時間とは経験だ。
 生きてきた全て、生きていく全て、未来でさえ、全ては時間の中に圧縮され、その中で全てのものが生きている。
 僕は、どんなふうに生きてきて、これから、どんなふうに生きていくのだろうか。
 ふと立ち止まり、前だけを見ていた顔をこれまで歩いてきた道のりへと向けたとき、僕は自分の足元が血まみれであることに気付いた。僕の足元から伸びた血の海の中に人間動物その他問わず様々なものが浮き沈みしていて、一番足元に近いところに人の形があった。伸びた手は真っ赤、腕も真っ赤で、赤いペンキを頭の上からぶちまけられたように全てが赤く、顔の判別もつかない。
 ただ、伸びた手が僕の足を掴んだことが、前へ進むために邪魔だと判断して、血の海に沈めようと赤い頭を踵で踏みにじったとき、
 ひばり、と。聞き覚えのある声がした。
 そのときにはもう遅くて、僕はその人の形を蹴飛ばしたあとだった。
 血の海に突き飛ばされて呑まれていく彼の顔がようやく判別できて、声になっているのかも分からない悲鳴を上げた。だって、その表情は死人のそれにひどく酷似していたから。
 ぶくぶくと赤い泡を残して海の中に消えてしまった彼を追おうとすると、踏み出そうとする僕を海の中から這い出てきた無数の赤い手が阻んでくる。
 あんたは俺達をこんなにしても前に進んだじゃないか
 今更後戻りなど許されない
 彼だけを救うなど許されない
 救うなら全てを
 君が踏みつけ犠牲にしてきた全てを
 それとも、お前もここに埋まるか
 うるさい声だ。トンファーで振り払ってやろうと腕を振るってもいつもの感触がない。冷たい音も硬い感触も。なぜ、と目をやれば、僕は何も纏っていなかった。無力な人間の姿をしていた。
 行く手を阻む無数の手を効率よく蹴散らすこともできず、赤い海に沈んでそれっきり浮かんでこない君を呼んで、呼んで、呼ぶだけじゃ何も変わらなかったから喉が裂けるくらいに叫んで、叫んで、それでも君が浮かんでくることはなくて。
 気付いたら赤い海が滲んでいて、泣いていた。

(僕は)

 完璧主義の母に育てられた。母が完璧すぎて自分の落ち度を認められなかった父は家を出て行った。
 仕事も私生活も無駄なく隙きなく生きる母は誰から見ても優れていたので、母の子供である僕が同じ生き方を目指すのは自然なことだった。
 母は父がいなくなっても立っていた。決して父を蔑ろにしていたわけでもないし見下ろしていたわけでもないが、完璧な母とせいぜい秀才レベルの父との距離は開くばかりで、最後まで双方手を伸ばすことがなかったので、二人は離れるだけ離れてやがてその関係が途切れた。
 それでも母は以前と同じく完璧に生きていたので、それが強いということなのだ、と幼心に母の着物の背中姿を見て心に刻んだ。
 僕も母のように生きよう。
 母は優れた生き物としていつでも一人で立っている。僕はこの人の子供だ。母がこれ以上ないほど立派な手本になっている。倣えば、できないなんてことはない。
 僕も母のように立派に生きよう。
 父のように中途半端では駄目だ。やるなら徹底的に。他者を踏みつけ殴り飛ばしてでも一番前へ。一番上へ。そうしてやっと母の背中が見える。
 つよくなって、それで、ひばりはどうしたいんだ
 いくら蹴飛ばしても殴り飛ばしても無数に伸びてくる血色の手が僕の行く手を拒む。
 振り返ることなど許さないと。立ち止まることさえ許さないと。進め、全てを踏みつけ越えて進め、と言う。それがお前の決めた道だろうと。
 赤い海に沈んだものの手を取りたくとも許さないと声が嗤う。
 ………僕は何を必死になっているんだろう。武器もないのに圧倒的な数の血の手を相手に何をやっているんだろう。何をやっても大して意味などないのに。前へ行けと押しやられるだけで、彼が沈んだ場所には少しも届かないのに。

(僕は、何がしたかったのだろうか)

 母のように生きたいから真似をしたのだと思う。母以外にまともに知っていたのは父くらいで、父の人生があまりパッとするものでなかったから、母を見倣おうと思ったのだと思う。母は強い人で、いつも着物の背筋を伸ばして一人で立っていたから。その姿が瞼の裏に焼きついていて忘れられなかったから。
 だけど、思えば、あの生き方は。どこにも隙がなく誰の手も頼らず生きている母の姿は。
 凛として咲くたった一つの大輪。
 とても強くて、気高くて、誇り高いけれど、でも、すごく、淋しい。
「雲雀さんっ!」
 ばちっと目を開けて、醒めたばかりで伝達の上手くいかない手を声のした方へとがむしゃらに伸ばした。掴まえた服を力任せに引っぱると「うわ、わっ」と声を上げた彼がどさっと僕の上に倒れ込む。
 夏の暑さの中に寝ていたとは思えないほど全身が冷や汗をかいていた。
 浅くなっていた呼吸を意識してゆっくりにしながら、知っている背中をかき抱く。「?」「はい、そうですよ。大丈夫ですか…?」気温と同化している掌が僕の額に触れた。大丈夫かという言葉の意味が分からず「なにが」と掠れた声を返すと彼は僕の首を見た。「喉とか。いきなり叫ぶから、何事かと」そうこぼして小動物みたいに大きな目を細くする。
 そういえば、声が掠れている。確かに夢で叫んだけれど、現実でも、僕は叫んでいたのか。
 ぺたりと彼の顔に触れた。輪郭や形を確かめるようにぺたぺたと触っているとがくすぐったいとばかりに少しだけ笑う。
 夢の中で血の海に沈んだ君の死人の顔を払拭して「キス」と短く要求すれば、彼は呆れと諦めを混ぜたような顔で僕の望むとおりにキスを施す。
 ………もう随分と母と連絡を取っていないけど、あの人は元気なのだろうか。海外で着物関係の仕事をしているのは知ってるけど、詳しいことはあまりよく知らない。今どの国にいるのかとか、何をしているのかとか。口座に毎月困らない生活費が入るのだから、稼いではいるのだろうけど。
 ぺろ、と舐められた唇が少し痛かった。「切れてる」とこぼした彼にああと納得しながら汗の滲んでいる首に両腕を回して身体をくっつけて口付けを重ねる。
 それでも脳裏を侵食している赤い色が消えなかった。


「はい」
「セックスしよう」

 がくりと姿勢を崩した彼が「あのですね。雲雀さん、そういうのはもうちょっとムードとか空気とかを大事にして言ってほしいです」「……じゃあ。寂しいから、抱いて?」少し考えて言葉を変えてみた。わざとらしいかと思ったけど自分から腰帯を解いて着物をはだけさせ、首も傾げてみた。途端にがぐっと唇を噛んでふるふると震えるので、分かりやすいなぁ、と思う。お盛んに揺れてる尻尾が見えるようだ。
 嫌な夢を見たことを忘れたかったので、寝起きだったけれど、身体を重ねることにした。
 着物の襟元に埋まった唇が肌をこすってくる。
 じわり、じわりと汗が滲む。ただでさえ暑いのに無駄に体温が上がる。
 大して厚さもない夏の着物を脱いでしまえば、空気に晒した肌がまたじわりと滲む。
 内腿を撫でてくる掌の形を思い描きながらキスをして、目を閉じる。
 彼をこの家に監禁するようになって、まともに接するのが僕しかいなくなった彼の中が、じわじわと僕で埋められていくのが好きだった。
 抱こうが抱かれようが要は気持ちよくなれればそれでいいわけだし、が僕を抱く側がいいと言うのなら、拒む理由もない。それで君が僕に夢中になって僕で埋まってくれるというのならなおのこと都合がいい。
 最初に感じていた違和感だって、今はもう消えた。残ったのは気持ちがいいと感じる体と、早く気持ちよくなりたいと腰を振るお盛んな僕だ。
 とするのは気持ちがいい。男同士で抱き合うのは生産性のない無意味な行為でしかないのに、それでも快楽が伴う。この世界を作った神様ってやつは、人間の設計について、見落としが多すぎやしないだろうか。

「雲雀さんは」
「…っ? な、に」
「俺のこと、好きですか」

 それ何度目、と呆れながら敷き布団に顔を押しつけた。後ろから腰を抱かれて突かれながら声を殺す。
 最初に訊かれたとき肯定したじゃないか、と思いながら息継ぎの合間を縫って「すきだよ」と布団に押しつけてこもった声で返し、僕の中で脈打った彼が大きくなったのを感じた。ふ、と息をこぼして敷き布団に爪を立てる。気持ちいい場所が大きくなった彼で圧迫されて、また、気持ちいい。
 好きかと訊かれて、好きだと返して、それが嘘でも本当でも、たったそれだけの言葉で君は僕のものになる。
 なんて、簡単、と笑った唇を布団に押しつけて、僕の中を擦って穿つ熱に追い詰められて、こもった息と声を漏らしながらイッた。
 震える息でどろどろに濡れてる自分のものに触れて、もう母の背中など見えるはずもないという堕ちた現実に唇を歪めた。
 夏の暑さと行為の激しさを物語る汗は身体中をべたべたにしていて、裸で転がっても、ただただ暑いばかりだ。
 コンドームを縛って捨てた彼をボヤッと眺めていると、なぜか、新しいものに手を伸ばしている。「あの。雲雀さん」「なに……」寝転がった僕の足を彼が掴んで持ち上げる。何してるんだ、とぼんやりした思考に硬くて熱いものが押し当てられると、一気に醒めた。「は? ちょっと、」ローションまで塗りたくられて、達して震えている手を伸ばす前にずぷ、と先っぽが入ってくる。僕はいいって言ってないのに。
 今イった。ついさっきイったばっかりで、なのに擦られたら、「あッ」殺せなかった声を上げた口を手のひらで塞ぐ。
 敏感になっている体を彼は遠慮なく穿ってくる。ずちゅ、とローションが生々しい音を立てる。「ごめんなさい、もう一回。もう一回だけ」「……ッ」ずちゅ、ずちゅ、と音を立てて僕の中を動く彼を感じる。足を持ち上げられてるから接合部が。見える。彼と僕が繋がっている場所、ローションで泡立ってる……。
 イって満足したはずなのに、与えられる快感にまた元気になっていく自分のも見える。

「ぁ、ア、ぅ」

 手のひらの間から声がこぼれる。
 視覚的効果による快感。
 水っぽいようでいて粘着質な音が必要以上に耳を撫でる。
 ぱん、と腰を打ち付けられて奥まで届いた彼の熱による強いくらいの刺激。
 ふぅ、ふぅ、と荒い息を吐きながらとろとろと情けなく体液を垂らす自身を睨みつける。
 どう言い訳したところでこれはただのセックスで、彼を力ずくで蹴飛ばさないのだから、僕はこれを望んでいるということだ。

(きもち、)

 僕の両足首を掴んで体重をかけてきたが、そのまま、体重をかけて僕を犯し始める。奥の奥まで。気持ちのいい場所を擦りながらさらにその奥にある気持ちのいい場所を穿つ。
 腰から背中、頭にかけてをビリビリする電気のような信号が走る。背筋がすごくぞくぞくする。まるで強敵を前にしてトンファーを手にしたときの高揚にも似た……。

「き、す」

 律動の合間になんとか声をこぼすと、僕のことを押し潰すみたいに全体重をかけて顔を寄せられてキスされた。「ん、ふゥ、」そのまま僕の中を突き出す彼が近くて、近すぎて、よく見えない。
 目を閉じたら余計に感度が上がるから、意地でも目は閉じない。ただただ舌を奪い合う。夏の空気の中でさらに暑くなるだけの快感を伴う行為に耽る。
 赤い色は、もうどこにも存在しなかった。
 同時に、母の着物の背中も。霧の中にあるようにぼんやりしていた。
 彼が僕の中で果てて、僕も同時に力尽きて、必死で息をする。指先は快感で痙攣して思うように動かないし、腰はさっきからヒクついて変だし、足は普段しない体勢を取り続けてガクガクだ。

「すいません…」

 対してまだ元気な彼は、僕に許可なく二回目をシたことを反省しているのか、しゅんと小さくなっている。
 ………鮮明なのはさっきまで僕を抱いていたの肌で、汗の光る姿で、僕を抱く手で、僕と繋がる熱で。僕への欲情で揺れる瞳で。
 くそ、と声なく毒づいて固い枕に顔を埋めてから視線を逃がす。
 君の中を僕でいっぱいにして奪ってやろうって思っていたのに、これは、逆じゃないのかと、さっきまで彼で埋まっていた場所が寂しそうに収縮するのを感じて思う。
 君を僕で奪ってやろうって。君を僕でいっぱいにしてやろうって。だけど実際は、

(僕の中。君で、いっぱいだ…)