人はどうして誰かや何かを好きになるのだろうか。
 それは生きていく上でとても非効率的で、自分で自分に足枷をはめているような愚かなことだと思う。
 まずは味覚だ。生きていく上で必要だから食べるものに好き嫌いをつけてどうする。身体は摂取できるものなのに嫌いだからなんて理由で遠ざけるなんて本当に愚かじゃないか。
 それから、視覚。見た情報を生きていく上に必要なこととして処理すればいいのに、それにまで好き嫌いや優劣で順番をつけようとする。
 人間というのはどうしてこう愚かな生き物へと進化したのだろう。
 いや、進化というより、これは退化じゃないだろうか。自分で自分を生きづらくしている。人間てなんて愚かで、馬鹿らしくて、殴りたいくらいに弱い生き物なんだろう。
 およそ人らしさに欠ける僕は、どうして人間として生まれたのだろう。世に言う神というやつが采配を間違ったのか。

「雲雀さん」
「…、」

 薄く目を開くと、すっかり昇りきった太陽の陽射しが視界を突き刺して殺した。白んで飛んだ視界を一度閉ざし、「なに」と声だけで返事をする。
 馬鹿だな。視界を庇うことを忘れるなんて。陽射しを目に入れたらどうなるかなど分かりきってるのに。
 僕のそばには一人の体温があって、寝転がっている僕に腿を貸している。
 枕としては不合格で、やわらかさなど欠片もないけど、人の温度でぬくいので、まぁよしとする。
 ああ、眠い。まだ全然眠い。睡眠時間的には足りているはずだけど、寝ることは好きだ。何も考えずにすむから。
 もっと寝ていたい。この温度を拘束してずっと眠っていたい。

「あの、俺、授業が……始まるんですが」

 控えめに落ちた声に、今度は腕で視界を庇いながら瞼を押し上げる。ぼんやりした景色の中にぼんやりと相手の顔が見えていた。どこか困ったように眉尻を下げて僕を見ている。
 短めにまとめた髪はわりと色素が薄くて、陽射しに透けて茶色に見える。もともと濃いブラウンみたいな色をしているから、下から見上げてる状態では余計にそう見える。あと、ちりちりしてる。極度の癖っ毛はパーマをかけたわけでも縮毛したわけでもなく、僕が知っている限り彼の髪はああいうふうだ。
 顔立ちはあまりパッとしない。鼻が高いとか唇がぶあつめとか見て分かる特徴がない。顔なんて生きていく上でそう重要視する部分であるとも思えないし、醜くなければなんだっていいと思うけれど。ああ、そうだな、少し、目が大きいかもしれない。男にしては。気弱な姿と相まって動物じみて見える。
 黙って彼を観察していると、ちょうどよく予鈴が鳴った。「あー、俺次の理科移動で」としどろもどろに続けて慌てる彼に、仕方なく起き上がって解放してあげた。学生の本分は勉強だ。風紀委員長である僕がそれを邪魔するわけにはいかない。
 彼はそそくさと立ち上がって「じゃあ、授業行ってきます」と逃げるように屋上から出て行った。…逃げるように、じゃないか。逃げたのか。まぁ、そうだろうな。
 白いシャツの背中が視界から消えるまでを眺め、一つ吐息をこぼし、すっかり夏じみてきた空気に視線を逃がす。
 梅雨入りしたにも関わらず今年はあまり雨が降らない。梅雨っぽく湿気はこもっている感じはするものの、雨はさっぱりだ。そのおかげで昼休みこうして彼を呼び出し膝枕を要求するのだけど。
 ふあ、と欠伸を一つこぼしてごろんと再び寝転がって、枕のないことに眉を顰めた。硬い。それから、少し、暑い。陽射しに熱を感じるようになってきた。もうすぐ夏か。
 今年も暑いのだろうかと夏を憂いながら身体を起こし、陽射しから逃げて校舎に入る。
 仕方がないので応接室に戻ってサボっていた仕事を片付けているうちに授業が終わり、始まり、それを何度か繰り返して、放課後になった。
 僕が来いと言ったから、彼は今日も応接室の扉をノックしてやって来た。

です」
「開いてる」

 失礼します、とそろそろ開けられた扉の向こうからそろそろと入ってきたのは、昼休みに膝枕を強制した彼だ。。並中在学の二年生。運動神経は並と良の間、頭の出来はあまりよくない。テストで赤点を取り補習を受ける常連だ。この間も長期連休にも関わらず補習を受けていた。
 思い出しそうになったことをすんでで呑み込み、用意しておいたプリント数種類と封筒を手に革張りの椅子を立つ。

「えっと、今日は何を手伝えば」
「これ」

 立ち尽くす彼に座れとソファを顎でしゃくってからテーブルにプリントと封筒を並べた。「右から順番に取っていって、封筒に入れて」教員に配るためのプリントだ。本当はここでやらせるまでもなく終わる仕事だったけど、彼をここに拘束するため、適当に取り上げてきた。そうとも知らない彼は「はい」と生真面目な顔を作って僕が見せた手本の通りにプリントを取り上げ封筒に入れる、という作業を始める。
 こういうことに慣れていないのだろう。もたつく手つきを眺めてからそばを離れた。ぎ、と椅子に腰かけて細く息を吐く。
 紙をめくる音。
 自分以外の誰かの息遣い。
 沈み始めた陽が傾き、窓から室内に射し始めている。
 休憩しよう、と手にしかけた鉛筆を転がして背もたれに体重を預けた。が生真面目な顔のままプリントを手にして封筒に入れていく作業を眺める。
 ……手。案外と指が長い。爪の形が整っている。部活動はバスケだったっけ。指が長くなるはずだな。

「あの」

 また一つ封筒を作った彼が僕に顔を向けた。「何」と返して鉛筆を手にする。面倒くさいけど、彼に仕事を押しつけておいて自分は何もしないというのは格好がつかないので、黒い表紙の帳簿を開いた。「あの、雲雀さん」「…聞いてるよ」適当に斜め読みして目を通したというサインをフルネームで記して、「あのっ」とソファを立った彼に視線を上げた。何か言いたそうにしているが彼の中で思考が言葉に変換されないらしく、鯉みたいに口をパクパクさせている。
 彼が僕に苦手意識を持っていることは知っている。並盛最強の風紀委員長雲雀恭弥。彼にとって僕はそれであって、それだけであって、それ以上でも以下でもない。

「あの、ですね。質問が、あります」

 やっとまともに喋った彼は、僕に対して苦手意識を隠せずに眉尻を下げつつも、生真面目な顔を作ったままだった。
 ふぅんとこぼして次の帳簿を取り上げる。「言ってみたら」とぼやきつつフルネームのサインを記す。僕の表情は変わらない。表情筋は少しも動かない。それでも、「雲雀さんは」と彼の口から自分を呼ぶ声が紡がれる度、僕の心臓はざわりと不穏に揺れ動き、騒いだ。
 僕が呼べと強制したようなものだけど、それでも、その口が、その声で、その唇で、雲雀と僕のことを呼ぶ。
 それは、ずっとずっと思い描いていた現実の一つだった。
 その唇に噛みつくこともそうだ。
 奪ってやろうって、ずっとそう思っていた。
 何を言うにしてもさっさとすればいいのに、僕の視線に物怖じしたのか「やっぱ、何でもないです」と引き下がってソファに座り込み、書類を封筒に入れる作業を再開する。特に意味もなくそんな彼を眺めてから視線を外す。
 いつの間にか射し込んだ斜陽が視界を焼いていて、目の前の全てが橙に似た赤に染まって、まるで、全てが血の海に沈んでいるかのようだ。僕も。彼も。
 なぜ、人は何かを好きになったり嫌いになったりするのだろう。
 それは生きていく上で必要なことだったのか。
 それは、ただの弱さじゃないのか。
 人間には基本の武器となる爪も牙も存在しないに等しく、身体を守る硬い鱗や甲羅があるわけでもなく、能力を特化させた優れている器官も存在せず、とても脆弱だ。
 人間は弱い。何と比べるでもなく、至極当然のように、弱すぎる。
 爪と牙が役に立たないのなら、武器を持つしかない。
 何もしなければ弱い身体なら、自ら鍛え、関係のない戦いにも参戦し、場数と経験を踏み、強い自分へと変えていこう。
 特別優れた部位がないと言うのなら、それさえ作ってみせよう。
 人間なんて枠組みは捨てて。生きているものとして、生物として、生き残るものとして、今よりずっと高みへ昇り詰めてやる。
 僕はトンファーを手にした。反発を生むようなルールを強いて、抗った奴らをみんな殺さない程度に暴力を加え、自分の経験値というやつを押し上げて、その日の食事を摂ることが当たり前のように名前も知らない奴らを踏みつけ、邪魔だったら蹴飛ばし、人の肉でできたピラミッドの高さだけを重ねていく。
 いつか、雲さえ突き抜けるくらいに高くなった人の壁を踏みつけ、僕は空に行く。そして。
 つよくなって、それで、ひばりはどうしたいんだ
 息ができなくなったような気がして目を見開くと、よく知っている木目の天井が見えた。
 状況を認識しようとする本能が視界に映る全てを脳内に取り込み、理解する。闇に沈んでいる景色、映る全てが和風でまとめられている部屋で布団についている自分。つまり、今のは、夢だ。
 止めていた息をゆっくりと吐き出して、一つだけ深呼吸をする。
 耳を撫でた幼い声を振り払うように起き上がり、軽く頭を振る。そうすることでさっきの声を忘れようとした。幼いが故に高く、どこか甘ささえ含んだ声は、いつまでも鼓膜の奥にこびりついて離れない。
 一つ舌打ちして布団を蹴飛ばして抜け出す。
 こうなったらもう眠れないということが分かっていたから、不便だという理由でシステムキッチンになった台所に行き、コップ一杯の水を胃に流し込んだ。季節故だろう、目の醒めるような冷たさはなく、生ぬるい。
 タン、と勢いよくシンクにコップを叩きつけた手が細かく震えているのに気付いて目を眇める。
 まただ。また、僕は彼に影響を受けて、こんなふうになっている。
 僕は、弱い生き物が嫌いだ。弱さを持つのが当然の顔をしてでしゃばる奴らも嫌いだ。強くあろうとしない人間が嫌いだ。持てる力を発揮しない惰性が嫌いだ。自分にはできないと弱さを内包して生きるその弱さが嫌いだ。本当に強くあろうと思ったらどんなことだってできるのに、する前から諦めている、人間が嫌いだ。
 強くあろうとすることに理由がいるのか。ただ生きることに理由がいらないように、強くあろうと思うことにだって理由などいらない。
 弱いまま、それを当然であると思って生きる、人間が、嫌いというより。憎いのかもしれない。
 好き嫌いなんて生ぬるい次元の話じゃない。
 嫌悪。憎悪。軽蔑。侮蔑。
 生きていく上で必要ない感情が、唯一、僕も人間であるのだと教えてくる。



 コップを握り締める手に力が入りすぎて亀裂の入る音がして、力んでいた手から力を抜く。僕が手を離したことでガラスのコップは亀裂から崩れるように割れてシンクの上に破片を散らした。
 弱い彼は、強くあろうとする僕に問うた。小学校低学年で高学年までに学ぶべき全ての科目をやり遂げ、試験は常に満点、体育などの実技も文句なしの僕に、あるとき、不思議そうに訊ねてきた。強くあることが、優秀であることができる生き物としての義務であるとして生きてきた僕に、こう言った。
 つよくなって、それで、ひばりはどうしたいんだ
(理由なんていらない。ただ、生物として高みを目指す。現状維持なんてごめんだ。僕はもっと強くなる。強くなって、人の屍を越えて、雲の上を目指す。そして)

 そして、どうしたいのかと、彼は問うた。
 割れたガラス片。破片の数だけ映り込んだ無数の自分を睨みつける。
 ………僕は、あの問いかけに対する最終的な答えを、まだ、見出だせずにいる。
 あのときの何気ない君の言葉への答えは見つからない。
 その代わりじゃないけど、僕は違う回答を見つけた。
 いつかに触れ合った唇に舌を這わせて、嘲笑するでもなく、自嘲するでもなく、唇を歪めて笑う。
 僕は、僕にその意義を問うた君を、僕で奪って、埋め尽くして、壊してやりたい。