梅雨明け宣言なんてされなくたって十分夏の気温の中、だらだらと登校して階段を上がり、教室に入って席について、暑いな、疲れたな、と机に突っ伏した。そのままぐたっとしていると、ピンポーンパーンとスピーカーから呼び出しの音が響いた。まだ朝礼の時間でもないのに。
 クラスメイトが不思議そうに黒板上のスピーカーを見上げる中、俺はガタンと席を立っていた。ほぼ反射で。
 忘れてた。忘れてた。ちょー忘れてた。暑さと眠さですごい忘れてた。今朝登校したらまっすぐ応接室に来いって雲雀さんに言われてたんだった。

。今すぐ、応接室に来るように』

 間違いなく苛ついてる雲雀さんの声が今すぐを強調した。その呼び出しに俺は脇目もふらず全速力で教室を飛び出し、全力で階段を段飛ばしで駆け上がり、これもまた全力で応接室の扉の前に上履きのスリッパのブレーキを効かせながら到着、「すみませんでしたっ!」と全力で謝りながら扉を引き開けると、中には放送に使ったんだろうマイクを掌で弄んでいる雲雀さんがいた。眉間に皺を刻んでいる。うおお怖い顔してるうう。
 っていうか、俺の登校を見てたりしたんだろうか、この人は。確かに登校してすぐここへ向かわなかったけど、そんなの、見張りでもしてない限り、分かるわけないのに。

「僕の言ったこと、忘れてたわけ」
「ごめんなさい忘れてました」

 土下座する勢いで頭を下げた俺にはまともな言い訳も思い浮かばず、全力疾走して上がった息で酸素を取り込むのみだ。
 トンファーだろうか。トンファーなんだろうか。顔が潰れちゃうよ。受け身取れる自信もないよ。どうしよう。
 入り口で頭を下げて突っ立ったままの俺と、黒い革張りのソファに座ったまま俺を睨んでいる雲雀さん。何分か経過して息が整ってきたところで「いつまで突っ立ってるの。ドア閉めて」と言われて、「あ、はい」とこぼして恐る恐る顔を上げる。途端にトンファーがぶっ飛んできて俺の顔にクリーンヒット、ってことはなかった。雲雀さんは眉間に皺を刻んだままマイクを机に置いただけで、トンファーなんて持ってない。よかった、命拾いした。
 ほっとしつつ扉を閉めて、いつも座るソファのところまで行った。
 今日はなんの用事があるんだろうか。だいたい雑用みたいな仕事をやらされることが常だけど、朝から呼び出してくるんだから、何かすませないとならない仕事の手伝いとかかな。


「はい」

 雲雀さんのあまり機嫌がいいとは言えない低めの声に呼ばれてぴしっと背筋を伸ばす。
 無造作にこっちに差し出された手には何もなくて、その手の意味を図りかねて、首を捻る。………えっと、この手は?
 苛ついたように手を突き出した雲雀さんが「携帯」と低い声で一言催促してくる。
 携帯。携帯って、俺の?

「あの、俺、携帯持ってないです」
「は?」
「まだ中学生だし…親はいらないだろ、って。高校生からで十分だ、って。だから、持ってない、です」

 たじたじになりつつ説明すると、さらに眉間に皺を刻んだ雲雀さんが突き出していた手でバンと机を叩いた。その音にひっと竦み上がる俺。なんか怒ってる。なんでだ。怖い。「持ってないんだね」鳩羽色の瞳で睨みつけてくる相手に必死に頷く。嘘じゃないです、本当に持ってないです。
 雲雀さんはしばらく俺のことを睨んでいたけど、ふっと息を吐くとぱたっと手を落とした。「そう。じゃあいい」ちっともそういう顔はしてないし、機嫌の悪い声のままなのに、雲雀さんはそう言って口を閉ざした。そうして何かを考え込むように机に頬杖をついて目を閉じた。
 俺はと言えば、ドギマギしながらソファの前で突っ立っているだけ。
 そのうち朝礼が始まるよってチャイムが鳴ったけど、雲雀さんが何も言わなかったし、機嫌悪そうなままだったので、朝礼なんですけどなんて言い出せずに沈黙を守る。
 まぁ、多分、出席なら大丈夫だ。なんたって雲雀さんが俺を呼びつけたんだから、その辺のことは配慮してくれている。と思う。実際、先生でも雲雀さんには頭が上がらないみたいだし。遅刻した理由を問われたら素直に話せばそれで解決するはず。
 ………あまり見つめる機会もないし、他にすることもないので、何か考え事をしている雲雀さんを観察してみる。
 俺と違って純日本人色の黒い髪はさらさらだ。肌も女子並に白くて弾力もあった、と初めてのキスを奪われたときのことをそれとなく思い出しつつ、結局訊けていないことを思い出す。

(あなたは、どうして俺なんかにキスしたんですか)

 心の中で問いかけたとき、ぱち、と目を開けた雲雀さんとばっちり目が合ってしまった。しまったガン見してたうわぁ。

「授業、始まるから。もう行っていい。昼休みにまた来て」
「あ、はい」

 ガン見してたことをツッコまれるかと思ったけどスルーされたので心底ほっとした。
 安堵の息を吐きつつ応接室を出て、ピシャリ、と扉を閉める。
 教室に戻りながらふと気付いた。そういや最近バスケ部に顔を出してない。
 放課後はだいたい雲雀さんに付き合わされるし、朝練に行くほど熱心にバスケやってるわけでもないからって、疎遠だ。せっかくの部活だけど……朝起きて行くほどの情熱もないし。
 結局現状維持を選びながら、だらだらと教室に向かって、なんとか一限目のチャイムに間に合う俺だった。
 で、昼休み。給食を食べてから応接室に行くと、雲雀さんが紙袋を預けてきた。「あげる」と。へ、と目を丸くした俺は預けられた紙袋を見やって、恐る恐る中を見てみた。どんなものが入っていたとしても寛大な心で受け止めようという覚悟のもとに覗き込んだ紙袋の中に入っていたのは、携帯である。真新しい最新のタッチのやつ。
 え、と顔を上げると雲雀さんは革張りの椅子に腰かけたところだ。疑問符が飛び交ってる俺に「あげる」と二度目の言葉を投げて、いつものように風紀委員としての事務仕事を始めた。
 俺はぽかーんと携帯を見つめた。
 あげるって。あげるって、これ、携帯。そんな簡単に。そりゃあ、契約したのが雲雀で、俺が使うだけなら、そういう表現でいいのかもしれないけど。中学生にはお世辞にも払える金額ではないのに。

「あの、雲雀さん、俺、金とかあんまりなくて」
「……何度言わせるの。あげる、って言ってる」

 苛ついてる声に「でもですね」と触ったことのない携帯を指で叩く。「お世辞にも安いって言える金額じゃないわけですし。そもそも、こういう金銭が発生するやり取りって、俺達にはまだはや」い、と言い切る前に俺の顔の横をシャーペンが飛んでいった。容赦なくこっちに先端を向けていたそれがカッと音を立てて床を転がる。
 雲雀さんは間違いなく機嫌が降下した顔でゆらりと席を立ったところだ。
 お、怒らせてしまった。けど、俺は間違ったことは言ってない、はず。
 伸びた手に殴られるのかと思って反射で目を瞑ると、肩を掴まれて、ソファに倒された。ごちっと肘掛けの部分に後頭部をぶつけて地味に痛い。涙出てきた。

「携帯の代金の心配をしてるって、そういうことでいいんだね」
「は、はい」

 痛みでくらくらする頭で薄目を開けると、ソファに膝をついた雲雀さんがいて、身動きを封じるように俺の両肩を掴んで体重をかけると、そのまま、顔を寄せてきて。いつかのように視界が雲雀さんの顔、というか睫毛とか髪とかでいっぱいになる。
 キス。二度目の。
 触れるだけで少し離れた唇が吐息と一緒にこうこぼす。「毎日キスする。それがお代」「え、」困惑した俺が何か言う前に再び唇で唇を塞がれた。肩を掴んでいる手が痛いくらいに強い。抵抗など許さないと、そう言われている気がする。
 最初のときと同じく生ぬるいものが唇をなぞった。舌だ、と思って、ヘタクソとか言われる前に口を開けて、他人の味のする熱くてやわらかいものを受け入れる。
 携帯代が、キスって。どうなんだ。
 って、いうか。本当、この人はなんで俺なんかとキスしようって思うんだ。あのときも、今も。キスしようっていうか、キスしたい、って欲望すら感じるというか。
 雲雀さんから俺へ、重力に従って上から下に流れてくる唾液をどうにか飲み下すものの、飲み切れなかったものが口の端を伝っていく。
 口の中が狭い。二人分の唾液が飲み切れない。
 自分のじゃない味がする。雲雀さんの味。給食、食べてないのかな。俺と同じ味はしない気がする。今日の献立はカレーだったから余計分かりやすいのかもしれない。
 どのくらいキスしてたのか、舌を意識するのが億劫になってきた頃に雲雀さんが顔を上げた。「カレーの味がする」とこぼして手の甲で口を拭う姿をぼやっと眺めて、制服の袖でこぼれた唾液が伝った肌を拭う。
 訊かないと。今。
 はぐらかされるかもしれない。でも、それでも訊いておきたい。

「あ、の。なんで、キスするんですか。俺なんかに」

 ぼそっとこぼした俺に、俺の上にのしかかる形になってる雲雀さんが小首を傾げた。「なんで…? って、なんで」「……だって、あなたは、並盛最強の風紀委員長ですよ。俺はただの並中生徒で…だから」接点なんてないし、あの日捕まるときまで、キスされるまで、俺とあなたの間には何もなかった。それなのに今、舌が疲れてくるくらいキスをして、唇の感覚が曖昧になるくらいキスをして。それを毎日しようってあなたが決めた。携帯買ってきてそれの代金をキスにする、って。それって、やっぱり変だろ。変だよ。そもそも俺達は男同士じゃないか。それでキスって、普通じゃない。
 普通じゃない、と思った自分にふと気がつく。
 そうだ。そもそも雲雀恭弥という人は普通の人じゃないんだ。
 それを証明するように、雲雀さんは仄暗い笑みで唇だけで笑ってみせる。
 背筋が寒くなるような冷たい笑みを俺は初めて見た。底が知れない。何を考えてるのか全然分からない。この人は、やっぱり、普通じゃない。
 答えらしい答えはもらえなかった。雲雀さんは何も言わなかった。ただ暗い笑みに唇を歪めてまた俺にキスをした。今度は噛みつくみたいに乱暴に、暴力的にキスをした。
 押さえつけられている肩に指が食い込んでいて、痛い。すごい力だ。見た目は結構華奢そうに見える人なのに、どこにこんな力があるんだか。

(痕、残りそう)

 キスのしすぎで痺れてきた舌と唇に、唇を噛む歯の感触に、諦めて目を閉じる。
 雲雀さんが何を考えてるのか常人の俺に理解できるとは思わないし、思えないけど。ただ一つ、はっきりしていることがある。
 俺は間違いなくこの人に目をつけられてしまった。
 並中での生活を平穏無事に送りたいのなら、俺は、この人に従う以外に道はない。