どうやらこの世界は、僕と彼を無関係なまま終わらせる気はないようだ。
 が会社の尻拭いで担保としてボンゴレに放り込まれることになり、彼が先行きが不安だとみっともなく泣くものだから、仕方がないので僕が彼を引き取って手元に置くことにした。
 おかげで毎日頭痛が絶えない。
 彼が僕のそばにいるからだ。その存在がすぐそばにある。それについての苛立ちは嫌でも慣れたけど、頭が痛いのだけは慣れない。
 痛みとは身体からの警告であるという。それなら僕のこの頭痛も、何かしらの警告音ということになるのか。
「これが六道から、こっちが獄寺からで、これが今日中の急ぎの書類」
 書机に並べられる書類の束に視線を投げ、はぁ、と息を吐く。どう見ても嫌がらせのレベルで倍の量がある六道からの書類はに投げた。「判子押すだけでいい。それで突き返されたら僕が見る」「分かった」頷いたが応接用のソファに座り込んでボンゴレの雲印の印を持つ。
 彼がもう少し仕事ができるようになったら、草壁を現場に回して、を補佐の席に座らせようと思っている。今はまだ使い物にならないからそこで勉強させてる最中だ。
 仕方なく今日中に提出の書類を取り上げ、目を通し始める。
 ……常に静かな頭痛がしている。
 僕は、まだ、彼のことを何一つ思い出せない。
 こめかみを指で刺激する。気休め程度にしかならない。痛みはなくならない。
 医師の意見は入院していた頃と同じだ。僕が彼のことを忘れたことには意味があるのだと言う。
 僕は彼を忘れないといられなかったとでもいうのか。どうして。たかだか一般人だ。押しも弱い。喧嘩なんてさせたらすぐ一発食らって気絶しそうだ。そんな弱い存在を僕が忘れようと心がける必要がどこにある。
「…。コーヒー」
「了解」
 僕の命令にふわっと席を立った彼が部屋を出て行く。その間に痛む頭に手をやって深呼吸する。「雲雀さん」と気遣わしげな声をかけてくる草壁はひと睨みで黙らせた。
 ああ、痛いよ。痛いけど、痛いと言ったところで何が変わるわけでもない。何かと理由をつけてを追い出して頭痛をやわらげさせるけど、彼が視界に戻ってくれば、また痛み出す。ツキツキとフォークの先で頭の中をつつかれる。
 こうなると分かっていても、僕は彼を手元に置いた。
 あの日。情けない声で情けない現状を説明するが、雲雀、と泣きそうな声で僕に縋るから。その手を取ってやらないといけない気がして。そうしないとならない気がして。そうしないと、後悔、する気がして。
 衝動的にの携帯を逆探知して現在位置を特定して、走った。
 僕は彼のことを知らない。忘れてしまった。彼に対して感じるのはその存在を僕の中から消した脳からのストレス、苛立ちで、頭痛で、彼を助けたところで僕にプラスになることなんて一つもない。
 それでも、情けない顔のを放っておくことができなかった。
「はい」
 戻ってきたにマグカップを差し出され、黒い液体の入ったカップを受け取る。そのとき少しだけ手が触れ合った。ピリッとした痛みが全身に走る。静電気を少し強くしたような痛み。ビリっと静電気の走ったドアノブから反射で手を離したくなるあの感覚が彼に対して働く、それを自分の中に押し込む。
 僕はのことを忘れた。忘れてしまった。それは過去の僕の意思だった。
 どうぞ、と草壁にマグカップを差し出すを眺め、痛む頭に手を添える。
 ……僕は、彼のことを、思い出さなければならない。
 いい加減この頭痛とさよならしたい。抑えている苛立ちだって、感じないに越したことはない。だから、僕は、彼のことを、思い出さないと。
 次の日。仕事は全て草壁に押しつけ、を連れてボンゴレのビルを出た。
 休日の昼時だけあって外には群れている人間ばかりだ。鬱陶しい。咬み殺したい。
「雲雀? 仕事は?」
 困惑顔のに隣から声をかけられ、顔を向けて、風にさらわれた茶髪を引っぱってみた。「痛い、何」と僕の手を剥がす手を反射で払ってからはっとする。…まただ。また、拒絶してる。抑え込めなかった。そんな自分に対しても苛立ちを覚えながら言う。「僕は君を思い出したい」と。
 ぽかんとした顔のを無視して僕は自分の都合を語る。
「いつまでも君に苛々したままは嫌なんだ。頭が痛いのも。君のことを忘れてるせいでこうなってるなら、思い出せば、治るかもしれない。今日はそれに付き合ってもらう」
「雲雀、頭痛がするのか。だからしょっちゅう頭に手やってた…?」
 しまった、口が滑っていた。言わなくていいことを言ってしまった。それでが遠慮がちになるのが鬱陶しいから黙っていたのに。
 舌打ちして歩き出した僕にが慌てて追いついてくる。「いいのか? 思い出せたら治るかもしれないけど、そこにいくまでにもっと頭痛くなるかも」やっぱりな。そんなふうに気遣って遠慮してくると分かっていた。「うるさい。君は僕との思い出でも辿ってよ」と余計な気遣いを一刀両断し、思い出、なんて似合わない言葉を口にした自分を唇の端で笑う。
 この僕が他人と思い出を共有する? そんな自分がいたら見てみたいものだけど。少なくとも、自分で思い返してみる限り、そんなものはどこにも見当たらない。
 思い出なんて似合いもしないものを、この僕が、と共有しているわけが。
「あーっと…じゃあ、こっちじゃない。電車に乗ろう」
 足を止めて駅の方向を指したに遅れて足を止める。この休日に電車になんて乗りたくない。「車じゃ行けないの」「行けるけど、俺が運転していいの? わりとペーパードライバーだよ」顔を顰めた僕に彼は笑って駅へと足を向けた。「場所は。僕が運転する」と言うと「運転中に頭痛に襲われたら?」と指摘された。それは、考えていなかった。確かにないとは言えないことだ。
「俺、もうお前に事故にあってほしくない」
 だから電車、と人混みの中に突っ込んでいく彼に、仕方なく、電車に乗って移動することになった。
(あと、気付け。僕が運転する車に一緒に乗ってたら自分だって事故にあうことになるんだ。そっちを大事だと思え)
 人で溢れかえる駅の改札を抜ける。新幹線以外で駅なんて滅多に利用しないから、ホームに立ったことなんてかなり久しぶりだ。
「俺とお前が出会ったのは、中学校だよ。並盛中学。お前はその頃から喧嘩ばっかりで、力で並中を牛耳ってた」
 電車の中で、彼の口から僕らの出会いというやつを聞きながら、彼に対する苛立ちと周囲に対する苛立ちを律するのに意識が忙しい。彼は僕の気など知らずに喋り続ける。「それで、俺が一年だった頃、カツアゲにあってさ。そこを助けたのがお前。助けたっていうか、雲雀からしたら、偉そうな顔して後輩いびる先輩方に制裁した感じだったんだろうけど…おかげで俺は助かった」「ふぅん」ズキンと痛む頭に眉を顰める。思い当たることは自分の中に何もない。けど、頭痛がするってことは、あったはずの記憶を封じようと脳が回転しているからだ。思い出すな、と。

 どうして。どうして思い出しちゃいけないんだ。僕はどうして彼を忘れることを選んだ。
 こんなに懐かしそうに、楽しそうに僕の話をしてるのことを、どうして。

「それで、それが借りになったというか、おかげで風紀委員に入ることになっちゃってさ。パシリみたいにお前に使われて…雲雀? 大丈夫か?」
 ズキズキと痛む頭に手を添えずにいられない僕をが心配そうに覗き込んでくる、そのタイミングでガタンと大きく電車が揺れた。頭痛もあってふらついた僕の腕を掴んだ、その手を、払いそうになって堪える。
 なんでだ。どうして。
「雲雀? 頭そんなに痛いならもう、」
「うるさい」
 こぼれる涙を指で払う。「いいから、続けて」と唇を噛む僕に、は迷った末に中学の思い出話を続けた。
 それで連れて行かれたのはよく知っている母校だ。並盛中学。
 僕の名前を出せば休日だろうと出入りできたので、のあとを追って廊下を歩く。
「ここ、憶えて…ないんだっけ」
「3−C…この教室が何?」
「えっと」
 どこにでもある教室だ。今は生徒がいないから空っぽだったけど。
 借りてきたマスターキーで施錠を外し、カラカラと引き戸の扉を開く。を追って一歩踏み込んで、今までにないくらい頭が痛んだ。思わず唸って扉に肩をぶつけるくらいには。「雲雀っ?」と慌てた声に薄目を開く。痛い。すごく痛い。
 こんなに痛むということは。ここはそれだけ彼と僕に関係する、場所。
「ここが、なに」
「えっと、ここで俺達」
「…なに? ここが、なんなの」
 はっきり言わないの腕を掴む。掴んだ手からビリっとした電気が走る。彼を拒絶しようとしている手と痛みを制しながら一歩踏み出す。頭は余計痛くなる。
 誰もいない教室の風景が霞んで見える。
 どうしてだ。彼は呆れるくらい僕との時間を語るのに、僕の中にはその時間が一つもない。どこか深い場所にしまい込まれてしまった。どうして。どうして僕はそんなことをした。自分に痛みと不快感を植えつけてまで、どうしてそんなことをした。
 痛む頭で教壇に手をついた僕を気遣いながら、が言う。
「ここで、俺達、その。事故キスしちゃったなぁってそれだけなんだけど」
 事故キス、と阿呆みたいに彼の言葉を反芻した。
 瞬間、その言葉の意味を理解する前に、パンと頭の中で痛みが弾けて、断頭台で切断されたようにブツッと意識が飛んだ。