その日応接室に来るよう命じられた私は、何かミスをしたろうかと内心不安に思いながら我らが風紀委員長のいる応接室の扉を二回ノックした。「委員長、草壁参りました」「入って」声の調子は普段と変わりない。たとえば何か重大なミスをしてその失態の責任を追求される、という類の声音ではない、と思う。
 失礼します、と声をかけてから引き戸式の扉を開けて一礼、入室する。
 委員長は普段と変わりない無表情で黒い表紙の帳簿に目を通しサインをしている。……指示を待ってみたのだが、委員長から口を開く気配がない。
「委員長。ご用のほどは」
 そっと訊ねると、委員長の手が止まった。じろりと睨み上げる瞳に狼狽えたが表情には出さずに耐えた。この流れは自然だったはずだ。私が失礼をしたわけではない、と。
 やがて大きな溜息を吐いた委員長が制服のポケットに手を入れ、何か紙片を取り出した。投げやりに開くとそれを私の方に突き出してくる。
 恐る恐る受け取って紙片の内容を見て…驚愕した。
「い、委員長、これは」
「毎年うちでも鬱陶しい日だ。腐るほどチョコの持ち込みがあるし、僕宛にチョコが届くしで」
「は…しかし、」
 常日頃と何も変わらない声音の彼に、困惑し、見間違いだろうかともう一度紙片に目を落とす。
 紙片には委員長の字で『バレンタインについての考察』という題で『チョコは湯煎で溶かして型に入れるだけの手作りか、それよりはまともな味のする市販品か、どちらかがいいか』と疑問が投げてあり、手作りか市販品かどちらかを選ぶようになっていた。『またその理由を述べよ』と解答欄まである。
 困惑している私に気付いたのか、委員長は眉間に皺を寄せて机に置いてある携帯を指で叩いた。何か言いかけた委員長の指先でタイミングよくヴーと震えた携帯を掴んで開く姿は我らが風紀委員長になんら変わりはないのだが…しかし。
 届いたメールに返信して携帯を閉じると、「どうせなら驚かせてやりたいんだ」とこぼした委員長が私が持っている紙片を顎でしゃくった。「それ、印刷して全風紀委員に配布。あとで回収するから」「はっ」癖で敬礼してからはっとするがもう遅い。委員長は一度閉じた携帯をもう一度開いて何やら浸っている様子。これを邪魔しようものなら今度こそ睨まれるだろう。委員長の怒りに触れるのはごめんだ。
 委員長がこのようなことを訊ねるということは、贈る気でいるのだろう。彼に。
 委員長が全風紀委員を集めた上で彼のことを『僕の旦那』だと宣言した日からすでに何月か経過している。二人が仲睦まじくしている様子を目撃した風紀委員はすでに何人もいるし、応接室に失礼したら二人が熱い口付けを交わしている最中で、飛ぶようにして逃げたという風紀委員もいた。
 まさかあの委員長が、と皆が声を潜めたのも無理はない。
 我らが風紀委員長はどんな物事に対しても自ら敷いたレールを守る人であった。例外など存在しなかったのだ。見事なほどの徹底ぶり。その孤高とも言える強さを尊敬し風紀委員になった者も少なくはない。そういう者達からすれば贔屓する存在を作った委員長は困惑に値するもので、あの委員長に贔屓をさせる存在も、同じくらい困惑の対象でもあった。
「あ、クサカベ」
 渦中の声に呼ばれて印刷機に今まさにセットしようとしていた紙片を反射で懐にしまい込んだ。引きつってはいないだろうな、と浮かべた笑顔に言い聞かせながら「これは、さんではありませんか」と返す。
 赤みがかかった茶色の髪は少し癖っ毛で、首の辺りでくるりとカールしている。瞳は蒼く、背もすらりと高い。彫りが深いわけでもないので一目で外人とはわからないが、日本語のイントネーションがまだ怪しく、人の名前を呼ぶときにつっかかり気味の発音になることで彼が外人だと認識できる。それから彼は漢字がまだ読めないに等しい。
「キョーヤどこですか?」
「応接室にいらっしゃいますよ」
「今行ったんだけどいなくって」
 それとなく印刷機を節電モードにし、さりげなくそばを離れる。「お捜ししますか?」「え、いいよいいよ。電話してみる。なんかしてたんでしょ、どーぞ続けて」携帯片手にひらひら手を振る彼に笑顔を浮かべたまま停止する私。今回はそうできない理由があるのだ。
 幸いなことに、委員長が彼からの電話に出たことで今回は事なきを得た。
「キョーヤ? 呼ばれたから来たのにいないじゃん。今どこ? 俺? 俺はねぇ…えっと、えっとー漢字が…」
「備品室です」
 教室のプレートを見上げて困った顔をする彼にひっそりと告げると「ビヒンシツ、だって」片言で今いる場所を返し、ありがと、と私に手を振ると委員長と何事かを話しながら廊下を歩いて行く。その後姿が曲がり角に消えるまでをしっかりと見届け、やれやれ、と息を吐いてからたたんだ紙片を広げる。
 こんなアンケートを委員長が発案し回答を命じたなどと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。
 後日、風紀委員から回収したアンケートの結果を私なりにパーセンテージに数値化、理由の解答欄で多かった答えを箇条書きにして委員長に提出した。
 興味なさそうに気だるい手つきで紙片を追っていた委員長だが、もらうなら手作り、多かった理由の『その方が気持ちを感じる』という回答にふぅんとぼやいた。
「ちなみに草壁。君は手作りと市販品どっちがいいの」
「私ですか。そうですね…物にはよると思うのですが。たとえば、世界的に有名なパティシエが作った限定商品のチョコならやはり食べてみたいとも思いますし…恋人が真心込めて作ったチョコだというのなら、湯煎で溶かして流し込んだだけのものでも、食べてみたいですね」
 要するにどちらでもいいわけだと答えながら思ったが、委員長はふぅんとぼやいたのみ。そのうち直立不動の私に気付いて「わかった、もういい。あとは自分で考える」と応接室から人払いをする。
 さらに後日の、バレンタイン当日。
 今年も委員長宛に山ほどの菓子とチョコ類、花束などが届いた。
 しかし今年はチョコの没収物が一つもなかった。理由は、委員長が今年のバレンタインを認可したからである。多くの者がこの方針について驚いたが、風紀委員としては仕事が減ったわけでもあるので、委員長からの指示に困惑しつつも学校に持ち込まれるチョコその他はスルーする方向で決定した。
「委員長はどうされたんだろう?」
「さぁな。俺らの負担は減って万々歳なんだが…」
「なーんか変な感じだよなぁ」
「まさか本当なのかな。ほら、あったじゃん。外人掴まえての旦那宣言」
「ああー……でもあの人に限って冗談とか言うはずもないしな…嘘、にしては意味不明っていうか…」
「そういやあの人ときどき見かけるよな。赤毛ですらっとしてるからすぐ分かる」
「生徒じゃないだろ?」
「一時生徒だったときもあるぜ。三日くらいでいなくなったけど」
「なんだそれ」
「さぁ。で、今は並中とは無関係…のはずだけど、委員長が出入りを許してるし……」
「まさか、ホントに付き合ってんのかな。男同士で? あの委員長が?」
 仕事がなくなってお喋りに花が咲いている風紀委員にごほんと咳払いすると、慌てたように散っていった。気持ちはわからないでもないが、委員長に聞かれたら咬み殺されるぞ。
 今日の仕事が減ったとはいえ、副委員長としての仕事が減ったわけではないので、本日もやるべきことをこなしてお持ちする書類等を持って応接室へ。しかし委員長の姿はなく、書机の上には『僕宛のものは君達が処分するように』という書き置きのみがあった。
 今頃、ご自分の手で完成させたものをプレゼントされているか、デパートの特設コーナーのチョコでも購入しているのだろう。全く、あの方も変わったものだ。