胸に顔を寄せて肌を吸った。ナイフを投げ捨てるとカシャンと軽い音が響く。
 特に何味とも言いがたい。強いて言うなら、今日はアップルパイ作りをしていたから甘い香りと味が肌にも染みついているような気がする。りんごとブランデーとシナモン。
 がし、と肩を掴まれたけどその腕を掴み返して剥がし取り、ソファに座ってる彼にのしかかるように体重をかけながら肌色を舐める。やっぱり、アップルパイの味がする。
「ま、待った、待ったアラウディ」
「嫌だ」
「ちょっと待て待て、頼むから待って。お前何してんの、盛ってんの?」
「僕が盛ったらいけないの。君と同じ男なんだけど」
 おいしいかおいしくないかと言われたら、おいしい、になるのかな。誰の肌も舐めてこなかったから比較しようがない。
 浮き出てる鎖骨をかじって骨の出っ張りを舌で確かめていると、ごちんと頭に顎をぶつけられて視界がぶれた。地味に痛い。
「おま、聞きなさい。抱かないって言っただろ」
 …ここまできてまだそんなことを言うのか。僕のこと好きなくせに、愛してるくせに、抱かないって言い張るのか。
 なんだか途端に悲しくなってきて、甘い、と思った肌に噛みついた。「いっ」と声を漏らす彼に遠慮せず噛みついて、僕の痛みを知るといい、とぎりぎり噛み締めてから顔を離す。しっかり歯型がついたどころか肌には血が滲んでいた。
 今度は血色を舐めたくなって再び彼の肌に顔を埋めて舌で鉄錆の味を拭う。
 噛みやすい首筋にしっかりと浮かんだ痕で少しだけ気分がよくなった。
 は、僕のものだ。
「今まで、女とさんざんセックスしてきたくせに、僕とは一度もしないっていうの?」
 吐き出した言葉は震えていた。
 は僕の所有物だという印をつけても足りない。全然足りない。
「理由も言ったろ。万が一でも、億が一でも、お前に病気が移る可能性を消したいんだって」
「僕はそれでもいいって言った」
「俺が駄目なんだって言った」
「……一回くらい…僕だって君が欲しいのに……」
 がぶ、と鎖骨に噛みつく。ごりっと硬いものを噛んだ感触が顎まで響いた。痛みを押し殺した吐息が耳に触れても遠慮しなかった。
 やっぱり譲る気はないんだ。
 君のその意地のような誓いが、悲しいような、寂しいような、悔しいような、苛立たしいような、あるいはその全てを含んで、胸が苦しかった。
 彼を病と性欲の狭間に落とし込んで最後には泣くなんて、僕はこんな卑怯な人間だったろうかと自分を疑う。
 泣きながら噛みついた。出会った頃より細くなった腕にも、プツプツとした湿疹のある胸にも、薄くなってきた腹部にも、細くなったなと思う背中にも全部噛みついた。
 最初こそアラウディと止める声があったけど、途中からはもう何も言わないで僕の暴力的な愛の印を受け入れていた。
 肩甲骨に噛みついて、体重をかけて噛みついて、血が滲み出すまでずっと噛みついて、噛んだまま泣いていた。
 が何より気遣うのが僕だから、彼は折れないのだ。自分のためだけの誓いならとっくに心が折れて僕に手を出している。僕を抱かない、その誓いが折れないのは、それが自分のためではなく僕のためで、彼の言うように、万が一、億が一にも健康体の僕を害さないための、越えられない壁なのだ。
 ぽろぽろとこぼれる涙がの背中に落ちて筋を残して肌を伝っていく。
 抱いてくれればいいのに。抱けばいいのに。僕は抱かれたいのに、それを貫くこともできない。が僕を想ってくれているのと同じくらい、僕もを想っているから。
 口の中はすっかり血の味に染まっていた。ブランデーの酒っぽい下味とくどいくらいのシナモンで甘かったアップルパイの味をもう忘れている。
 ぺろりと舌で唇を舐めて、彼の血で自分の唇を飾る。
「僕のこと好き?」
「好きだよ」
 一瞬の躊躇いもなく言葉を返す彼の上から退いて、ソファに倒されたままの彼の顔を両手で挟んでキスをした。やっぱり血の味がした。触れるだけのキスで少しだけ顔を離して額を合わせると、茶色の瞳と目が合う。至近距離で見つめ合っても逸らさない。逸らした方が負けだ。
「痛い?」
「すっげ痛い」
「抱いてくれたらもうしない」
「それはできません。だから、もっと痛くしていいよ」
 諦めたように笑う彼の唇に噛みついた。
 そうか。だったらもっと痛くしてあげよう。どうせ君は折れないのだろうけど、外から見てもそれと分かるくらいにその身体を僕で埋め尽くしてあげよう。それくらいしないと僕の気が済まない。
 翌日、顔の下まできっちりとタートルネックで肌を覆い、鼻まで隠す大きなマスク着用したが痛そうに首やら背中やらをさすったりしつつボンゴレ本部の廊下を歩いていた。密かにその様子を観察してあとをつけていた僕は、彼がたまたま行き会ったGに声をかけて会話を交わす様子を視界に入れて、自然と眉間に皺が寄る。
 話している内容なんてどうせ小説のことに決まっている。それか、なんでマスクなんかしてるんだとかそんなところか。
 つかつか歩いて行ってのタートルネックの襟を掴んで引き下げる。「あっ、こら」と僕の手を掴まえて剥がす彼。覗いた白い包帯の色と突然現れた僕の行動にGがぎょっとした顔をしている。
「なんだそりゃ。怪我か」
「あ、いや、うんまぁ大丈夫」
 ぱっと手を離された。その手は白い手袋で覆われている。なぜなら、指にも手の甲にも掌にも僕の噛み痕がばっちり残っているからだ。
 さっさと歩き出した僕に、なんだったんだと首を捻っているGと、あははと誤魔化した笑いを浮かべている
 僕のものだという印があちこちについた肌。僕だけが知っているそのことへの優越感。
 僕を抱かない君が悪い。これでも妥協案なんだ。君の願いを壊さず僕をある程度満たせるラインの所有印。
 ぺろり、と唇を舐めると、彼の血の味と、アップルパイの味がした。