この病気の名前は

「キョーヤぁ、ご飯だよー」
 声に呼ばれて目を開けると、黒いシーツが見えた。ぼんやりしたまま身体を起こすと、少し久しぶりにも感じる自分の部屋だった。
 ああそうだ、僕は戻ってきたんだった。あの修行が僕を並盛から遠ざけるためのものだと知って、昨日は校舎が壊れてるのを見て怒り心頭で。それで、その場にいる全員を咬み殺そうと思っていたら彼が来て。僕を止めて。それで。
 それで。
(う…)
 口元を腕で覆う。忘れていたのに思い出してしまった。蒼い瞳に囚われた自分を思い出してしまった。
 キスをした。何度も何度もキスをした。唇の感覚が麻痺するくらいにキスをした。唾液が飲み下せずこぼすくらいにキスをした。
 顔が熱い。しまった、考えるんじゃなかった。
「キョーヤ?」
「っ、」
 がちゃと開けられた扉にばっと身構えて布団を抱くと、彼はきょとんとした顔をしていた。およそいつもどおりの顔だ。「ご飯冷めちゃうよ。今日は魚焼いたからおいで」「……」動かない僕に彼は首を傾げていたけど、やがて階下に戻っていった。
 詰めていた息をそっと吐き出す。
 ああ、心臓がうるさい。
 こんなんじゃ僕の心臓はそのうち破裂する。でもご飯を食べないと。彼のところへ行かないと。どのみち慣れる以外に道なんてないんだ。あのテント生活よりマシだと思うしかない。
 深呼吸してから部屋を出て居間に行く。彼は先に食べていた。僕と目が合うとにこりと笑って「おはよ」と言うからぼそぼそ「おはよう」と返して座布団に座り込んだ。箸を手にして焼き魚を見ると、さんまだった。グリルの使い方は教えなかったけどどうにかやったらしい。
 白いご飯と味噌汁と漬物とサラダと焼き魚。和食、健康そのもののメニュー。味も文句なし。
「今日は雨戦だって。スクアーロとヤマモトタケシって子の対戦」
「ふぅん」
「気になるからさ、俺見に行ってもいい?」
 その言葉にじろりと視線をやると、彼はにこにこしている。「ほんとは他の守護者戦だって見たかったんだけど、キョーヤ優先だったからね」にこにこと平気で恥ずかしいことを言う相手に「今は優先してくれてないの」と言うと彼はきょとんとした。「見に行っちゃ駄目?」と訊かれて考える。
 彼が僕以外の奴を見ている時間なんて、苛々するだけだ。
「キョーヤも一緒に行こうよ。ね?」
 考えている僕に彼はそう畳みかけてくる。
 結局僕が負けた。蒼い瞳に負けた。はぁと息を吐いて「仕方ないね」とぼやくと彼は笑う。「応援しようね」「僕は群れるのは嫌いだ」「ああ、そっか。じゃあ俺が応援しとくね」あくまでにこにこしている彼に「…あなたは僕を応援すればそれでいいのに」と呟いてからはっとする。何今の。懇願するような自分の声が自分で恥ずかしい。
 誤魔化すために味噌汁をすすってサラダをぱくぱく食べる。向かい側では彼が微笑んでいる。
 そんな顔で見ないでほしい。また甘えてしまいたくなるから。そんな優しい顔をしないでほしい。ううん、したっていいけど、それは僕にだけ向けられるものであってほしい。
 朝食を平らげて席を立つ。「夜には戻るから」と告げると彼が首を傾げた。「どこか行くの?」「風紀委員の仕事がある」「そっか。わかった、いってらっしゃい」ぱたぱた手を振る彼から顔を背けて自室に戻る。着替えて学ランを羽織り、風紀の腕章を見つめてから視線を外す。
 並盛以外のことは別段こだわりはないし、マフィアの話がどうとか言われてもあまりピンとこない。だけど彼がボンゴレという組織の人間であり、関わり続ければ、彼と一緒にいられるというのなら。それが嫌いな群れるという行為の延長であっても仕方ないかな、なんて、思ってしまう。
 二日三日空けていたら、目を通すべき帳簿や書類が机にかなり積まれていた。必要な報告を各自から聞き届けた頃にはお昼が過ぎていて、書類を仕上げて帳簿に目を通し終えた頃にはすっかり夜だった。
 適当なものを食べればよかったのに、僕の口は彼の作ったものを求めているようだ。呆れるくらい、僕は彼に溺れている。
 休憩のために机の上で手を組んで、そこに額を預けて目を閉じた。
 彼がいなければ、僕の心臓は静かだ。意識しなければわからない鼓動を繰り返すだけだ。でも彼がいると煩わしいくらいにどきどきする。痛いくらいに鼓動して、彼に伝わってしまうんじゃないかってくらいにどくどくとうるさくなる。
 彼がいると僕は落ち着かない。彼がいなければいないでどうしてるんだろうなんて気にするくせに、そばにいられても落ち着かない。ただそばにいるだけじゃ満足できないのだ。そのことに昨日気付いた。
 彼が僕を追いかけてきたことが嬉しかったし、抱き締められたことが嬉しかったし、キスしたことも嬉しかった。手を繋いだことも嬉しかった。心臓は騒がしかったけど、僕は満ち足りていた。
 今はこんなにも静かな身体なのに。静かな頭なのに。彼がいると落ち着かなくて、ざわざわして、彼に触れられると背筋がぞくぞくしてたまらなくなって。
 僕は病気だろうか。これは病気だろうか。こんなもの、僕は今まで知らなかった。
 と、数えるくらいしか呼んでいない彼の名前を呟く。
 僕は彼という海にどんどん溺れていく。
 それでも構わない、なんて、一時の気の迷いだ。誰かに束縛されたいなんて思ったことはない。僕は自由な浮雲だ。海は遠い存在だ。空の方がまだ近い。海のことはただ上から見下ろしているだけで、届きやしない。届くはずもない。
 ぱちと目を開ける。届くはずもないなんて考えたら急に不安になった。ここにはない蒼い瞳の持ち主を探して視線が彷徨う。
 雲でいたら届かないというのなら。触れることも叶わないというのなら。僕は、彼の海に沈んだまま、溺れて死にたい。
「キョーヤいる?」
「、」
 こん、とノックされた扉の向こうから声がした。望んでいた声が。渇いていると感じる喉で「入れば」と声を絞り出すとがらりと扉が開いて、ついさっきまで思っていた彼が現れる。手にしているビニール袋を揺らして「ご飯持ってきたよ。食べた?」「…食べてない」「食べなきゃ駄目だよ。大事な戦いまで何日もないんだから」そう言いながら彼が机に置いたお弁当箱に手を伸ばして、ぱかりと蓋を開ける。ほうれん草の胡麻和えとか鳥のからあげの入ってるお弁当をじっと見ていると、「あれ、おいしくなさそう?」と向かい側のソファで首を傾げる彼。
 箸を手にしてからあげをつまむ。食べてみる。あたたかくはなかったけど、さっくりとしていた。油もあまり気にならない。おいしい。
 おいしい、と思ったら途端にお腹が空いてきた。無言でお弁当を食す僕に、彼は口元を緩めて笑っている。
 そういう顔はずるい、と思う。僕はどうやってもそんなふうに笑うことは不可能だ。
「ごちそうさま」
「ん」
 お弁当箱を片付けた彼が時計を見て「時間来ちゃうね。行こうキョーヤ」と立ち上がる。
 他の誰かの戦いなんて僕は興味がなかったけど、彼が見たいって言う。なら付き合うしかない。付き合わないで苛々したり落ち着かなかったりするなら、見届けられる位置にいる。仕方がないから。
 校舎が原型を留めてない今回のフィールドが見下ろせる屋上に行く。破損は完全に直るって話だったけど本当だろうか。直らなかったら赤ん坊でも容赦しない。
 むすっとしている僕とは別に、彼は真剣に勝負に見入っているようだ。僕にはそれが面白くない。すごく面白くない。
 だけど、彼が隣に立って僕の手を握っているから。面白くないけど、苛々はしない。
「スクアーロはやっぱり強い…」
 でも、いちいち他の男の名前を呼んで強いだとかさすがだとかリアクションするのはやっぱりいただけない。一度や二度ならまだしも、「おー、あのタケシって子もやるんだね。スクアーロ相手にすごいや」だとか「剣もかっこいいなぁ…」だとか「あの傷大丈夫かな」だとか、僕には無関係のことを何度だって口にする。その度に我慢してる僕の気持ちも知ってほしい。
 ぶすっとしている僕に気付いたのか、彼が困ったように笑う。
「キョーヤももちろん強いよ」
「…ついでみたいに言わないでよ。イラつくから」
「ごめん。でもホントだよ」
 困った顔で僕の手を握る相手から顔を背ける。ああ早くこの戦い終わればいいのに、と思う。そうしたら彼の意識はまた僕に向くはずだから。そうじゃないと僕が、嫌だ。
 …なんだか自分が子供みたいだ。彼が僕を見ていないことが嫌だなんて。
 仕方なくスクリーンに視線をやる。壁に映し出されている映像には、密閉された内部の様子が映っている。
 確か、ここまでの勝負の結果は一勝三敗。これに負けたら僕まで回ってこずにリング争奪戦は終了だ。
 それは少し困る。強い相手と戦える機会を逃すというのもあるけど、何より。
 ちらりと視線だけ向けると、彼は熱心にスクリーンを見ていた。固唾を呑んで見守る、ってやつだ。
 山本武には勝ってもらわないと困る。そうしないと僕まで回ってこない。リング争奪戦が終わってしまったら、彼は、僕の前からいなくなるかもしれない。それはとても困る。まだ終わってしまっては困る。できるならずっと続いてもらわないと。このまま彼が僕の隣にいるように仕向けないと。
 並盛のことだったらなんでも思いどおりにできるけど、彼は違う。気をつけていないと、見失う。
「あ、」
 彼の声にスクリーンに視線を戻すと、勝敗が決まったところだった。
 ああ、よかった。どうやら勝ったらしい。こっち側が勝ったっていうのにどこか青い顔をしている彼に僕は少し呆れた。
「何、その顔」
「いや…。やっぱり向かないのかな、この仕事」
「は?」
「…なんでもないよ」
 困ったように笑う彼は何かを誤魔化した。むぅと眉根を寄せてスクリーンを見つめる顔に手を添えてぐりとこっちを向かせる。「勝手なこと言わないでくれる。あなたにはいてもらわないと困るでしょう」僕が、と小さく付け足してぱっと手を離した。きょとんとした顔がこっちを見ているけど無視してつかつか歩き出す。もう勝敗はついたんだから、いつまでもここにいる必要はない。
 かつ、と屋上の入口で立ち止まって振り返る。彼はまだスクリーンを見ている。

 呼ぶと、彼がこっちを向いた。後ろ髪を引かれるように何度かスクリーンを振り返っていたけど、諦めたような息を吐いて僕のところまで歩いてくる。どうやら彼は敗者の方が鮫に食べられたことを気にしているらしい。弱者が土に還るのは当然のことなのに。
 ふと思う。僕が万が一、億に一負けることがあったら。この人は僕だけで全てを満たして泣いてくれるのだろうか、と。
 思ってからくだらないなと斬り捨てる。僕が負けるはずがない。勝ってみせる。それでこの人が笑うなら、未来が続くのなら、勝ち取るまでだ。