馬鹿なことをするね。せっかく忘れられたのに 聞いたことのある声がして薄目を開けた。 …真っ暗だ。どこだここ。僕は直前まで何をしていたんだっけ。 記憶を辿ろうとして頭が痛むことに気がつく。それで思い出す。 この頭痛はによるものだ。 僕はさっきまでが知っている僕との思い出話を聞いて、並中に行って、それで。教室に。それで。今までの比でないくらいとても頭が痛くなって。それで? ズキズキ痛む頭に手を添える。 視界が真っ暗だ。真っ黒だ。 ここは、どこだ。 彼のことを忘れたのは、彼を知ったまま生きていくのが辛かったからだ 聞き覚えのある声に視線を巡らせたところで何も判別できない。自分の手さえ光がなければ見えない。完璧な暗闇。真っ暗だと思っている視界も視界であるのかすら怪しい。僕は目を開けたと思っているけど、案外まだ目を閉じたままで、これは瞼の裏の景色なのかもしれない。 いや、それより。この声。誰だっけ。よく知っている声なのに。 ならばいっそ忘れてしまえば楽に生きられるんじゃないかと、トラックにぶつかった衝撃を利用して、都合よく、彼のことだけ忘却した 正しくは封じただけで、思い出したいのなら、君の中にあるよ。ほら、その扉を開ければいい 扉、と言われて視線を彷徨わせると、何もなかった黒いだけの視界にぼんやりと何かが浮かび上がって見えた。扉だ。確かに遠くに扉があった。真っ暗だったところにポツンと小さく浮かぶ木製の扉、そのノブには大きな南京錠がぶら下がっていて、鎖でがんじがらめにされている。 あそこにしまってあるのか。のことが。でも、なんで。 耳鳴り。キーンと静かな音が頭の中を刺す。 扉。あれを開ければ、鎖から解き放てば、僕は彼のことを思い出せるのだろうか? せっかく忘れたのに…結局僕はまた彼に惹かれるわけだ ……ああ。これは夢だ。 僕が僕と対話しているなんて、夢でしかありえない。 惹かれる、という言葉を拾い上げた僕は笑った。足があるなら動け、と命じて、鎖で縛られている扉へと近づいていく。「惹かれる? 馬鹿なことを言う。僕はこの苛立ちと頭痛をなくしたいだけだ。それ以外に理由なんてない」吐き捨てながら扉を目前にして、その大きさに驚いた。ビルくらいの大きさがありそうな扉がジャラジャラと鎖の音を立てている。中から何かが外へ出ようと蠢いているようだ。 僕は彼に対する頭痛や苛立ちから解放されたい。それだけだ。そりゃあ、どうして僕が彼を忘れることにしたのか、理由が分かればもっとすっきりするだろうけど。それと惹かれるにはなんの関係も。 これは僕の意思だった そして、今の君の選択もまた、僕の意思だ 僕は僕のために彼を忘却した。けど、君は君のために、彼を封印した扉を開けるという …僕が、彼のことを忘れたのは。彼を知ったまま生きていくのが辛かったから 「なんで、辛いなんてなる。喧嘩もできない、僕を脅かすには力も能力も足りないありふれた男だ。彼を忘れないといられなかったって僕が分からない」 鍵、鍵ってどこだろう。相当大きな鍵のはずだと暗闇に視線を彷徨わせると、目の前に降ってきた。都合のいい夢だなと思いながら重みのない鍵を受け止め、ふわりと視界を上げて、大きな鍵穴の前に行って、鍵を挿し込もうとして、ガシャアンという大きな音が鼓膜を突き刺した。その騒音に顔を顰めて後退る。ガシャアン、と勢いよく鎖を鳴らしているのは、目の前の扉の、その中に押し込まれている、僕ととの記憶達だった。 ガシャアン、ガシャアン、ガシャアン、と耳を貫く音に、鎖を引きちぎろうと力任せに体当たりしているようなその音に、唐突に恐ろしくなった。 扉の向こう側から出してくれと叫ぶものがあまりに多く、大きいことに、今更気がついたのだ。 たとえば、そう、この扉一枚隔てた向こうには圧倒的な質量の海があって、鍵を外して開けたが最後、僕は記憶の波に呑まれて溺れる。 これを解放したら僕はどうなるのだろう、と背中が寒くなった気がして、自然と足が引いていた。 その間も目の前で鎖を引きちぎろうと鉄を軋ませる音がする。 。ここに僕とが閉じ込められている。こんな大きな場所に、恐竜でも閉じ込めたみたいに頑丈に封じられて、それでも封じ切れなくて、僕に頭痛や苛立ちをもたらした。 これを、解放して、いいんだろうか。 これを解放したら。僕は、どうなるんだ? なんで辛いなんて思ったのか、教えてあげようか ポツンと落ちてきた声に顔を上げると、僕がいた。鏡に映したようにそっくりの僕だ。ただし、髪を切る前の、少し長めの前髪をした自分。それが扉の上に腰かけて優しい手つきでガタガタと揺れる木目を撫でた。その手に撫でられたことで慰められでもしたのだろうか、鉄を軋ませる音が少し静かになる。 僕ならしない優しい顔をしている僕は、扉の向こうで喚いている僕との記憶に微笑みかけているように見えた。 ……そういえば。僕、なんで髪を短くしたんだっけ? 僕が、のことが好きだったからさ。だから耐えられなかった 彼の口から結婚するという言葉を聞いて、全てが破綻した。もともと脆い関係だと気付いていたけれど…僕はそのときまで自分の気持ちに気付けなかったし、どこかで、僕らの関係は変わらないなんて驕っていたんだ。馬鹿だったよ。は僕と違って平凡で、世間や世界という波に流されやすいって知っていたのに …彼を好きだと気付いて、どうしようもなく欲しくなって、それが素直に表現できなくて、彼の幸せを壊しちゃいけないって我慢して……自分なりにこの気持ちにけじめをつけようって、髪を切ったり、シャツの色を変えてみたりしたんだけどね。無意味だった 結局自分が壊れた。彼だけの幸せを願って生きていけるほどできた人間じゃなかったんだ。そばに、隣に、いたかったんだ。だから、それを奪った相手が許せなかった このままじゃ彼を不幸にしてしまう。僕の手で だから、荒療治を実行した。わざと事故にあって自分に大きな衝撃を与え、それで誤魔化して、彼のことを忘れることにした。思い出そうとしてもそれに不快感と痛みが伴うようにすれば案外いけるんじゃないかって思ったんだけど、愛って面倒だね。痛みも不快感も越えてくるんだから さあどうする、と笑った声が僕に問いかける。僕の手からは大きな鍵が滑り落ちたところだ。暗闇の中に吸い込まれてあっという間に見えなくなる。 僕が、のことを、好きだった? (事故キス…) 気を失う直前に口にした言葉を思い出した。 眩い記憶。解放すれば、きっとそれらに呑まれ、僕は思い出すのだろう。のことを。彼との思い出を。共有した時間を。 そして、彼がいないと生きられないくらいに胸を焦がす感情に支配される。 彼のことを忘れないといられなかった、苦しくて仕方のなかった想いに潰される。 「……、」 後退る。ジャランと鎖を震わせ外へ出ようともがく想いの大きさに怖気づいた。 こんなに大きくて重たいもの、僕は、きっと、抱えきれない。 なんだ。思い出してもいいって思ったんじゃないの? 逃げる僕の背中に声がかかる。 それを無視して扉を背に走った。 彼に対する苛立ち、頭痛。それを振りきりたかった。けど。でも。 (僕は、のことなんて、好きじゃない) 僕を窺う伏し目がちな視線も、どこにでもいそうなありふれた顔立ちも、茶色に染めた髪も、雲雀と呼ぶ声も、全部。全部、気に入らない。それだけだ。好きだなんて嘘だ。そんなわけがない。この僕が誰かを好きになるなんてありえない。ましてやその想いで潰されそうになっていたなんて、そんなの嘘だ。 真っ黒い闇の中をひたすら走って、走って、走り続けたのに、見上げるほどの大きさがあった扉はいつまでたっても僕の背後にポツンとあり続けた。小さくても振り返った視界の真ん中にい続けた。どれだけ逃げてもずっとそこにあった。 どこまでも行っても存在するその扉が、逃れることなどできないと、そう言っていた。 ときどき鎖の冷たい音が鼓膜を震わせ、その度に両手で耳を塞いだ。 違う。違う。そう否定すればするほどに頭が痛い。 それは、僕が彼のことを好きなのだという何よりの証明だった。 |