『術後の経過、異常なし。むしろ極めて良好。 ただし記憶の一部に欠落が見られる。日常生活に支障をきたすレベルではないものの要観察』 それが現状の自分を簡潔に述べた書類の一言だった。 自身の誕生日であった5月5日、僕はトラックに撥ねられたらしい。そのときの前後の記憶が曖昧なので、どうしてトラックなんかに撥ねられたのかは謎のままだけど、自分が病室の白いベッドに横たわっているという現実が、ギプスで固められた片足が、僕は事故にあったのだという事実を告げる。 (記憶の一部に欠落…) 紙片をベッドの上に落とすと、開けっ放しの窓からの風にさらわれて白い部屋の中を舞っていった。拾う気などないので放置して、紙片を手放した自分の手を観察する。 小指から順番にたたんでいけばこの手はきちんと拳を作る。グーチョキパーも問題ない。足も同じだ。リハビリにはまだ早いとギプスで固められたままで鬱陶しいことこの上ないけど、感覚はある。指の先まできちんと動く。身体は五体満足だ。痛みが残るとはいえ我慢のできない程度ではない。あと一週間も養生すればベッドを離れることができるだろう。 意識もはっきりしている。何も問題ない。自分自身ではそう思う。 けれど、僕の記憶には欠落があるらしい。 普段なら気にならないし、気にもかけない。いや、正確には、僕が忘れてしまったのだというあいつが病室を訪れるまでは、その存在を考えなければ、何も気にならない。 。僕の記憶からその存在の一切が削除された男は、ぱっとしない奴だ。どこにでもいそうな茶髪の優男。ありふれた仕事に就き、ありふれた身の固め方で最近になって伴侶を得た。 頼んでもいないのに草壁が用意したに関する書類一式に目を通してもやはり変わらない。思い出せるようなことは何もない。僕はこの男を知らない。周囲に言わせれば、忘れている。 …思い出せることは何もないけれど。どこにでも売ってそうなスーツを着て履歴書の写真の中に収まっている茶髪の顔は、僕の中で苛立ちを募らせる。 何か、気に入らないのだ。それが何かは分からないけれど、僕が彼に抱くこの苛立ちが、僕が彼を知っている証拠なのだと医師は言う。曰く、脳がストレスを感じるほどに彼という存在に対して情報処理を行なっているのではないか、とか。 (馬鹿馬鹿しい) クリップでまとめられた書類をテーブルに放り投げた。写真だけが器用にクリップから外れてひらりと舞って床に滑り落ちる。 写真。どこにでもいそうな茶髪の男が一人写っている、その写真を睨みつける。 僕は、この男が気に入らない。それが記憶の欠落から来るのかどうかなんて知らないしどうでもいい。気に入らない、それが、僕の現実だ。 誕生日プレゼントとして置いていかれた細長い箱は、ベッドサイドのテーブルに放置したまま手もつけていない。 いっそ捨ててしまおうかと手を伸ばして、触れる前に、触れたくないという気持ちが働いた。手を引っ込めて包装紙の箱を睨みつけてもゴミ箱に落ちてくれるわけもなく、次に草壁が来たら処分するよう言おうと決めて枕に顔を埋めた。 書類を斜め読みしただけでこれか。頭が少し痛い。 「。」 いくら頭の中を引っくり返しても見つからない。何も思い出せない。僕の記憶は彼を忘れることを選んだ。 (でも、それは、一体どうして……) 「こんばんわー…雲雀?」 夜。病院の外来も入院患者の見舞いの受けつけも終わった時間帯にがやって来た。僕は病室の入り口に立つスーツの彼に一瞥だけくれてやって、手元の書類に目を戻す。入院していようが仕事はたまる一方だしと少しでも消化しようと始めたことだ。ただベッドで横になっているのも暇だし。 彼という存在を認識した瞬間から生じるこの苛立ち。彼のことを考えただけでも苛々するのに、本人を目の前にしたら、もっと苛立つ。咬み殺したいのとはまた違う種類の苛立ちだ。とにかく苛々する。その苛立ちとはまた別に軽い頭痛まで感じることがあるのだからたまったもんじゃない。 僕を窺うような遠慮がちな視線とか。ドアを開けて一歩入ったところからこっちには来ようとしないその気遣いとか。最初に病室で目を開けたとき、君は誰かと問うたときの、あの顔とか。 ああ、苛々する。 「何か用なの」 苛立ちは声にまで正確に出ていた。乱暴な筆跡で書類にサインして次の一枚に移る。はそんな僕を眺めて「いや、元気かなって確認。じゃあもー帰るな。遅くにごめん」ぼやいたと思ったらもうスライド式の扉を開けていた。その背中に口を開きかけて、つぐむ。かけるような言葉なんてない。 けれど、その背中を見ているだけで、僕の頭のどこかがツキツキと痛む。医師の言葉を借りるなら、脳が彼に関しての膨大な情報処理を行なっているから。それがストレスになって苛立ちと痛みを感じさせる。 だから。出て行ってくれ。もう来ないでくれ。その方が僕は頭も痛くないし苛々しないですむ。それがお互いのためだ。 (もう、) 「もう」 「え?」 「もう来ないで」 扉が閉じる直前、溜息ぐらいの小さな声でそうこぼした僕を振り返った。僕と彼とを一枚の扉が断絶し、それきり、音はなくなる。 少しして「分かった」と扉越しに声がして、革靴の足音が遠くなっていく。 ほどなくして僕の頭痛も苛立ちも収まりを見せ、書類にサインを続ける作業はスムーズに進んだ。 たとえ、僕の記憶が彼に関しての一切を忘却したのだとしても。構わない。彼に関わらなければいい、それだけの話だ。それだけでこの頭痛も苛立ちもなくなる、簡単な話。 記憶なんて何かの拍子に自然に戻るものであるとも思うし。医師もこの状態に静観を選んだのだから、僕もそれに倣おう。 |