『キスがしたい』とラインしたらは授業中だろうと応接室にやって来た。僕が押しつけた携帯、その代金として要求する口付けの回数がどれだけ増えようとも、戸惑った顔に諦めの色を混ぜるだけで、抗議なんてしてこない。
 その従順さが、面白くない。
 抵抗されたらそれはそれでもっと強引に奪えるのに、は聞き分けのいい犬みたいにちょこんとそこにいて、僕が呼べば駆け寄ってくる。お手も伏せも待てもできる。こちらの言ったことを理解してこなす犬が、賢いのに、それでいいはずなのに、その何かが気に入らないのだ。
 その日の放課後も、いつものようにを応接室に呼びつけ、ソファに押し倒し、上に乗っかって彼の従順さを観察した。「重いです」とか「これじゃ俺何もできないですよ」とは言うけど、「退いてください」とは言わない。そう言ったら殴ってやるところなのに。本当、いやに賢くて、気に入らないな。

「携帯、使えてるの」
「あ、はい。友達に教えてもらったんで、だいぶ便利です。時刻表も地図も全部あるし、思い立ったときに調べ物ができて。親に隠すのだけがめんどくさいんですが」

 ああ、とぼやいて曲がっているネクタイを解いた。まともに結ぶ気もないのだろうと分かっていたので、解いたまま、ボタンが三つ開いているシャツの胸元をじっと見下ろす。
 家族に説明するとなれば確かに面倒だろう。面倒くさいことにならない方がいいので僕も隠すという方向でいい。
 今日も携帯代と称して彼の唇を奪い、痺れて感覚が曖昧になってくるくらいまでキスをしながら、指先で開いてるシャツの間から鎖骨をなぞる。
 ……僕は何がしたいのだろう。
 なぜ自分にキスをするのかと問われて、僕はまた答えを返せなかった。
 そう、まただ。また、彼の問いかけに回答を持たなかった。
 なぜ? なぜキスをするのか? 君を奪いたいからだと思っているけど、その問いについて考えれば考えるほど、夜の眠りが浅くなり、唇を貪る時間は長くなり、明確な答えを求めて、僕は彷徨ってばかりいる。
 なぜにキスをするのか。彼の表も裏も中も全て僕で埋めたいから、だと思う。けど、その方法としてキスを選んだことは、自分でもよく分からない。
 たとえば、恐怖と絶望で僕に絶対服従する人形にしたってよかったんだ。死にかけるくらい暴力を振るって手足の一、二本骨を折ってやれば、も簡単に人形になったろう。僕の言うことに二つ返事で頷く人形に。そうしてしまえばよほど楽だという気もしたけど、彼に暴力を振るうのは、何か、自分の意思の先にあるものとは違う気がして。何となく、だけど。
 はっきりしない。に対してだけはっきりできない。

「…、」

 顔を上げると顎を伝った唾液が落ちた。ぱた、との頬を濡らした粒を舌で舐め上げる。季節柄これから温度は高くなる一方であり、舐めた肌からは汗のしょっぱい味がした。
 キスをすることが当たり前になって、僕にのしかかられたり上に乗っかられたりすることに慣れたは、普通の顔のまま僕を見上げているだけだ。
 もっと、僕で乱してやりたいのにな。キスではもう駄目か。最初は面白いくらい戸惑って緊張していたのに、今じゃその欠片もない。
 どこかでミーンミーンと気の早い蝉の声がしている。

(夏、か)

 もうすぐ7月だ。すぐに夏休みが来て、と会う時間が減る。僕に拘束されるようになってもバスケ部に在籍しているようだけど、幽霊部員になりつつあるし、夏休みまでに辞める可能性が高い。そうなれば彼は部活動のために学校に来るということもなくなり、余計に会う時間がなくなる。
 さあ。どう繋いであげようか。
 ぺろり、と舌で唇を舐めて考えていると、ふいにの手が持ち上がって僕の頬を撫でた。それで「雲雀さんは汗かかないんですか」と馬鹿なことを言うから「そんなわけないだろう」とその手を掴み、額に当てる。前髪が長いせいだろう、じんわり汗が滲んでいた。それが分かったんだろう、彼は笑って「ああ、よかった」なんて言う。どういう意味だと顔を顰めた僕に彼は笑顔のまま、

「雲雀さん、いつもきれいだから。ときどき、人間なのかなって不安になって」
「…馬鹿じゃないの」

 顔を背けてそう吐き捨てて彼の上から退いた。
 残念ながら僕は人間だよ。どうしようもなくね。
 褒めてるのか馬鹿にしてるのかよく分からない言葉だったけど、殴るのは勘弁してあげる。感謝するといい。
 夏休みを間近に控えた、すっかり真夏日となっていたある日。授業が終わってもが応接室に現れないので、呼び出しをかけた。いつもならそれでやってくるのに、今日にいたっては名指し放送しても彼は姿を現さなかった。
 辛抱強く待っていたけど、放送の呼び出しを三回かけて、五分待って、それでもやってくる気配のない彼に苛立ちを覚えてガチャンと席を立つ。最近の暑さも手伝って僕の苛立ちは必要以上に加速していたし、気も短くなっていた。

(この僕が、三回も、放送で呼び出したのに)

 携帯を取り出してコールしてみるも、これにも応答しない。
 GPS機能での現在位置を割り出すと、体育館裏だった。倉庫しかないだろうあんな場所で何をしているのか知らないけど、一発殴ってやる、と心に決めながら応接室の扉を開け放つ。
 傍から見ても機嫌が悪いのが明確なのだろう。誰も僕に声をかけず、体育館のコンクリートの角を曲がろうとして、女子生徒と鉢合わせした。ぱっと顔を伏せて「すみませんっ」と謝ってすぐに駆け出し視界からすり抜けた姿から意識を外す。角を曲がって体育館の裏手の影の部分に入ると、倉庫前に立ち尽くすを見つけた。



 苛立ちを隠さない声で呼ぶと、彼の肩が大げさに跳ねた。「あ」とこぼして僕を見る目が泳いでいる。
 ここに来て、僕は何か嫌な感覚を覚えた。
 さっきの女子生徒もここにいたんだ。と同じ場所に。
 それは、ただの偶然か?
 じわり、と背中に嫌な汗が滲む。暑さのせいではない。気持ち急いでここへ来たけど、そのせいで息が上がったわけではない。

「三回も、校内放送で呼んだ」
「すみません」
「電話もかけたんだけど」
「…すみません」

 ポケットから携帯を出した彼が画面に指を滑らせる。ほんとだ、とこぼす彼に素早く近づいてその手から携帯を取り上げた。「あっ」と慌てる姿に背中の方がじわじわと歪む。嫌な形に。醜い形に。唇が引きつる。

「さっきの、女子生徒と、何をしていたの」
「え、と」

 途端に伏せられる目と声が全てを物語っている気がした。
 それでも違うという可能性にかけて携帯のアドレス帳とラインをチェックすれば、真実はあっさりとそこにあった。
 新しい名前。昨日までなかった名前が登録されている。女の名前だ。『先輩』って入ってるからさっきの女子生徒は三年か。
 暑さに反比例するように冷え込んだ気持ちでブチッと画面を消す。
 睨みつけたところでは何も言わず、閉じた貝のように口をつぐんでいた。
 ミーンミーンと鳴き叫ぶ蝉の声だけが僕らの沈黙を埋めていて、とても、うるさい。

「…さっきの女。潰すよ」

 ジャリッと砂を鳴らして背を向けた僕に「雲雀さんっ!」と悲鳴に近い声を聞いたけど無視した。名前のはっきりしている相手を呼び出すことなどたやすい。が相手を庇うなら、ここで何をしていたのか、僕が直接女の方に問いただしてやろう。場合によってはそのまま折檻でもいい。
 体育館裏の影から出ようとしたとき、手を掴まれた。当然振り払った。そんなもので立ち止まるほど僕の苛立ちは小さくなかった。
 だけど、背中側からがむしゃらな感じで強く抱き締められて、息が詰まった。
 僕は彼に跨ることはしていたしよくのしかかっていたし上に乗っていた。彼の身体の大きさなど理解しているはずなのに、どうしてか大きいと感じる。
 そういえば、こんなふうにされたのは、初めてかもしれない。この戸惑いはそのせいだろうか。

「すみませんでした、俺がはっきり言わないのがいけなかったんです。断ります。断りますから。アドレスも消しますから」

 ごめんなさい雲雀さん、ごめんなさい、ごめんなさい。うなじに落ちる声と吐息に振り払おうと思ってかざした手が震えた。
 …また。だ。
 また、僕はに対してこんなふうになっている。
 背中から抱き締められて、懇願するように謝られて、縋られて、悪くないなって、唇を歪めて笑っている。

「僕に、何もしてほしくない?」

 歪んだ唇のまま問うと、彼は何度も頷いた。必死に女を庇っているその態度が僕の中の昏い部分を大きくさせた。「じゃあ、そのために、君はできることをする覚悟がある?」と問いかけを重ねると、躊躇したような間のあとに「はい」と蚊の鳴くような声がした。
 ………君がそこまで言うのなら仕方がない。女の方は見逃してあげよう。その代わり。
 僕を抱き締めて離さない腕を掴んで、背負投の要領で砂利の地面に背中から叩きつけ、ごほ、と苦しそうに咳き込んだ彼の鳩尾に気を失う一発を見舞った。一度だけ大きく震えた身体から力が抜け、地面に頬をつけて気を失った彼の首根っこを掴み、ずるりずるりと引きずりながら体育館裏を進む。
 ミーンミーンを鳴き叫ぶ蝉の声が遠い。すぐそこで鳴いている気がするけど、遠い。影に沈んだつまらない風景も、ふっつりと途切れた影から強い陽射しの中に踏み出した足の感覚も、なんだか遠い。
 手加減はした。どこも折れてはいないはずだ。簡単に意識を手放してくれて、手間がかからなくてよかった。
 できることをする。その覚悟がある。君はそう言った。

(もう我慢できない)

 意識のないを引きずりながら、携帯で車を呼び、後部座席に彼を放り込んで家へと向かう。
 今までキスだけで見逃してきたけれど。もキスでは動じなくなってきていたところだし、ちょうどいい。ちょうどいいから、このまま彼を持ち帰って、監禁してしまおう。
 バン、と車のドアを閉めてを引きずって敷居を跨ぎ、気を失ったままの横顔を眺める。
 無防備な姿に自然と唇が歪んで笑っていた。
 僕らを真上から焼こうとしている太陽の陽射しもどこか遠い。
 これで、君はもう、僕のものだ。