雲雀が無事に退院したという報告を草壁さんからの電話で聞いた俺は、「そりゃよかった」とぼやきつつ手元の書類をめくった。昼休みだろうと午後からの予定を確認しないとならない仕事の詰みぐあいとこの忙しさ。平社員って辛い。 「でも、俺のことは思い出せないままなんですよね?」 確認で訊ねると、『仰るとおりで…』と苦い声で肯定の言葉が返ってきた。 ぱらぱらめくっていた書類を確認し終え、机の隅に片付け、ようやく昼飯を食べる段階まできた。 お嫁さんお手製弁当に片手を合わせる。本日もありがたくいただきます、と手作り弁当に感謝しつつ弁当箱を広げ、「まぁ、いいんじゃないですか。俺のことは忘れてるみたいだけど、他のことは大丈夫なんでしょう? 日常生活とかも支障ないって聞きました。怪我だって全快したわけだし、よしとしましょうよ」あ、俺ご飯食べますね、と断ってから口をもぐもぐさせ始めた俺に『いえ、しかし…以前の雲雀さんを知っている我々からすれば、なんといいますか。しっくりこないというか、妙だ、といいますか…』携帯からの躊躇いがちな音声に首を捻る。以前の、って、俺のことを憶えてる雲雀のことなんだろうけど……俺がいようといまいと雲雀の世界はそう変わらないと思うんだけどなぁ。 もう来るなと言われた日から、俺は雲雀に会っていない。 無事退院したあいつがまたスーツを着て仕事に繰り出す姿を、想像しかできないけど。元気なんだろう。前みたいに来るもの全部弾き返すって目で相手を睨んでるに違いない。もうトラックに撥ねられるなんてヘマもしないはずだ。 草壁さんがそれっきり黙ってしまうから、何となく俺も黙った。黙って昼食を食べて片付け、甘い卵焼きの味が残る口内に缶コーヒーを買いに席を立つ。 (甘いの、あんまり得意じゃないんだよな。今度から塩か醤油にしてくれって頼もうかな) そんなことを考えつつ喫煙所の隣にある自販機コーナーに行き、缶コーヒーのモーニングを選ぶ。今日はさっぱり浅いのが飲みたい。 「で、えーと、他に何かあります? そろそろ携帯持つのに疲れてきたんですが」 ピ、とボタンを押して缶コーヒーを購入。さて、あとはこれをちびちび片付けつつぐだっと昼休みを過ごして、また仕事だな。 『さん』 「はい」 『私の口から告げることになってしまうのですが。どうしてもお伝えしておきたいことが』 「? どうぞ」 『雲雀さんは…』 そこで唐突に言葉が途切れた。ん? と首を捻って待っていると、通話も途切れた。 通話終了の画面を眺めて、まぁいいか、とポケットに携帯を突っ込む。深くは考えない。雲雀が何って言おうとしたのか知らないけど、必要だと思ったらまた電話してくるでしょう。 …雲雀といえば。誕生日プレゼントのネクタイ、どうしたかな。今のあいつにとって俺は見ず知らずの男になるわけだし、捨てられたかな。かもなぁ。まぁ、それもしょうがない、か。 いつもどおりに出社、仕事に取りかかったその日、なぜか上に呼び出しを受けた。 営業で何かヘマしたかなと内心ビクつきながら会議室に参上すれば、重苦しい沈黙に出迎えられて、覚悟した。俺は気付かないうちに何かとんでもない失敗をしたに違いない。こんなに上役が揃ってる会議室に一社員でしかない俺が呼ばれたんだ、きっととんでもない失敗を。ああ、俺の馬鹿。せっかく社員の席をもらった仕事だったのに。 「」 「はい」 ぴっと背筋を伸ばして返事をする。普段なら顔を見ることすらないこの会社の取締役がいて、俺の背中は汗をかきっぱなしだ。年齢に似合う皺を刻んだ顔が俺のしでかした失敗がどれだけ深刻かを物語っている。 「非常に由々しき事態だ」 「はい」 「このままでは会社の存続にも関わる」 重い言葉にズドンと胃が落ちた、気がするくらいに重くなった。 気付かないうちにそんなでかい失敗をしていた自分を恥じて呪って恨んだ。そんな俺を尻目に上役達がひそひそと言葉を交わす。「まさかうちの幹部がボンゴレに手を出すとは…」「それはまだしも。狡猾なことで有名な六道骸の手玉に取られたことの方が…」「世間体的にもこのままではまずかろう」ひそひそ交わされる言葉をよく聞いてみて、首を捻りたくなったのを堪えた。 ボンゴレ? ボンゴレって雲雀がいる組織の名前だろ。六道骸って名前に聞き覚えはないけど、雲雀に訊けば知ってるかもしれない。 で。幹部が何か失敗をして喧嘩ごとで有名なボンゴレに目をつけられた? 的な話は理解したけど。そこで俺が呼ばれる意味が分からん。と、顔には出さず突っ立ってひそひそ会議の行方を見守っていると、取締役が咳払いをしたことでしーんと場が静まり返った。さすが取締役。 「簡単に言うとだ。ボンゴレ財団に借金を作ってしまったんだ」 「そうなんですか…」 簡単に噛み砕いた取締役になるほどと納得しかけ、遅れて驚いた。 ボンゴレという名前から分かるとおり海外発祥で日本に参入した組織で、雲雀を始め、中は結構物騒な人の集まりだと聞く。そんなところに借金。それはつまり、日本で言うヤの字の人達に借金したも同じ。 ここまで来て、俺は自分がこの場所にいるということに今までにない危機感を抱いた。 冷や汗はマックスレベルになりつつある。シャツがじっとり冷たくて、気持ち悪い。 「君はボンゴレ財団の幹部に顔見知りがいるそうだね」 「…はい。昔馴染みという程度ですが」 「…君を売るような真似をして悪いが、明日から君はボンゴレ財団にて行動してくれ。無期限にだ」 「………、」 言葉が出てこなかった。 俺に。会社を辞めて、担保代わりにボンゴレに行けと。顔見知りがいるならそいつを頼って中でもどうにかやっていけと、上は俺のことを切り離したのだ。 すでに決定事項。覆ることはない。重苦しい空気はそう物語っている。 仮に俺がこの話を蹴ったとしよう。嫌ですと言ったとしよう。それはそれで俺に処分が下されるだろう。どちらにしてもあのスチール机に戻って仕事をすることはもうないのだ。俺は幹部方の失敗の尻拭いをする形で仕事を辞めさせられる。 帰り道。沈んだ気持ちで夜の公園に寄り道した。まっすぐ家に帰ってお嫁さんに今日のことを打ち明けられるほど気持ちの整理がついておらず、何事もなかったかのように振る舞う自信もなく、少し頭を冷やす時間が必要だと思ったからだ。 それでもこれだけは先にやっておかねばなるまい、と携帯を取り出し、まずは草壁さんに電話。雲雀の携帯番号を教えてもらい、礼を言って切って、雲雀の番号にプッシュする。 『誰?』 繋がったと思ったら開口一番が不機嫌そうな声でのその一言だ。さすが雲雀、と口角を持ち上げて笑ってからはぁと吐息をこぼす。「俺だよ。。分かる?」『…何か用なの』「うん、用事なんだ。わりと深刻なんだ。聞いてほしい」頼み込む俺に、ぎ、とソファか何かを軋ませた音がして、『聞いててあげるから、言ってみれば』と機嫌の悪そうな声が続く。 しょうがないから聞いてあげる、だから早く言え。言外にそう込められているのは想像できた。 俺のことを忘れた雲雀はずっとこんなふうだ。以前より当たりがキツいというか。まぁ、雲雀は結構誰にでもこんなふうじゃないのって思えばそう気にならないことだけど。 ありがとう、とお礼を言ってから、俺は今日のことを雲雀に話して聞かせた。 コンクリートジャングルの中にある小さな公園からでは、人口の光の強さに負けた星の輝きは見えず、空はどことなく曇った黒い色をしている。位置的な関係か、月も見えない。そんな空を一人で見上げていると、真っ黒な海の中に突き落とされたような気がしてきて、手から力が抜けた。砂の地面の上に携帯が落ちても空から視線を剥がせなかった。 あれは。絶望の色だ。 『?』 声が。聞こえるのに。あれは雲雀の髪の色だと思えばいいのに、黒い空から視線が逸らせない。 俺の明日もあんなふうに真っ黒なんだろうか。 とりあえず雲雀に事情を説明してみたけど、俺のことになると苛立ってしまうあいつのことだ。話は聞いてあげたってそれだけで終了させる可能性大だ。あいつは昔から面倒くさいことは嫌う質だった。今回のこれは間違いなく面倒くさいことだ。怪我が治って退院したばっかで仕事だって積んでるだろうし、あいつにとって俺はお荷物でしかない。 「雲雀…」 けど、他に、頼れる人がいない。 …草壁さん。あの人にもきちんと説明すれば、何かしらフォローしてくれるだろうか。あの人いい人だからな、見た目以上に。ああ、そうだな。雲雀以外にツテがないってわけじゃないか。じゃあ、まだ、灰色の海くらいには。 不透明なそこを、俺は泳げるのだろうか。 地面に転がったままの携帯をようやく拾い上げると、通話が切れていた。うんともすんとも言わない俺に呆れて切ったのかもしれない。 ……一番の問題はさ。お嫁さんにこのことをなんて言うか、だろ。 はっきり言って会社はクビになったわけだ。ボンゴレで俺がどんな処遇を受けるかなんて分からない。少ないながらも退職金その他をもらったから、しばらくはそれで生活できるとして…そこから先はどうしよう。ボンゴレがどんなところか分からないから予想も対策も立てようがない。 素直に言うのか? 会社クビになっちゃった、って。彼女なら驚いたあとに笑って慰めてくれるだろうけど、はっきり言って、仕事をクビになった将来性のない男のそばにい続ける女は少ないと思う。俺達の間にあるのは短い期間の絆だけ。それは、今回のことで簡単にちぎれてしまう脆い糸だ。 もともと俺達の間に赤い糸なんて上品な運命は存在しないのだから。 (どうしよう。家、戻りたくないな) 公園のベンチでひたすら時間を潰す。心配するだろうからとメールだけは書いて、『今日は急な飲み会になっちゃったんだ。ごめん、遅くなる』と嘘八百の文面を送信。 スーツのポケットに携帯を入れ、うなだれて、風になぶられるまま髪をさらわせる。 ……なんか、疲れちゃったな。 俺、なんかしたかな。わりと真面目に頑張ってきた人生だったはずなんだけど。雲雀は事故にあって俺のこと忘れるし、会社はクビになるし。最近さんざんだな。かわいいお嫁さんはいるけど。ここが踏ん張りどきなのかもしれないけど。俺、疲れちゃったよ。 疲れた。 スーツのネクタイを外す。そのネクタイの両端を持って眺める。これで首は吊れるだろうか、なんて。 「」 「、」 油断した俺の手から風にさらわれてネクタイが飛んだ。それを掴んだのが俺と同じくスーツに包まれた雲雀の手だった。やっぱり機嫌悪そうに眉間に皺を刻んでる。それで俺の顔を見るとさらに機嫌が悪そうに口をへの字に歪めた。 「何泣いてるの。馬鹿じゃない」 「…うっせ」 ぷいと顔を背けてシャツの袖を目元に押しつける。「なんでいるんだよ」「携帯。逆探知した」しれっとそんなことを言う辺りがもうどうしようもなく雲雀だ。 けど、あいつは俺のことを何も憶えてない。 砂を踏みつけて歩いてきた雲雀がネクタイを突き出してくる。受け取らないでいると、苛立ったように舌打ちされ、強制的に握らされた。 久しぶりにその肌に触れた。一瞬でも。相変わらずひんやりしてる掌だ。 「ボンゴレに来るんだろ。だったら僕の下に置いてあげるよ。マシな扱いは保証する。だから、もう泣くな」 不機嫌そうに降ってきた言葉。のろりと顔を上げると雲雀がいて、俺のことを見下ろしていた。 短くなった黒い髪。切れ長な灰色の瞳。傷跡の消えたきれいな顔立ち。でも、機嫌が悪いことを表している眉間に寄った皺とか、ちょっと曲がった口元とかがあって。 「ほんとに…?」 「嘘なんてくだらない」 吐き捨てた雲雀が無造作に伸ばした手で俺の目をこすった。「ちょ、いた、」「いい加減泣き止め鬱陶しい」「分かった、ごめんて、ほんと痛いっ」ぐいぐい遠慮なくこすってくる手から何とか逃げ、ネクタイをポケットに突っ込み、鞄を手に立ち上がる。 ああ、大丈夫。俺はまだ自分の足で立てるみたいだ。 ふんと吐息した雲雀がさっさと歩き始めた。その背中を見送っていると、公園の出口で足を止めた雲雀がじろりと俺を睨む。「何してるの」「え? あ、」来いってことか、と慌てて追いつく。顎で路肩に停めてある黒い車を示した雲雀が「送ってあげるよ。明日も草壁を行かせる。いいね」「…ありがとう」本当に俺のことを考えてくれているらしい雲雀に不覚にもじわっときたけど耐えた。泣いたらまた乱暴に拭われるに決まってる。 |