結論から言って、僕は手作りチョコではなく市販品を買って帰ることにした。
 イタリアに住んでいた彼は舌が肥えている。僕から言う本場の味がわかるのだ。それに慣れ親しんでいる。日本のチョコはほとんどが油を含んだ偽物。そんなものを湯煎で溶かして型に流し込んで手作りとしたっておいしいはずもないし、そんなものより、デパートで列をなしてる有名ブランドのチョコを買っていった方が彼だって喜ぶはずだ。味は保証付きなわけだし。
 バレンタイン当日、混み合ってる人の群れ(それも女ばっかり)の中を突き進み、風紀委員の手を借りないで自分で選んで自分でチョコを買った。せめてそれくらいしなくては気持ちがこもっているとはいえない。人混みが嫌いなこの僕が、ジンマシンを堪えつつチョコを選んで買うんだ。嫌でも気持ちはこもる。
 世界的に有名なパティシエがうんたらって呼び込みをしてるブランドのチョコ、実際そのパティシエが実演してるブランドのチョコ、試食で食べてみてまぁまぁだったから選んだチョコなどなど。もういいだろってくらいは買ったので両手に紙袋を提げてデパートの特設会場を出ようとして、最後に特製のボックスに入ったチョコを見つけた。僕でも名前くらい聞いたことのあるブランドだ。
 …迷った結果、迷うくらいなら買おうということでハート型でデザインされた銀色の缶に入ってるチョコも購入した。今日一番高い値段を表示したレジを睨みつけてカードを提示、さっさとサインして最後の買い物をすませる。
 バイクの座席の下に潰れないよう気を遣いながら入れて、ジンマシンが出かけて痒い腕を叩く。掻くとあとでがうるさい。
「ただいま」
「おかえりー」
 僕の帰宅にが駆け寄ってくる、ことはなかった。夕飯の準備で手が離せないのだろう。今日はそれでよかったからほっとしつつ家に上がり、紙袋がぶつかる音がなるべく響かないように注意しながらそろりと居間に顔を覗かせる。台所にエプロンをつけた後ろ姿がある。
「ねぇ」
「んー?」
「今日がどういう日か知ってる?」
「バレンタインだろ。あ、キョーヤあんまり甘いの好きじゃないし、俺が用意したのお前の好きなネタのお寿司なんだけどよかった?」
 でバレンタインについて考えてたらしい。パタパタとうちわで酢飯の水分を飛ばしながらそう訊かれて「いいよ」と返し、こっちを見ないセツナに地団駄を踏む。

「はいはいはーい」
 何ぃ、とようやく僕を振り返った彼の目がまんまるになった。ぽかーんとだらしなく開いた口にようやく満足してこたつの机の上にどさどさ紙袋を置く。
「キョーヤ、何それ」
「チョコ」
「え、全部?」
「ほとんど全部」
「買ってきたの? それデパートの袋」
「だってバレンタインでしょ。全部食べていいよ。僕も味見くらいするけど」
 試しに一番安いやつを開けてみようと思って、量がありすぎてどれが一番安価だったかすっかり忘れていた。
 うちわを置いた彼が「わー順番に開けてみよ!」と僕のもとにやってきてぎゅってしてくるのがこそばゆい。やっぱりデパートの高品質のチョコを買って正解だった。まともに料理できない僕が『湯煎で溶かしたチョコを型に入れるだけ』の手作りチョコを無事完成させられるのかということもあるし、これでよかったんだ。
「キョーヤ赤いよ」
 べろ、と首を舐めてきたに身体がぞわっとした。こういうことを普通の顔で当たり前のようにしてくる彼にまだ耐性ができない。自分からするときは返されること前提で心づもりしてるから別だけど、こういう不意打ちは、心臓がすごくうるさくなる。「別に大丈夫」「ジンマシンだろ? 今日で特設会場おしまいで、すごい人だったろ。俺のために頑張ったの?」答えない僕をよしよしと甘やかす手。答えなくてもわかってるよって言ってるみたいだ。
 このままだと流されそうだったので、その腕から逃げるようにすとんと座り込んでこたつに入った。ジンマシンなんて気にしなければ大丈夫だ。僕はあなたのそばに帰ってきたんだから。
「ほら、開けてってよ。全部あなたのだよ」
 でもこれは最後、と一番高かったチョコだけ避けた。「よーし開けてこ〜」上機嫌な彼が僕を抱え込むような形で膝立ちで紙袋から包装されたチョコを取り出す。…わざとやってるんだろうか。この、背中がむずむずする感じ。押しつけられてる腰に硬いものがないことに違和感を感じるなんて僕も相当キテるな。
 一番大きな箱を包装紙を破らないよう丁寧に開封した彼は、収まっているハート型のチョコブラウニーに感激したように手を合わせた。「うまそう。そしてかわいい」「試食がやってて、まぁまぁだったから」「そっかそっか。ねぇ食べてもいい? ご飯前だけど、ちょっとだけ」「…いいよ」ブラウニーに釘付けの彼にちょっと笑って許可すると、パズルのピースみたいな形のブラウニーの一欠片をつまんだ彼が一口で口に入れた。
 それで、そのまま僕にキスしてきた。痒い、と腕を掻こうとしていた手がびくっと震える。
 こういうこと、僕はまだできないな。キスとか下手くそだし、この、口移しとか、すごい照れくさいし。照れずにやる自信がない。目も瞑っちゃうし。
 ぎゅっとされた手と指を絡めて握り合い、チョコレートブラウニー味のキスをする。
 甘い。ひたすら甘い。甘くて甘くて舌がおかしくなりそう。
「ぷは、」
 やっと解放されて大きく呼吸する僕には普通の顔だ。「うん、甘い。そしてうまい。デパート品質は違うなぁ」とか言いながら何もなかった顔で立ち上がって、僕の唇の端を舐めて「ついてる」と小さく笑ってから台所に戻っていった。ぱたぱたぱたと何事もなかったようにうちわで酢飯を扇ぎ始める。
 対して僕は、彼に気付かれないようひっそりと深呼吸したところ。
 ちょっとは。少しはこういうことに慣れたつもりでいたのに、まだ、全然だな。
(顔が、熱い…)