細胞の一つまで愛でたい、
愛でてほしい

 ピピピピという目覚ましの音に意識を揺さぶられ、パチンと叩いて止めた。もそもそとベッドから出て欠伸をこぼしつつ義務的に着替えをすませて、階段を下りて、「ふーんフフーン」と海外っぽいノリの鼻歌が聞こえてはたと意識が醒めた。
 居間に入ると、台所で朝食の準備をしている彼がいた。
 …いつもどおりだ。風邪を引く前と同じ。この分ならの風邪は完治したということでいいんだろう。
「おはよう」
「おはよー」
 僕の声に振り返った彼が笑顔を浮かべる。うん、いつもどおりだ。どこも苦しそうじゃない。よかった、と安心しつつ、彼が風邪だったときの癖で「手伝おうか」と寄っていくとへらっと笑顔を浮かべた彼にぎゅっと抱き締められて息が詰まった。苦しい。
 ……久しぶりの抱擁だ。やっぱり、あなたはあたたかい。
「もー風邪治ったよ。咳もないし熱もないし」
 だから、キスしていい? と耳元で囁かれて全身が心臓を中心に昂っていく。訳もなく空振る口でごくんと唾を飲み下してから「いいよ」とどこか掠れた声で返事をして、噛みつくような勢いでキスされた。
 キス。しばらくしてなかった。もしかしたら一週間くらいまともに彼に触れていなかったのかもしれない。これはその反動だろうか。とにかく彼の体温を感じたい。制服なんて脱ぎ捨てて直接肌を重ね合わせたい。そんな欲望にぎゅっと拳を握って耐えていたのに、彼の指が僕の指を絡め取って手を握れば、押し込んでいたものが隙間を辿って溢れ出してしまった。
 粘着質な水音と吐息を絶えずこぼしながら舌を絡ませる。お互いの口を塞ぐように可能な限り求め合う。舌の裏側のやわらかいところ、上顎のでこぼこしたところ、歯茎の形、全部を舌で感じ取る。
 久しぶりだ。久しぶりにキスした。もっとしていたい。もっとくっつきたい。もっと。
 触って、ほしい。
(駄目、だ)
 その欲望を何とか捕まえてねじ伏せ、の胸に片手をついて身体を離した。は、と息切れしている自分に羞恥心を噛み殺しながら「これから、学校…だから」とぼそぼそ言い訳する。残念そうに眉尻を下げた彼がさっきまでお互いをつついていた舌で唇を舐めたのが何か生々しく感じる。
 襟元に寄っていた皺を直しつつさりげなく彼から距離を取り、「ご飯は」と催促したことで「はいはい」と朝食の準備を再開する
 また抱きつかれたら、またどきどきしてしまう。それは、今は駄目だ。今は。
 今日から虹の代理戦争というやつが始まる。そのときに甘いことをしていたら隙が生まれるだろう。僕は切り替える自信があるけど、隙はないに越したことはないのだ。だから、今は駄目。
 キスするのも触れ合うのももう少しだけ先延ばしだ。
 一日一回、一定時間の戦闘。それを過ぎたら日付が変わるまでは戦闘がないわけだから…終わったらキスくらいしたいけど。甘えていると際限がなくなりそうだし。
 そうだ、しっかりしなくちゃ、と自分に言い聞かせているのに、僕の視線はの背中ばかり追っていた。本当に全快したんだなとか何度も確認してる自分に自分で呆れる。本当に、僕の世界の中心は彼になりつつある。
「あ、そーだ。俺も今日がっこ行くね」
「は? どうして」
「たまにはいーでしょ。応接室にいるからさ。キョーヤと一緒にいたいんだよ」
 ね? と笑顔でこっちを振り返る彼にすぐに言葉が出てこなかった。僕と一緒にいたいと言ったその部分だけが頭の中で何度も繰り返される。
(僕と、一緒に)
 ぐるぐると内を回る言葉に冷静さを欠いた頭で「まぁ、いいけど」とこぼしてから今日から代理戦争だということを思い出した。けど彼は「やった」と小さくガッツポーズしているし、お弁当はちゃっかり二人分用意されている。もとからそのつもりだったのだ。僕が許可するまで言葉で巧みに攻めるつもりだった、ということ。…それなら僕が今更何を言ったところで、全ては無駄な労力でしかない。
 僕がに言葉で勝ったことなど、きっと数えるくらいしかないのだから。
 僕が風紀の仕事をしてるのをが退屈そうに眺めていたので、簡単な判子を押すだけの作業を任せて、お昼になり、彼の手作り弁当を向かい合って食べて、どうでもいいような会話をして、心地よく流れる時間に昼休みをうっかり長めに過ごしてしまってから再び風紀の仕事に取りかかり、放課後になった。
 パラ、と書類をめくった彼がトンと判子を押す。「放課後になっちゃったね?」「…そうだね」ちらりと左手首の時計に視線を落とす。これが戦闘開始を告げるって説明を受けたんだけど。
 まぁ、今日はまだ八時間くらいはあるから、構えなくてもいいか。
 パラ、トン、パラ、トン、と休むことなく書類を繰っては判子を押していくの姿を眺めて椅子の背もたれに体重を預けた。鉛筆を手放して机の上に転がす。
 当たり前みたいにそこにいて、当たり前みたいな空気で僕の仕事を手伝っているけど。僕も一時間もしたら彼がそこにいて風紀の仕事を手伝っていることに慣れてしまったけど……本当はそうじゃないんだよな。本当なら彼は家にいて、家のことをしているはずなんだ。今日はなんでか学校に来たいって言うから連れてきてしまったけど。
(僕と一緒にいたいからってあれ、本気にして、いいのかな)
 ぼやっとしていると、トン、と最後の書類に判子を押した彼が「おーわり」と書類の束をまとめた。とんとんと書類を揃える手つきを眺つつ「慣れてるね」と言うと、彼は苦笑いをこぼして「書類作業って言えばどこも一緒、下っ端の仕事だし」とソファを立つ。
 そのとき、チィリリと腕にある時計が音を立てた。左腕に視線を落とす。『バトル開始一分前です』と時計が告げる、それはいいんだけど。でも、どうして。
 ガチャンと椅子を蹴飛ばして立ち、書類を机に置いた彼の手を掴んだ。左手。パーカーの袖に隠れている左手首に触れればゴツゴツした感触が分かる。
 音声は二重だった。僕のと、そして。
 袖をめくれば、彼の手首にも腕時計がある。『50秒前』とカウントを続ける時計の声はやはり二重だ。僕と彼の時計から同じ音声が流れている。
 それなら、彼がつけているこれは今回の代理戦争に用いる時計ということだ。戦闘参加者が持つ時計。
「どうして…これを、つけてるの」
 ぎりっと強く手首を握る。痛いって顔をした彼が「お前が心配だからだよ。風チームは俺とお前でたった二人だ。いないよりいた方がいいだろ?」そう言った彼の左手にはリングがあった。未来で見たものとは違うけど、あの鳥と同じ色をしている。つまり、今の彼には戦う手段があるということだ。
 リングに炎が灯り、歌うような音色と共にフェニックスが羽を散らしながら宙を舞い、彼の肩に止まった。未来のときに見たのと同じ、彼と同じ色の瞳でこっちを見つめてくる。
 時計からは『40秒前』と告げる二重の音声。
 僕は彼を睨みつけた。彼は困ったなって顔で微笑んでいる。
 訊きたいことは色々ある。なんで勝手に代理戦争に参加表明したんだとか、そのリングはどう調達したのかとか、色々。
 でも、今は時間がない。

 蒼い瞳。
 僕の海で、僕の空で、僕の全てとなりつつある人。

「…あなたが、怪我をしたら、僕が駄目になるって、言ったよね」
「うん。だから自衛が一番。それでキョーヤのフォローもしたい。無理はしないよ、約束」
 ね、と笑う彼をずるいと思った。いつもいつも、ずるい。そういうふうに僕のことを納得させるのは、ずるい。
 二十秒前を告げる時計の声がして、唇を噛んでそっぽを向いた。
 どのみち戦闘はもう始まってしまう。やるしかない。バトルロワイヤルなんだからどこから誰が襲ってくるかなんてわからないけど。僕もできる限り彼のフォローをしよう。
 十秒前、を告げる時計に仕方なく応接室の窓を開け放つ。ここでの戦闘は避けたい。窓枠を踏んで「離れないでよ」とあとに続く彼に声をかけ、ロールを足場にして跳んだ。彼はフェニックスに掴まって飛ぶのでついてこられるだろう。
 僕はアルコバレーノの呪いがなんとかなんてことには関心がない。
 強い相手と戦うこと。を除いた他の全てと戦えること。ルールのシンプルさが気に入って風って赤ん坊に手を貸した、それだけなのだから。