ミー、とどこか遠くで蝉の声がしていた。
 ずきん、と背中が痛んで、それから鳩尾が痛んで、意識が醒めた。

「…っ」

 小さく呻いて腹に手をやる。背中にも。
 いったい。なんでこんな痛いんだ。授業で柔道やって技食らったとき以上の痛さ。俺そんなやばいことしたっけ? と考えて、順番に記憶の糸を辿っているうちにカラリと聞き慣れない音がしてそっちに視線を投げると、黒い着物姿の雲雀さんがいた。今の音は襖戸が開いた音、か。

「目が覚めたみたいだね」

 いつもと変わらない起伏に乏しい声。まるで無関心なものを眺めているみたいに動かない表情。夏にはちょっと長くて鬱陶しくないかなと思う黒い前髪。
 何も変わっていない。俺が知っている雲雀さんに間違いない。
 でも、俺は間違いなくこの人に投げ飛ばされて背中から叩きつけられて、トドメとばかりに鳩尾を殴られて、意識を飛ばしたのだ。
 いたっていつも通りの顔で襖戸を閉めた雲雀さんが裸足でこっちに歩いてくる。無造作に伸ばされた手にまた殴られるかもと覚悟して唾を飲み下した俺だったけど、なんてことはない、雲雀さんは両手で俺の頬を挟んで覆いかぶさるようにしてキスをしてきただけだった。
 あ。そういえば、今日はまだキスしてなかったんだっけ。
 すぐに唇を舐めてきた舌に、応えて口を開ければ、奪い合いの始まりだ。
 目が覚めたばっかりで動きの鈍い俺を、雲雀さんが息苦しいくらいに攻めてくる。

(………俺、先輩から呼び出しを受けて。なんだろうって思いながら体育館裏まで行って、初めての告白ってやつをされて。ちょっと浮かれて、戸惑ってるところに雲雀さんがやって来て。それで、俺、相手が女の子だろうが簡単に手を下しそうな雲雀さんに縋って。それで)

 息継ぎの合間を見計らって雲雀さんの頬を両手で挟んでちょっとだけ顔を離した。「ここ、どこですか」とこぼす俺に雲雀さんはあの仄暗い顔で笑った。普段から表情が動かない人で、何考えてるのかさっぱりなのに、そんな顔されると余計に雲雀さんのことが分からなくなって、ぞっとする。「どこだと思う?」「…分からない、です」なぜか問い返された。どこって、分からないから訊いたのに。答える気はないってことか。
 口が塞がれて、苦しいなぁと思いつつもキスを続けて、頬を離れた手が胸をついた。鳩尾に地味に響いてこほと咳き込むと、雲雀さんがようやくキスをやめた。ぺたりと座り込んで「痛い?」と笑って俺の腹辺りをなぞる。
 その細い手が俺をこうしたのに、なんで俺はこの人を気遣って「大丈夫です」とか返してるんだろう。
 一息吐けるようになったので、改めて、自分が置かれている状況を確認する。
 まず、俺は和風の畳の部屋に寝かせられているようだ。襟元がスースーしてるのと着慣れない肌触りのものが肌に当たっている感じから、着替えさせられたのだと思う。雲雀さんを見るに着物か何かに。
 その予想は当たった。慣れない肌触りの服の上から俺を撫でていた雲雀さんの手が胸元から潜り込んできて、すぐに肌に触れたのだ。ひんやりした冷たい手だった。その手が俺の鳩尾辺りをなぞるように撫でる。

「これでも手加減してあげたんだ。感謝してよね」

 笑った声と歪んだ唇に似合わず、細い手は繊細なくらいの手つきで俺の肌をなぞる。
 ……冷静に、考えて。気絶した俺を運ぶのに雲雀さんの手一つじゃ遠くへは無理だ。車か何かを使ったとしたら、口止めができる誰かに運転をさせ、周囲にバレない場所に俺を運んだ、というのが妥当だろう。
 それなら、一番可能性が大きいのは。雲雀さんの自宅か。
 するりと肌を滑った手が震えているような気がして、布団の中を這わせた手で手首を捕まえた。「雲雀さん?」と呼びかけて、ぎょっとする。
 雲雀さんは無表情のままぽろぽろと涙をこぼしていた。
 え。なんで泣いて。

「え? あ、雲雀さん?」

 痛かったけど腹筋を総動員して起き上がり、表情なしに泣いている雲雀さんを前に慌てる俺。「どうしたんですか? えっと、なんで泣いてるんですか」本来なら泣いてもいいのは訳の分からない現状に戸惑う俺であって。雲雀さんが泣く場面では。
 っていうか、雲雀さんでも泣くんだな、と思った。泣き顔ですら人形じみている雲雀さんがぐいと着物の袖で目をこする。何度もそうするもんだから、それじゃ目が傷む、と思った俺は、なんだろう、反射、みたいなもので、雲雀さんの頭を抱き寄せて自分の肩に押しつけていた。「これで、見えませんから。見てませんから。何も」今更そんなことを言ったところでどうなるわけでもないのに。
 、と掠れた声に呼ばれて「はい」と返事をして、「僕のこと嫌い?」という震える声に困惑して。縋るように背中に回った腕に痛いと思いつつも、今の状況も頭に入れて考えてみて、答えはすぐに出た。

「嫌いになんかなりませんよ。大丈夫です」

 大丈夫、と俺より細い気がする背中をあやすようにぽんぽんと叩く。
 俺は、この人の思考回路が理解できないし、さっきみたいに唐突に酷い目に合うこともあるわけだけど。今のところ、だから嫌いだ、とは、思えていない。
 その日以来、俺はほとんどが和風の雲雀家での生活を強いられることになった。
 不便なことは何もない。食事はちゃんとあるし、お風呂も入れるし、トイレももちろんある。眠る場所が雲雀さんと同じ部屋ってだけで眠れないわけじゃないし、餓死とか衰弱死とかいう事態にはなりそうにない。
 あの日以来雲雀さんから暴力みたいなものも受けていないし、過ぎる時間は平で、平和で、暑さを除きさえすれば穏やかですらある。
 ただ、俺には外出禁止令が出されていた。
 雲雀の家を出ることには問題ない。玄関の引き戸はガラリと簡単に開く。その先には灰色の石畳があって、庭は手入れされた立派な日本庭園で、鯉のいる池もある。そしてこの家の敷地を守るかのごとくの三メートルはあるだろう白塗の壁。これが俺と外の世界を阻んでいた。
 もちろん、出入り口となる場所はある。立派な門構えだ。大きくて力強い木で枠組まれていて、そして、常に閉ざされていた。閉ざされているだけならまだしも、丁重に見張りである風紀委員が二人昼夜問わずついているという現実だ。
 念のため裏門も見てみたけど同じだった。俺が勝手に外へ出ることは許されていないのだ。そして、彼らはその命令を忠実に守っている。
 雲雀さんは自宅に俺を軟禁することにしたのだ。
 学校や家族は俺が行方不明になったとでも思ってるのかもしれない。
 あの日以来携帯も取り上げられたままで、外への連絡手段といえばこの家の固定電話だけど、一度だけ黒い受話器を取り上げてみたことがあるけど、電話線が引っこ抜かれているのか、古いタイプの電話はただの置物と化していた。
 俺は本当に雲雀の敷地内に囲われてしまったのだ。

「……うーん」

 高い壁を見上げて腕組みする。陽射しは高く、夏らしく痛いくらいに眩しくて、日本庭園の木のどれかから耳に突き刺さる声を上げている蝉がいる。
 この状況で俺があまり危機感を抱けないのは、生来の性格故か、それとも軟禁にしては贅沢な生活をしているせいか。
 トイレも風呂も食事も困らず、眠ることだって問題ないし、テレビもあるし、本もある。これが欲しいって言えば必要なものなら雲雀さんが用意してくれる。困ったことがあったら風紀委員の誰かに声をかければだいたい解決する。
 俺には無理矢理にでもこの状況を打破する理由というのが見つからないのだ。
 そりゃあ、勉強のこととか、友達のこととか、気がかりなことはあるけど。それは雲雀さんの仄暗い笑みに覆われて消えてしまうような些末事だ。
 冷房の入った居間でテレビを回して有料チャンネルで映画を見て時間を潰し、おやつないかなーと冷蔵庫を開けてアイスを発見し、うまい、と思いながらハーゲンダッツのカップを空にした。今日の夜は何かなーと冷蔵庫を眺めて今晩のメニューを思い浮かべたりしているとそのうち雲雀さんが帰ってくる。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 いくら人形みたいに整っている人でも、外は暑いのだろう。汗をかいたとその場で制服を脱ぎ捨てるから、半ば呆れつつ湿ったシャツを拾い上げる。脱ぎながら脱衣所に向かう背中を眺めて、バサリと音を立てて落ちたズボンから視線を剥がして明後日の方を向く。
 なんだかな。なんでそんなに全部曝け出すのかな。キスもそうだけど、最近、なんかくっついてくるし。暑いのにさ。
 いつもの時間になるとお手伝いさんがやってくる。夕飯と風呂の準備のためだ。
 お手伝いさんというのはいつも無口で事務口調でしか返事をくれない人ばかりで、多分、そういうふうに仕事をすることで合意しているのだろう。よって、俺はお手伝いさんを何人か知ってるし、挨拶くらいはするけど、それ以上にはなれないわけである。たとえばお手伝いさんを通じて外に連絡するとかそういうことも無理なわけである。
 今晩はハンバーグだった。一週間に一回の割合でハンバーグになることを考えるに、雲雀さんはハンバーグが好きなのかもしれない。

「いただきまーす」

 今日のメインは和風ポン酢おろしのさっぱりハンバーグだった。豆腐だ。肉ばっかりでは重たいと思ってたところだからちょうどよかった。
 大して動く生活をしてるわけでもないのに食欲は落ちない。軟禁生活なのに健康的だ。ぱくぱくと平らげる俺に対して雲雀さんの方が遅いくらい。
 お風呂の準備をしてきますと事務的口調で言って居間を出て行ったお手伝いさんをちらりと見やって、雲雀さんに視線を戻す。箸が止まっていた。「食欲ありませんか?」「…暑いし。あまり。箸を動かすのも面倒くさい」そう言ってカチャンと箸を置いてしまうから、せっかく作ってくれた食事なんだしと席を立って雲雀さんの横に移動。代わりに箸を持ってハンバーグを切り分け、「あーんしてください」と箸で一切れをつまむ。
 瞬きを繰り返すだけで口を開けない雲雀さんに「失礼します」と断ってから口の中に指を突っ込んだ。指で口を広げて箸も突っ込む。ハンバーグを離して箸と指を抜くと、雲雀さんの眉間に見る間に皺が寄っていった。

「はい、食べてください。胃に入れるだけでも」
「…………」

 不服だ、というのを顔で表しつつももくもくと咀嚼するところを見るに、食べられないというわけでもなさそうだ。
 これで一ヶ月ほど雲雀さんとこうして生活してることになるから、俺もだいぶこの人の扱いというかを把握してきていて、ここまでなら大丈夫、こっからは駄目、というラインを憶えつつあった。
 あーん、と箸を持っていくと今度は大人しく口を開けてくれたので、雲雀さんの口に突っ込んで汚れた指を舐めて気持ちきれいにしておいた。
 今日はそうやって食事を終えて、風呂をすませて、夜の二十二時頃に電気が落ちる。雲雀家の夜は早いのだ。
 雲雀さんの部屋で、雲雀さんと隣り合って並べられた布団の中に入って、今日の映画のことを思い出しつつうつらうつらしていると、胸に体重がかかった。苦しい、と薄目を開けると雲雀さんが俺の上に跨っている。着物がはだけることも構わずに。「…ねむれませんか」今にも寝そうな声をかけると、雲雀さんがこくりと一つ頷いた。


「はい」
「僕は、」
「……?」

 途切れた言葉に首を捻って目をこする。起きようにも起きれないし、眠い目ではこの景色さえ不確かだ。
 雲雀さん、もしかしてまた泣きそうなんだろうか。
 ときどき、この人は発作的に泣く。たいていが夜だ。この家に俺と雲雀さんだけになる時間帯、この人は俺に縋って泣くのだ。

「雲雀さん?」

 どうしたんですか、と手を伸ばすと、両手で握り締められた。懇願するような口付けが手の甲に押しつけられる。小さな声で「」と呼ばれる度になんだか背筋が騒ぐ。落ち着かない、という意味で。
 着物姿のせいかな。それとも、俺にだけは弱いところを見せるこの人が、少しは分かってきたせいかな。そんなふうにされると男として辛いのですが。

「雲雀さん、あの、見えてるので、退いてください」
「…?」

 何が、と小首を傾げる姿がいっそ清々しい。
 だから、と片手ではだけすぎて腰帯を解きそうになってる崩れた着物を指すと、雲雀さんはようやく俺の上から退いた。
 ここで軟禁生活をするようになって、まともに話す相手が雲雀さんしかいないせいだろうか。俺、雲雀さんを意識しすぎてる気がする。
 はーとひっそり息を吐いて目に悪いなぁもうと思ったら、雲雀さんは帯を直すどころか解いた。しゅるりと簡単に解けた帯は就寝用で、薄くて軽い。着物も同じだ。夏用の軽いものでできているから簡単に脱げる。
 あーわーと全力で目を逸らした俺に笑っている声が聞こえた。「ねぇ、何意識してるの」と俺を笑う声に唇を噛む。

(どっちが)

 最初にキス仕掛けてきたのはあなたで、俺を軟禁したのもあなたで、俺の全部を掌握してるのは、あなたなのに。

「雲雀さんこそ、俺のこと意識しすぎでしょ。好きなんですか?」

 殴られること覚悟で言ってみると、笑い声はぴたりと止んだ。やっぱ言わなきゃよかったと腹に一発来る覚悟を決めていると、「そうだね」と静かな声が俺の言葉を肯定する。え、と目を丸くしてつい雲雀さんを見やって、後悔する。
 あの顔だ。何を考えてるのか知れない笑った顔。この顔をしている雲雀さんはだいたいえげつないことを考えてるというのは経験上理解してる。
 素っ裸同然でぺたりと畳に手をついた雲雀さんがもう片手を俺へと伸ばす。「、僕はね」と落ちる声は笑っていたけど、俺に触れた手は震えていた。
 鳩羽色の瞳は今にも涙がこぼれそうなくらいに揺れている。

「僕で、君を埋め尽くして、奪ってやりたいんだ」
「…はい?」
「君が、そうやって僕を奪ったように」

 ねぇ、僕のものになってよ。そう囁く声が甘かった。甘ったるく耳に残った。まるでかわいい女の子の声を聞いたみたいに耳にこびりついて離れない。
 ほっそりしてるけど筋肉つくところにはついてる、でもやっぱり細い、と思う肢体が夜の中にぼんやりと白い色をして浮かんでいる。それだけでも生々しかった。
 思春期真っただ中、この一ヶ月で雲雀恭弥という人間しか見ることのなくなった俺は、その身体から目が逸らせなくて、ごくん、と知らずに喉が鳴っていた。
 白い腕が俺の首に絡みついて身体を寄せてくる。躊躇いもせずに。
 俺だって男なんですけど? こういうことされると我慢に限界があるんですけど? と全力で叫びたいのをなんとか堪え、誘惑してるとしか思えない白い首筋を凝視して。
 肌から香るような誘惑に負けた俺は、殴られること覚悟で、白い首に唇を寄せて噛みついた。