頭の出来はまぁ『上』の位置をキープするくらいにはあり、運動も頑張れば『上』の位置をキープするくらいにはできて、顔の偏差値といえばまぁ、自分で言うのもなんだが、それで苦労したことはない。二次元みたいなイケメンとはいかないが『現実ならまぁこんなものかな』程度にはできている。
 そんな俺が進路として選んだのは指名タイプの家庭教師だ。
 もともと大学時代からバイトとしてやり始めた。それがそのまま進路になった。
 新しいことに挑戦する…というような気力はあまりなかった。俺はどちらかといえば無気力でやる気のない人間であり、食っていける金のある仕事ならなんだってよかったのだ。
 ついでに言えば面倒くさくないこと…つまり、新しく憶えることもない、今までと同じようなことを続けていきたかった。だからバイトからそのまま契約社員という形で家庭教師の仕事に本腰を据えたわけだ。
 指名制の家庭教師となれば、生徒が先生を選ぶ要素というのは決まってくる。
 まぁまぁイケメン顔で優しく勉強を教えてやればついてくる生徒はいる。たとえ成績やテストに結果が出ずとも『先生となら勉強したい』と思うわけだ。結局のところ大事なのはその気持ちで、どれだけ結果の出せる先生がいても超スパルタでとっつきにくかったら生徒は自然と離れていく。それなら、結果が出なくとも優しくやる気が出るようなやり方で教えてやった方が人はついてくる。俺はその方針で大学時代から一定数の生徒を獲得してきた。
 中学、高校と幅広く生徒を教えているから、おかげさまで収入は安定しているし、貯金もできてる。暮らしには困ってない。
 …でも、つまらない、かな。
 土日以外はほとんど家庭教師の仕事で終わってしまう。朝はさすがに何もないけど昼はぼちぼち仕事が入るし、夜の平日は一ヶ月先まで仕事で埋まってる。それが窮屈だとは思わないけど、休憩の時間とかに勉強以外の話をするとき、話題がなくて、そのことに自分で困ったりする。
 そういうとき、俺ってつまらない人間なんだろうなぁとぼんやり考える。
 まだ日も高い昼間。不登校の中学生の英語を教える仕事を終えて、「ありがとうございました。またお願いします」と玄関先で頭を下げてくるおふくろさんに「いえ、こちらこそ。クッキーおいしかったです」と頭を下げ返してちらりと視線を上げると、二階の窓からこっそりと手が振られていた。
 再度頭を下げてから歩き出し、ポケットの中で携帯が震えていることに気付いた。不自然でない早足で角を曲がって、画面に表示されている社長の名前にすぐに通話を繋げる。
「はい、です」
『おう、お疲れさん』
「お疲れさまです。どうかしましたか?」
『おうおう、それだ。お前さん昼の仕事は終わったんだな?』
「ええ。今しがた」
『よしよし。悪いんだけどよ、ちょっと雲雀さんとこ行ってくれないか』
「はぁ…雲雀さんのところですか……」
 胡乱げに返すと電話の向こうで上司が咳払いをした。それで声を潜めてぼそっと『やりにくいのは分かる。あの家はお堅いしな…人をまず見た目で判断しやがる。人間中身だろ、中身』「…社長」『で、そんな雲雀のお家の眼鏡に適ったのはお前だけなんだ。な、頼むよ。今度奢りで飲みに連れてってやるから。なかなか人脈の広い家みたいだし、いい顔でウチを売ってきてくれ。頼むぞ』「……はぁ」こめかみを指で押して刺激しつつ、駅ではなく近くのバス停目指して進路を変えて歩き出す。
 雲雀というのは、この辺りで古くからある名家だ。和風で趣きのある古く広い家を持ち、日本庭園を有した敷地はいつも手入れが行き届いている。住まう人、お手伝いさんも含めて全員が和服の着物を纏って当たり前のように生活していて…最初に門をくぐったときはタイムスリップしたのかと思ったほど、そこは現代からは切り離された場所だった。
 今から置いていかれたようなその場所に、雲雀恭弥という男の子がいる。
 肌と瞳以外だいたい真っ黒な格好をしていて、身体が弱いらしく、学校に通っていない。常に退屈そうに布団の上でゴロゴロしていて、俺が行くと気怠そうに起き上がって預けた教科書を放り投げてくる。
「もう読んだ」
 3週間前に預けた英語の教科書をもう読んでしまったらしい。「中身理解してる?」12歳がつまらなそうに放り投げるほど内容のない教科書ではないんだけどな、と呆れ半分で問うて畳の上に転がった教科書を拾い上げる。これ俺の私物。人のものは大切に。
 たまたま開いていたページには書き込みがしてあった。鉛筆で丸っこい文字の英文に目を通して、次の応用問題のあるページへ。これも書き込みで回答がしてある。
 練習問題は次のページに回答が載ってるけど、次の応用問題の回答は教科書から切り離してある。つまり…たとえパソコンや辞書で引いて調べたんだとしても、雲雀は問題を解いていたということになる。
 丸っこい文字の英文を指でなぞると黒ずんだ。…特別不自然ではない文法だ。ベストアンサーとはいかないけど、意味合いは伝わるというか。
 この調子だと練習も応用も教科書の問題は解いてしまったんだろう。つまらなそうなあの顔で。
「雲雀は頭がいいな」
 ぽつりとこぼすと雲雀がじろりと俺を睨んだ。「恭弥」不機嫌そうに訂正されて肩を竦めて返す。
 本人曰く、ここにいる人間のほとんどは雲雀という苗字なのだから、自分のことを言うなら名前の方で呼べ、ということらしい。
 そうは言われても困るんだけどというのが俺の言い分だ。
 家庭教師にとって生徒はお客様だ。学校の先生と生徒の関係ではいられないし、学校だって生徒を名前で呼び捨てにする先生なんていないはずだ。
「じゃあ恭弥くんでどう?」
「恭弥」
 妥協してくん付けにしたのに不機嫌そうに呼び捨てにしろと睨まれ、ふぅ、と一つ溜息を吐く。
 雲雀のご両親はかなりお堅い昔の人だ。そんなご両親を持つせいか一人息子はお堅いのが嫌いらしい。
「恭弥。ちゃんと座りなさい」
 猫か何かみたいに上半身だけを起こした格好で俺を睨み上げていた恭弥は、ふんと顔を背けるともそもそ起き上がって布団から這い出した。黒い座椅子に腰かけると一つゆっくりと呼吸する。
 静かな振動は、締め切られた部屋の空気清浄機の音だ。
 この家はどこもかしこも和で統一されているが、恭弥の部屋にだけはこういった現代のものが置いてある。パソコン然り、携帯然り、テレビ然りといった感じだ。そんな家…いや、恭弥の部屋だから、立ち入るのはかなり気を遣う。頭の天辺から革靴の先までアルコールで消毒しまくるし、うがい手洗いなど菌のケアもひと通りすませる。…そういうことが面倒だから俺はなるべくこの家に来たくないわけだ。
「今日はどれがやってみたい?」
 私物である教科書を机に並べると、灰色の瞳が舐めるように紙の本を辿る。「全部、あなたの?」「そうだよ。昔使ってたやつ」「どうして今でもとってあるの」「いつか使うだろうってやつだよ。実際今使ってる」手こずった古文の教科書を指で叩くと恭弥がひったくるように持っていった。ぱらぱらページをめくって綺麗な顔に皺を作って顰めてみせる。
 雲雀恭弥というのは本当に男子か? って首を捻るくらいに綺麗な顔をしている。自分のことをそれなりのイケメンだと自負している俺がそう思うくらいなんだから恭弥は間違いなくイケメンだ。本人はそれを活かそうとも思ってないようだけど。
 まぁ、病弱なんじゃ、イケメンだろうがそうでなかろうがどうでもいいことなのかもしれない。モテるモテない云々より、欲しいものは健康だろう。
「…なんで昔のことなんて勉強するの?」
 古文の教科書を流し読みしている恭弥の顰めた声にさぁと肩を竦めた。「歴史を知ろうってやつ?」「知ったところで何にもならない」「そうだな。仰るとおり」「振り返ったって意味のないことやって、人間は、何がしたいんだろう」閉じられた教科書がテーブルに落とされると、ばさ、と音を立てた。
 和服のきれいなお姉さんが持ってきてくれた日本茶を一口すする。
 俺も思った時期があった。数学とか使わない人間がやったところで無意味だ、って。算数ができれば日常生活には困らないだろ、って。
「人間は忘れる生き物なんだ」
 ぼやくと、湯のみを手にした恭弥が俺を睨み上げた。「だから?」棘のある声に苦笑いをこぼしておいしいお茶を一つすする。
「脳は機械みたいに万能じゃない。容量は限られていて、起こる出来事の全てを憶えていられるほど高性能じゃない。
 メモリーがいっぱいになったらどうする? パソコンならいらないデータを消去したりするだろ。脳はそれを勝手にやる。選べないんだ。大切なことを忘れたり、忘れたいことを憶えていたり……。人間は忘却する。だから、忘れないために、反復するんだよ。歴史や、行動や、思考や、概念…そうしないと人間はどんどん忘れていくだけだ。先人の智慧もそうなれば意味がない。忌むべき失敗も忘れていたんじゃ意味がない。だから、俺達は勉強する」
「生涯学習、ってやつ?」
「まぁ、そうかな」
 ふーんとぼやいた恭弥はつまらなそうに現代科学の教科書を広げた。
「間違ってるんじゃないの」
「え?」
「人間は個体差のある生き物だ。パソコンで言うところのCPUってやつ。生まれたときから性能に違いがある。
 僕やあなたは勉強ができるからいいけど、できない人間もたくさんいる。そういう個体差を考慮したら、人間全てに同じことをやれって強いるやり方は、パンクするパソコンを増やすだけの愚かな行為だと思うけど。処理能力に応じたことをやらせるべきだ」
「そうだな。日本の教育スタイルは時代遅れというか、世界の流れからいっても遅れてると思うよ。個人個人にあったレベルの勉強をするべきだ。だから恭弥は難しいことをやってるんだろ」
 そういうとこ好きだよ、と黒い髪に触れると機嫌悪そうに叩き落とされた。「子供扱いしないでくれる」と不機嫌そのものの声で。
 別に、子供扱いしたわけじゃないんだけど…。恭弥には俺の戦法が通じないなぁ。甘いマスクで甘いことを言えば中高生の女子なんてころっと落ちてくれるのに。
 古文と現代科学の教科書を預けて、次に呼ばれたのが一ヶ月後だった。また社長直々のお願いだ。しょうがないので雲雀家に向かい、念入りに自分をアルコール消毒してから向かうと、恭弥は布団の中だった。
「恭弥?」
 呼ばれたわけだからてっきり調子がいいのだろうと思っていたのに、恭弥は涙目でダルそうに頭を持ち上げて布団の中から教科書を放ってきただけで力尽きた。「恭弥、大丈夫なのか」思わず枕元に膝をついた俺を涙で濡れた目が恨めしそうに睨み上げてくる。「だいじょうぶに、みえるわけ」「見ないけどさ」「だったら、すこしは、やさしくしたら…びょうにんなんだから……」こんこんと咳き込む恭弥の弱い声に困惑して、病人に優しくするってどうすれば、とテンパる。
 とりあえず頭でも撫でておけばいいだろうか、とそっと黒い髪に触れると汗ばんでいた。温度なんて感じてませんってくらい常に黒い着物姿で涼しい顔をしている恭弥の額を指でなぞる。やっぱり、湿っぽい。
「調子悪いなら、今日はもうよそう。また調子がいいときに呼んでくれれば来るから」
 これじゃあ勉強にならないし、調子の悪い人間のそばにいるだけで正規料金をもらう気にはなれない。今回は足代さえもらえればそれでいいってご両親に伝えて…。
 考えている俺の手を恭弥の熱い手が掴んだ。泣きそうだ、と思うくらい濡れていた瞳からついに涙がこぼれて肌を伝って光る。
「いかないで」
 それは、涙に濡れた綺麗な顔に懇願されると何かを勘違いしそうになる、甘い響きにも聞こえる言葉。
 一呼吸で自分を落ち着け、恭弥の熱い手を握ってゆっくりと離す。「勉強は逃げないよ」やんわりと諭す俺に恭弥は頭を振った。黒い髪がさらさらと揺れる。
「あ、あなたが、いっちゃう」
「…えーと」
 そう言われても、俺も困ってしまうわけで。
 恭弥は俺の手を離すまいと握ったままで、俺はそんな恭弥に困惑したままで、何分か過ぎた。時間が経過したことで少しは気持ちが落ち着いたらしく、恭弥はもう泣いてないものの、明後日の方向に視線を逃がしながらも俺の手は離してくれない。
 なかなかに、気まずい。
「…僕の、両親」
 ぼそっとした声に首を捻ると、恭弥はそのままぼそぼそとした声で続けた。「僕が体調を崩す度に、僕に無関心になるんだ。そんなに弱い子に産んだ憶えはない…我が子が情けないって目で、いつも、僕を見てる。だから、今日だって、元気だってフリをしてあなたを呼んだ。できることをしないと、僕は、誰にも必要とされないから……調子が悪くたって、勉強しないと…」また泣きそうに声が歪む。
 そういえば、恭弥のご両親と恭弥が並んでいるところを、俺は一度も見たことがない。
 …恭弥は俺に救いを求めていたんだろうか。自分に許される限りの方法と手段で、不自然でないことを心がけながら、自分の居場所を捜して、この狭い部屋で膝を抱えていたんだろうか。
 握られたままの手が微かに震えているのが分かる。
 ふっと吐息するとミントの香りがした。ブレスケアのあれだ。ここに来るときはいつも噛んでくる。
「今日は、講義にしようか」
「…?」
「個人的に好きな先生の授業があってさ。哲学なんだけど、なかなか面白かったんだ」
 片手で鞄を引っぱり寄せて手を突っ込み、iPadをオンにする。「恭弥はタブレット触ったことある?」「…ない」はい、とiPadを枕元に置くと恭弥は迷うように視線を彷徨わせたあと、俺の手を離した。興味心には勝てなかったようで人差し指であれこれタッチして操作し始める。
 見渡せば、何でも揃った和室の部屋がある。
 空気清浄機、エアコン、小さな冷蔵庫、テレビ、パソコン、畳に転がっている携帯…。たいていのことはこの部屋にいればできる。それは言い換えれば『必要なとき以外部屋から出るな』と言っているようにも思えた。
(行かないで…か)
 甘い響きに聞こえた声を思い出して緩く頭を振り、そんな俺に見上げてきた恭弥に曖昧に笑って黒い髪を撫でた。この間は叩き落とされたものだが、恭弥は目を細くすると視線をiPadに戻し、何も言わなかった。ただ、少し嬉しそうな顔で目元をやわらかくしていたのが印象的だった。