僕がよく分からない病気にかかっていると知ったときの母の一言を、今でもよく憶えている。
 悲痛そうに沈んだ面持ちで父に肩を抱かれて、掌で顔を覆った母は、こう言った。
『こんなことになるなら、おろせばよかった』
 当時はその言葉の意味も分からなかったけど、倒れて入院したその日を境に父と母は変わった。
 家の自室は殺菌や消毒といったたくさんのことをされ、頑なに拒んできた機械類もたくさん置かれて、『好きなことをしなさい』と言われて、最初は喜んだ。ゲームとか、テレビとか、パソコンとか、触れてみたかったことがたくさんあって、昼夜問わず夢中でいじっていた。
 そして、気付いた。学校へ行っていないのに叱られないこと。父と母が僕の顔を見ないようになったこと。
 そのうち僕は子供をおろすという言葉の意味を知って、一人で傷ついて、泣いて、どうして母がそんなことを言ったのか、父がその言葉に大して何も言わなかったのかを知る。
 父と母の間にはなかなか子供ができず、やっと恵まれたと思ったら一人目は死産だった。跡取りがいないことには家は成り立たないと、両親は頑張って、二人目を授かったけど、今度は流産だった。母の体力的にも年齢的にも次が最後。それが僕だった。
 跡継ぎとなるべき男子だ。両親はさぞ喜んだことだろう。でも、死産や流産に影響されてか、僕は健康体ではなかった。そのことに落胆していた。
 もう母に出産は無理だ。僕を帝王切開で産んだから。
 でも、父は元気だから、母という人にこだわらなければ、自分の血を継ぐ健康的な子供に恵まれたいと思うなら、可能性は残っている。母と僕を捨てればいい。新しい若い奥さんをもらって頑張ればいい。雲雀はお金も権力もある家だ、捜さなくても人は寄ってくるだろう。
 父は鬼になれなかった。僕と母を捨てられなかった。僕はとても普通に生きてはいけないし、母は世間知らずで仕事らしい仕事をしたことがない。僕らを家から放り出すということは死ねと言っているようなことだと、父は思ったのだろう。そしてその解釈は大げさではなく、間違ってもいない。
 生きていく限りお金は必要で、離婚届にサインをもらう代わりにそれなりの金額を引き換えたとしても、医療費のかかる僕と母の生涯分には到底足りないだろう。
 僕は常に死刑台の上に立っているようなものだ。
 この狭くて何でも整えられた部屋が死刑台で、僕の首には縄がかかっていて、いつも息がしづらい。いつ足元の台がなくなって首が絞まるかと怯えながら息をしている。
 ……でも、人生というのは上手くできていて、神様は僕から何もかもを奪いはしなかった。
 健康な身体はないけど、僕は勉強ができた。
 全てがないわけではない。せめてあるものにしがみつかなければ、首の縄は絞まる一方だ。
 学校には行けないけど、部屋で勉強することはできる。パソコンもテレビもある。知識には困らない。
 でも、一人でやる勉強は所詮自己満足だ。投げようと思えばいつでもやめてしまえるし、興味が湧いたこと以外へのやる気というのは出ない。それでは学力は向上しないだろう。
 満足に外に出られないなら塾に通うこともできない。そうなれば残るのは自宅学習に合わせてくれる家庭教師くらいのものだった。
 色々なサイトを覗いては捜してさまよっているうちに、胡散臭そうなおじさんが社長として経営している指名制の家庭教師派遣専門のサイトを見つけた。
 そこでは顔写真と簡単なプロフィールつきで先生を紹介していた。有名大学に生徒を合格させたという先生とかは動画つきで自己紹介していたけど、僕が目に留めたその人は柔和な顔で微笑んでいるだけで、紹介文も本人の『一緒に頑張りましょう』というありふれた一言だけ。
 色々なところを睨みつけたけど、先生に家まで来てもらう交通費なんかも負担しなければいけないことを考えると、あまり遠いところから来てもらうわけにもいかない。胡散臭そうだけどこの派遣サイトが一番安価ですむ気がする。初回の先生はみんな半額で試せるし…合うまで先生を変えていって安くすませるという手もある。胡散臭いけど、子供の僕が考えても、この辺りが妥当な気がする。
 …といったことを書面にして両親に提出すると、あっさり許可が出た。他所の人間をうちに上げるということに苦い顔はされたけど、頭から却下されることもなかった。何かしら苦言されるだろうと思っていたのに、拍子抜けだった。
「…、」
 布団から手を伸ばして枕元の携帯を掴む。緊急時に連絡さえできればいいという目的でもたされた携帯は折りたたみ式で、フリップを弾けば上部が液晶画面、下にボタンがある。
 12時を過ぎてる。寝すぎた。ちょっとうとうとするつもりでいたのに。
 これ以上寝たら夜寝られない、と布団から這い出して、部屋の障子戸を開ける。誰か通りかからないかと顔を出していたけど誰も来なかったので、仕方なく、家にいるのに家に電話をかけた。『はい、雲雀でございます』お手伝いさんの声にぶっきらぼうに「僕だけど。布団干してほしくて」『坊ちゃま。すぐ伺います』慌てたように受話器の置かれる音に携帯を閉じて畳の上に転がす。
 だいぶ、暑くなってきた。今年は空梅雨だって話だけど、過ぎたら、夏が来る。ダルいな。この部屋にいれば涼しいけど、退屈だ。一人で勉強しているのには限界がある。
 やってきたお手伝いさんが布団一式を持っていく。ついでにおやつと飲み物を頼んでパソコンの電源を入れ、座椅子に腰かける。
 起動したパソコンのトップには先生のiPadから送ってもらったデータファイルが貼りつけてある。
『別に、教師を目指してたとかじゃないから、講義の練習みたいなビデオもないんだ。…つまんないものでいいならあるけど』
 若干照れくさそうにした先生が見せてくれたのは、高校時代、気紛れでやっていたというバンドの映像だ。先生がボーカルで、普段僕を教えているスーツ姿からは想像できないくらいうるさくて、叫ぶようにして歌っている。
 僕には歌の良し悪しはよく分からないけど、声を枯らして歌っている姿はまんざらでもなさそうだった。
 先生から借りた古文の教科書を睨みつけながら、英語で何か叫んでいるかつての先生の声を聴きながらパソコンで辞書を引く。英語の方が簡単だ。古文は難しい。僕がやるレベルの問題ではないから当たり前だって先生は笑ってたけど。
 でも、分からないものは苛々する。スッキリしない。物事には分からないでいた方がいいこともあるって知ってるのに。
 僕は知らなければよかったんだと思う。両親が跡取りの子供という条件で手を繋いでいたことや、もう期待されていない自分のことや、こんな僕を見る人の目のこと…全部に気付かない馬鹿な子供ならよかったのだと思う。
 暗くなりかけた思考に『はろー』という声が届いた。
 俯いていた顔を持ち上げると、ステージ全体を映していたカメラが下手くそにブレながらマイクを持った若い先生をアップにしていく。
 スポットライトを浴びて眩しそうに目を細くする先生は輝いていた。きっと、僕には一生できない輝き方で、健康的な汗で。『お越しくださってありがとうございます』と頭を下げた先生はTシャツの袖で汗を拭った。そのさりげなさがキラリと光る。
 …きっとモテたんだろうなと思う。背も高いし、勉強もできるし、運動もできるって言ってたし、この分だとカラオケとかでも歌えるのだろうし。弱点っていうか、そういう要素が見つからない。本人曰く、スペックが違うのに一緒にいると比べられるって、同性からは遠巻きにされてたらしいけど。
 僕なら、一緒にいたいけどな。キラキラ光ってる先生の隣でその眩しさに目を細めていたい。
『実はあそこでカメラが回ってて、このライヴを撮ってるんです。あ、もちろん許可は頂いてます。個人的に俺がお願いしたことなんです。
 こう言っちゃ怒られるかもなんですが、俺はあまり向上心はなくて。後学のために…というよりは、いい想い出にしたいと思ってお願いしました。
 これで俺にとっては最後のライヴになります。高校に入っての三年間限定ではありましたが、馬鹿みたいに声を枯らして歌うこと、嫌いじゃありませんでした。
 今までありがとうございました。また何かの形でお会いできたら、光栄です』
 ぺこりと頭を下げた先生は、言葉の通り、これでボーカルを辞めたらしい。
 歌の良し悪しは僕には分からないけど。意識はすっかり古文を放り投げて、途切れてしまった映像をもう一度最初から再生して、マイクスタンドを振り回すみたいにして英語を叫んでいる先生を見ている。
 今日はなんとなく先生と勉強したい、と思ったら電話を一本かける。僕が雲雀だと伝えるだけで先生はすぐに来てくれるか、別の子を見ていたらその時間が終わってから来てくれる。今日も、急に呼び出したけどちゃんと来てくれた。
 本当は『勉強のために』先生に会いたいんじゃない。本当は……。
 思いかけたことに緩く頭を振る。
 真実は優しくない。知らない方がいい。気付かない方がいい。僕は身をもってそれを知ってるじゃないか。
 古文の教科書を広げてページをめくる。先生はiPadで何か資料の検索をしているところだ。
 ページを繰る指をゆっくりにしながらちらちらと先生を窺う。…きっと先生の授業を選んでる子はこういう気分が味わいたいからこの人を選ぶんだろう。いくら有名大学に合格させるだけの実績があっても、隣にいるのが頑固親父とかじゃね。やる気が出ないっていうか。その点先生は隣にいてほしい要素を兼ね備えてるっていうか…。
 ぼやっとしていたら先生とぱちっと目が合ってしまった。慌てて教科書に目を落としてページをめくる。それでもいたたまれなくて、言わなくていいことを言ってしまう。
「先生、CDとか今でも持ってるの」
「CD?」
「三年もバンドやってたなら、一枚くらいあるでしょ」
「まぁ、あるけど。シングルが5枚で、ライヴ音源とアルバムが1枚ずつだったかな」
「聴きたい。今度持ってきて」
「いいけど…恭弥、ああいう歌聴くの?」
 首を捻った先生の視線から逃げるように古文の教科書に視線を落とし、分からなくて進んでいないページを開く。「僕の勝手だろ」ぼそぼそ返せば先生は肩を竦めた。
 先生との距離はいつも近い。多分20センチもないと思う。
 先生は、僕の家に来るときはいつも僕に気を遣ってアルコールで自分を消毒したりしているらしい。そのわりにいつも甘いにおいがする。香水じゃないんだとしたら…フェロモンってやつだろうか。
「どこで引っかかった?」
「…ここ」
 解釈の仕方がよく分からない文を指す。眉間に皺を寄せて古文を睨みつける僕に先生が首を傾げた。派手でも地味でもないブラウン色の髪が揺れる。
「恭弥はこれがやりたいの?」
「…どういう意味?」
「分からないことをやるんじゃなくて、やりたいことをやった方がいい。今何に興味がある? 音楽に興味を持ったなら、そっちに勉強の方向を変えるのはありだよ。その方が楽しく学べると思う」
 何か言いかけた口を閉じて、僕は言葉を呑み込んだ。
 あなたに興味がある。そんなことを言ったってしょうがないし、変だ。変に思われる。
 でも、せっかくの提案だ。白紙にしてしまうのはもったいないと一生懸命考えた。「じゃあ…音楽、で、ギター、とかは」「ギター?」「先生、歌えるなら、弾き語りとかできるんでしょ」頭の中にあるのはステージの上で叫ぶように歌っていたかつての先生の姿だ。「俺はあまり上手じゃないよ、ギター」苦笑いで逃げようとする先生に「それでもいい」と顔を寄せると近い距離がさらに近くなる。自分で距離を詰めたのに、その近さに、僕の方が逃げたくなった。
(先生、肌がきれいだ。僕の生白いのとは違って健康的で。部活とか、してたんだろうな。高校はバンドで…中学は何をしてたんだろう。サッカー? テニス? 陸上とか?)
 何をしてもどうせ似合ってしまうんだろう。そういうのってすごくズルい。
「せんせは、部活は、何してたの」
「え? 部活?」
「部活」
「えーと…中学はバスケと陸上の掛け持ちに、二年からは生徒会も入らされて、忙しかったかな。高校は、部活はパソコンいじる文芸系の適当なやつとバンド。大学は色んなところにぼちぼち顔を出したかな。バイトもあったし」
 それが何? と首を傾げたままの先生に興味のないフリをして座椅子に腰かけなおし、古文の教科書を閉じた。「疲れた」なんて嘘だけど、先生は僕の嘘を見抜けないから、「じゃあちょっと休憩しよう」と当たり前のように提案。今日は暑いし冷たいものを持ってくるよう電話でお手伝いさんに頼んだ。
 BGMの一つもないのが気になって、つけっぱなしのパソコンを操作して先生の動画を再生すると、マウスを握る手に先生の手が重なってクリックして再生を止められた。
 僕の手に先生の手が被さった、それだけのことで、心臓が痛み出す。嬉しくて。
「照れくさいから、俺がいるところではやめて」
 困ったように笑う顔をぼんやり見上げて、霞む視界を着物の袖でこする。
 …まだ、手が重なったままだ。
 熱い。
(マズいかも……)
 トクトクトクと速くなっていく左胸をぎゅっと押さえる。
 長ったらしくて病名なんて忘れたけど、僕の心臓は病気を抱えている。だから運動なんてできないし、何もしてなくても調子が悪くなったりする。
 身体の源、動力源が弱いから、全てが弱い。せめて意志くらいは強く在ろうと今まで頑張ってきたけど。だけど。それも。疲れてきてしまってる。
 ぐっと唇を噛んで身体が落ち着くのを待った。お手伝いさんの「失礼します」という控えめな声で先生の手がするりと逃げていく。もう心臓を騒がせる原因の体温は離れたのに、まだ落ち着かない。
 お手伝いさんが静かに入室して冷たいお茶とお茶菓子を用意していく。
 何も言わない僕にちらりと視線をやった先生が代わりに「ありがとうございます」と頭を下げる姿を視界の片隅に収めながら、じっと黒いテーブルを睨みつけて硬く拳を握り続ける。深く、ゆっくりした呼吸を意識して、とにかく気持ちを落ち着かせようと努力する。
 お手伝いさんは静かに退室していった。
 お茶を一口すすった先生が一言も発さない僕に困った顔をしている。
「恭弥、大丈夫?」
 …そんな何気ない一言で、気が抜けてしまったらしい。ほろりと涙がこぼれて、先生が目を見開いてぽかんと驚いた顔をした。背中を丸めて前のめりになった僕に「恭弥? 大丈夫か? 誰か呼ぶ?」と慌てたように立とうとする先生の手を掴む。
 せっかく離れたのに、今度は自分から触れてしまった。
 ああ、ほら、心臓が痛い。嬉しくて。
「誰も、呼ばないで」
「だけど…」
「誰も、呼ばないで。お願い。大丈夫だから」
 立ち上がりかけた先生の手に両手で縋った。必死だった。両親に知られたくなかった。心配しているというよりは、呆れている、諦めている、そんな目で見られることが嫌だった。
 先生は困った顔のまま膝をついて、座布団の上に座り直した。僕の手をやんわり握って離すと「俺にできることは?」と優しく訊いてくる。
 僕が発作を起こして寝込んでいると、お手伝いさんがだいたい同じようなことを訊いてくるのに、全然違う。それは、たぶん、僕の贔屓目と、相手の気持ちの入れ方の違いだと思う。
 ここにいる人達は僕が発作を起こすことに慣れてしまっている。だから、そのことで心配するんじゃなくて、またか、とかそんなふうに思っているんだろう。だから同じニュアンスの言葉でも先生の方があたたかく感じる。僕のことを本当に心配してくれている、そう分かるから。
 先生、モテたんだろうな。絶対そうだ。告白されて付き合うタイプだ。自分から告白したこととかない人だ。絶対、そう。
 息苦しくて涙の滲んだ視界で先生を見上げて、やんわり握られている手をぎゅっと握り返す。そのまま、先生に寄りかかるみたいに体重を預けると、胸の動悸はさらにトクトクと早鐘を打ち始める。…でも、痛みと苦しさは少しマシになった。
 ここには僕を心配してくれる人がいる。だから、気持ちが楽になったんだろう。心を預けられる人がいるから。
「恭弥? 大丈夫か? 座ってられないほど苦しい? 横になる?」
 …ほら。優しい。
 すっと頬を流れていった涙には知らないフリで、先生のスーツにそっと頬を押しつけた。甘いにおいがする。「…大丈夫。だから。こうしてて……」ぽそっとこぼした小さな声を先生はちゃんと拾ってくれる。ちゃんと手を握っていてくれる。もう片手で僕を支えるように背中を抱いてくれる。
 先生が優しいのが嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらない。
 発作で苦しいのに、なんだかとても幸せだ。
(そんなに優しいと、僕、あなたのことを好きになってしまうのに)
 ただでさえ茨の道と分かっている人生なんだ。これ以上棘を増やす必要はない。
 先生を好きになってはいけない。生きることが余計に辛く苦しくなってしまう。そう、分かっているのに。
 先生の手が一定のリズムで僕の背中を撫でていく。「…せんせ」「ん?」「寒いから、だきしめて」寒いなんていうのは嘘だった。本当は発作の苦しさと先生の体温の近さに熱いくらいだった。でもそう言った。せめてもの幸せに浸りたくて。
 先生は優しいから、僕のことを抱き締めてくれた。さっきよりもっと先生に密着する形になって、ストライプ柄のワイシャツに顔を埋める。鼻腔をくすぐるような甘いにおいがする…。

 もしも死に方を選べるのだとしたら、今、この瞬間がいい。そう強く思うほど、僕は先生のことが好きになっていた。