僕は、あなたがほしい

 まだ朝陽の見えないうちに目が覚めて、布団の中で抵抗してみたけど眠気は訪れなかった。仕方なく起き上がって目をこすって時計を見ると、まだ五時半だった。こんなに早く起きても無意味だと思ったけど、目が覚めてしまったものは仕方がない。
 部屋を出て、しんと静まり返っている廊下を歩く。階段を上がってすぐの部屋の前に行く。何度か躊躇ってからノブに手をかけて回すと、開いた。どうやら彼は鍵をかけていないらしい。
 滑り込むように室内に入る。ぱたんと扉を閉めて、音を立てないよう細心の注意を払いながらベッドに近づく。
 彼は眠っていた。長身を折り畳んで、子供のように丸くなって、実に寝にくそうな格好で。
 必要なものを買えばいいと彼にお金を預けたけど、夜着は買ってこなかった。僕の着物のままだった。別に構わなかったから指摘しなかったけど、彼は日本文化の吞み込みも早い。文字の読み書きはまだ十分ではないけど、料理の味付けも、着物の着付けも、何度か教えれば憶えてしまった。憶えてくれればそれが早いと思ってたけど、僕の指摘を必要としなくなった彼につまらないなとも感じた。
 俺、これが終わったらこっち側の仕事は引退しようと思う。そう言った彼の顔を思い出してぎりと強く歯の根を噛み合わせる。
 勝手だ。本当に勝手だ。あなたがいたから僕は仕方なくリング争奪戦っていうのに加わったのに、これが終わればあなたにもう少し近づけるんだろうと思っていたのに、そんな僕の期待をこの人は易々と裏切る。
 これが終わったら。僕はボンゴレの雲の守護者っていうのに正式になって、ボンゴレに所属する彼に触れる権限も与えられるだろう。彼を僕のものにすることもできるだろう。そのために仕方なく指輪を持っているだけだ。そのために一つ余計な肩書きを背負うだけ。
 ベッドに座ればぎしと軋む音がした。彼は目を覚まさない。手を伸ばす。彼が適当に自分で切った前髪を指で揺らす。美容師もできるよ、なんて笑った彼を思い出した。
 短くなった彼の前髪を梳く指先が震える。
 別に今日の雲戦なんて怖くない。あんな機械相手に僕が負けるはずもない。
 でも勝った先にこの人が待っていないのだとしたら、永遠に戦いなんてこなければいい。この日々がずっと続けばいい。ずっとずっとこの人を僕のそばに置いておく。たとえこれが群れる行為なのだとしても、僕はこの人を離したくない。
 ついと指先を動かして、少し開いてる唇をなぞった。指で触れるのと唇同士で触れるのは感触が全然違うのは、どうしてだろう。
 眠ってる彼に黙って口付けるのは。これで何度目だろうか。
 重ねた唇から漏れる吐息がくすぐったい。
 いつかの彼の真似をして緩く唇を噛んでみる。舌でなぞってみる。舐めてみる。学校でキスしたあのときを思い出した。飽きるくらい呆れるくらいキスを重ねたのに、僕は懲りていないようだ。むしろもっとと思考が浮つく。こんなふうに勝手にキスするのはよくないことだと思ったけど、求めてしまうのだから、仕方ないじゃないか。
 何度目になるのかわからないキスをして唇を塞いだとき、ふわりと首の後ろに腕が回って目を見開いた。気付けば蒼の瞳が僕を捉えていて、重ねただけの口付けが、口内を舌が蹂躙するものに変わる。
「ふ…っ」
 ぐっと彼の肩を掴んで引き離そうとしたけど、思っているよりずっと強い力で引き寄せられていて、離れない。あっという間に頭に血が上る。拳を握って彼の頭に叩きつけようとして、寸前で思い止まる。
 殴って、引き離して、それでどうする。勝手にキスしてた僕が悪い。彼が怒るのも仕方がない。こんなふうにされることも、仕方がない。
 彼の海に溺れて、必死に息をする。彼を求めて喘ぐように息をする。必死になる。溺れて沈んで死にたいなんて思ったけれど、まだ死にたくはない。生きてこの海にいられるのなら、生きたまま、ずっと漂っていたい。
「ん、」
 彼の舌が僕の舌を絡め取る。唾液が飲み下せずに顎を伝った。
 酸素不足に頭がくらくらしてきた頃、ようやく解放されて、ちゅっとリップ音を残して彼の顔が離れた。
 は、と肩で息をしながらぼんやりした頭で彼を見つめる。「キョーヤ」と優しく僕を呼んで髪を撫でているこの人は、ちっとも怒ってなんていない。
「びっくりした。目が覚めたらキョーヤがいて、キスしてるから」
「………」
 拳で口を覆ってぷいとそっぽを向く。伝った唾液を拭って「怒ってないの」と訊くと彼は笑う。「怒ってないよ」と。「じゃあさっきのは」と訊く僕に彼は首を傾けた。「キスには色々あるんだよキョーヤ」なんて言われて、そんなこと知るはずもない僕は黙するしかなくなる。
「今日はキョーヤの出番だね。不安だったりしない?」
「そんなわけない。僕は誰にも負けないよ」
「そうだね。キョーヤは強いもんね」
 微笑んだ彼に、少し迷ってから口を開く。こんなのは女々しいし全然僕らしくないと思ったけど、そのせいで不安な気持ちがあるのは確かだったから。
「あなたは、どこにも行かないよね」
「俺?」
「昨日ふざけたことを言ったでしょう。そんな勝手は僕が許さない」
「あー。うん、どこにも行かないよ。キョーヤのそばにいようと思う」
 にこりと笑った彼に、何度か瞬きして現実を確かめた。「昨日と、言ってることが違うけど」「考えたんだよ。キョーヤが俺がいないと駄目っていうなら、俺はキョーヤのそばにいるよ」やんわり笑った彼の指が僕の前髪を揺らした。
 あっさりだった。あんなに僕が悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
 どんと彼の胸を叩くと痛いって顔をされた。ずいと顔を近づけて噛みつくようにキスをする。胸を叩いた腕を掴まえられて、引き寄せられて、唇を舌がこじ開ける感覚に目を閉じた。
 迷いはなくなった。あとは勝つだけだ。それで彼が、未来が手に入るのなら、何も文句ない。
 彼を伴って並中に行くと、草食動物の群れがいた。「お、ハヤトとリョーヘイとタケシだ」彼はちゃっかり名前を憶えているらしい。でも僕は彼らに興味はなかったからスルーした。
「あれ、リボーンは?」
「ツナを連れてまだ修行中だぜ。えっとー」
「俺って言うんだ。ヨロシクね」
 にこりと笑った彼に「こっちこそよろしく頼むぜ!」と山本武が笑い返す。それに苛々が上昇する。
 ついてくるって言ってきかなかったから連れてきてしまったけど、こういうのが想像できたから本当は家で待っててほしかったんだ。僕以外の誰かに笑いかける彼なんて見たくないから。
 だけど、せっかくだから勝負を見ててほしいと思ったのも事実。これで僕が勝てばそれで終わりなのだから。
 握手さえ求めようとする山本武の前に割り込んで「目障りだ。消えないと咬み殺すよ」と睨むと「まーまー、オレ達はぐーぜん通りかかっただけだぜ。気にすんなよヒバリっ」明らかな嘘で山本武は笑う始末。トンファーで殴りたいと思っていると、ぺちと頭を叩かれた。肩越しに振り返ると彼がいて、「喧嘩は今からするでしょ。ほら」と視線を流した。追ってみると、ちょうどあの人型機械が現れたところだった。
 仕方がない。今日はあれを咬み殺すことでこの苛々を解消することにしよう。
「キョーヤ」
 指定のフィールドのある校庭に行く途中、彼に呼ばれた。視線だけ向けると微妙な顔をした彼がいる。有刺鉄線と砲台で囲まれたフィールドにはもうあの機械が待っている。
「勝ってね。できれば怪我をしないように」
「…勝つよ。絶対に」
 顔を寄せて「あなたがほしいもの」と囁いてからそばを離れた。「ヒバリーッファイッ! オー!!」とかうるさい声が聞こえたけどこの際無視する。フィールドに立ってじゃきんとトンファーを展開する。
 ああ、早く終えたい。早く彼と一緒に家に帰りたい。それから、頑張ったご褒美にキスしてもらうんだ。約束したんだから。
「それでは始めます。雲のリング ゴーラ・モスカVS雲雀恭弥 勝負開始!」
 審判の声と同時に人型機械が煙を吹いて飛んだ。こっちに腕を突き出して銃撃を開始する、その脇をすり抜けて全力でトンファーを振るい、腕を叩き落した。ついでに機体もめちゃくちゃにしてやった。機械相手なら殺さないようにしないといけないなんて手加減はしなくてすむし、簡単でいい。力の限り攻撃すればそれでいいんだから。
 爆発音と一緒にきらりと光るものが空に舞って落ちてきた。ぱしとキャッチすれば歪な指輪のもう片方で、首から提げていた指輪から鎖を外して二つを一つにする。
 かち、と音がして指輪は一つの形になった。
 薄く笑う。これで彼は僕のものだ。
 ざりと一歩踏み出して向こうのリーダーを見やる。今のところ実力を見てないのはあいつだけ。
「さあおりておいでよ。そこの座ってる君」
「キョーヤっ」
 彼の制止の声が聞こえたけど今は聞かなかったことにした。あんまりにもつまらない戦いだったから、もっと強い誰かとやりたい。これは僕のわがままだけど、これくらい許してくれるでしょう。ねぇ。雲戦で怪我はしなかったんだから。
「サル山のボス猿を咬み殺さないと、帰れないな」