というありふれた男子中学生がいた。
 学校生活や素行に大きな問題はなく、成績は中の上。得意な教科は英語。
 そいつは並中生で、卒業を目前にして、親に借金の担保として売られた。
 卒業を目前にした春。まだ咲かない桜の木の前で声をかけられ、お世話になりました、と頭を下げられたことをよく憶えている。
 笑って別れを告げる顔が解せなくて不安ではないのかと訊ねると、彼は視線を空に逃がして、自分は英語ができるから、まぁなんとかなると思いますと、そんなことを口にした。
 そんな彼が売られた先がボンゴレ。
 幸いにも頭は悪くはなく、英語ができたため、売られた先でもなんとかやっていっていた、いわれのない不幸に見舞われた、だけどありふれた、どこにでもいる人間だった。
 なんの因果か僕まで関わることになったボンゴレという組織で、咲かなかった桜の淋しい枝を背景に笑う顔をぼんやりと思い起こし、彼のことを探した。
 そうしたら、なんてことはない。売られたという事実を特別悲観しているわけでもなく、普通の顔で仕事をこなし、普通の顔で物を食べ、同僚と笑い、仕事となれば銃と匣を手に戦う。そういう日々に当たり前の顔をして笑って過ごしていた。
 彼の親は最初からボンゴレに作った借金を返す気などなく蒸発。ボンゴレから逃げられるなどという馬鹿な考えを起こしたソレは程なくして発見、処分された。
 けど、親が死んでも、金を借りていたという事実は消えない。
 彼は給料なしでボンゴレのためにただ働き続ける、まるで蟻のような人間となっていた。
「かわいそうにね」
 ある日、タダ働きで徹夜二日目の彼にそう声をかけてマシンで淹れたコーヒーを持って行ってやると、クマの目立つ目元で僕を見上げた彼は笑った。「さすがに、眠いです」「終わらないと眠れないよ。今日中だろう」「ああ、知ってたんですね。もしかして、監視とか」「馬鹿じゃないの。僕はそんなに暇じゃない。同じ納期の仕事があるだけだ」自分の分のコーヒーを淹れてデスクに腰を下ろし、少ない仕事をさっさと片付けてしまう。
 彼は押しつけられた雑用を必死でこなしている。犬のように従順に。
 ……蟻は女王以外は使い捨ての駒だ。女王さえ無事なら雑兵はどれだけ死んでもいい。ボンゴレにとって、彼はそのくらいの価値しかない。
「親を、恨まないの」
 ある日、興味がわいて、そんなことを訊いてみた。
 今日もタダ働きの彼は、昼休憩の時間に中庭の草原に寝転んでいた。今日は食堂という気分じゃなかったのか、テイクアウトでハンバーガーのセットを食べた跡の容器が転がっている。「あー、うーん。そういう力というか、気持ちというか? 割くのも面倒だし、煩わしいし。俺、ここでの生活好きですよ。給料はないけど、いい制服だし、狭いけど個室もあるし、ご飯も食べれるし。生活必需品に限るとか言いながら、結構娯楽品の申請も通りますし」ごろん、と寝転んだ彼の黒い髪に草がくっつく。「それに、匣。一般市民だったら見られない最新技術も、なんかすごいから、好きですよ」そう言って笑う彼を睨みつける。
 従順。健気。献身。それは部下に求めるのに間違ってはいない要素なのに、何か、面白くない。
「作戦は以上。死んでも死体はこの場で処理される。せいぜい死なないように」
 あの日もそう。彼はいつものように生きた。とてもつまらない人生を、それでも笑って生きて、匣による攻撃を匣で調和しきれず押し切られ、首と体が分かれたときも、笑っていた。
 それがとても気に入らなくて。思わず武器を放り出してその頭を捕まえるほどには気に入らなくて。
 同行していた幻術使いに命じて僕の肺の酸素を彼の脳に送り込む回路を作るよう指示し、その場を部下に任せて撤退。すぐにボンゴレ本部に戻って、彼は白蘭の力で元に戻った。
 元に戻った。と。思っていた。いや、思っていたかった。

「……………」

 ぼんやりと、滅菌殺菌消毒の英文が踊る部屋の寝台で横たわっているのことを眺める。「やっぱりちょっと無理があったね。いくら他の世界では確立していた技術とはいえ、この現代で再現できるものと掛け合わせると、さすがの僕でも齟齬が出る」右から左に抜けていく白蘭の言葉を聞きながら、ガラスに手のひらを当てる。
 ……届かない。たったガラス一枚隔てた向こう側にいるだけなのに、遠い。

「それで、結論は」
「うん、そうだね。はっきり言おう。良くて、今回のような肉体の崩壊の繰り返し。悪くて、突然死」

 ぎ、とガラスに爪を立てる。
 良くて、この間のように突然血を吐いて手足が取れて。悪ければ、唐突に死ぬだって?
 がっ、と白蘭の白い制服を掴み上げる。「ちょっと、雲雀さん、そういうのは困りますっ」入江とかいうのがあたふたしてるが無視する。「治せ。ちゃんと。やれるはずだろう。山本武のときはやってみせたろう」いつかのことを示すと、白い相手は肩を竦めた。

「そりゃあね、死にかけの傷を負った人間をただ治せっていうんならやってみせるよ。だけど思い出して。君が持ち帰ったのは彼の頭だけだった。
 体の方は場所ごと焼却、もう残ってないと聞いてる。つまり元の体の回収は無理。
 わかる? 普通ならとっくに死んでいたんだよ、彼。それをなんとか繋ぎ止めた。それだけでも褒めてほしいレベルだよ」

 白い顔の目元にクマのある相手を睨みつけ、胸倉を掴み上げていた手を離す。
 ………自分で選んだわけではない酷烈な人生に見舞われ、だけど笑うということを選んだ男の最期も、笑うこと。笑って死ぬこと。
 僕はそれに猛烈に腹が立った。
 人並みの人間なんだから人並みに怒ったり泣いたりして生きろと、そんなことを思いながら彼の頭を抱えてあの戦場を離脱したのだ。僕と幻術使い、二人の実力者が戦場からいなくなればどうなるのかわかっていながら。
 それで。多くの犠牲を出して、結果が。これか。
 やっぱり笑う。笑うことしかしない。それしかしないと決めているように。それしかできないように。笑うことしかしない。
 僕は、という男が嫌いだ。
 いちいち僕の思考を搔き乱す。いちいち僕の視界でチラつく。いちいち、こうして、僕をイラつかせる。
 次の日。はけろりとした顔で「俺倒れたんだって? ごめん、よく憶えてなくて」と僕に向かって手を合わせて謝罪してきた。
 そのおよそいつも通りの姿に、はぁ、と息を吐く。「いいよ、別に。体が本調子じゃなかったんだろう」「うーん。そんな感じはしなかったんだけどなぁ。なんかこう、突然、クラッとして」それ以上先を思い出させないためにバンとデスクに手をついて立ち上がり、「お腹が空いた。お昼。行くよ」「あ、うん」大人しくついてくる彼はいつも通りだ。いつも通り、笑っている。
 敬語を使うなと命じれば大人しく従うし、僕が勝手に部署移動させたことにもただ従う。
 それがとても気に入らない。
 平凡な人間らしく、平凡に泣いて、平凡に怒って、平凡に感情に溺れればいい。それが普通だ。
 君には嘆くべきことがあり悲しむべき現実があり怨むべき過去がある。それなのににこにこ、にこにこ、笑うことしか知らない、まるで人形みたいに。

(でも、そう扱ったのはボンゴレだ。彼は犬にされたんだ。都合のいい人形にされたんだ)

 壊れたら捨てるだけの兵隊。泣くのも怒るのも煩わしいからと、その顔に笑顔の仮面を接着された、使い捨ての兵隊。
 気が変わったから、彼の腰に腕を回して引き寄せて進路を変える。「えっ? あれ、食堂あっち」「うるさい」腰を抱いたのは、ここなら突然取れて壊れるなんてことはないだろうと思ったからだ。
 いつ壊れるかわからない、ひび割れたガラス細工。そのひびが広がらないように気を遣う。そんなこと、僕にとってはストレスでしかない。
 それでもそうやって彼を自室に押し込み、食事は草壁に適当に持ってこさせた。
 どうして僕がこんな行動に出たのかということを不思議そうにはしているものの、は「日本食おいしー」と、また、笑っている。
 そのことにぎりっと奥歯を噛みしめる。
 笑って是と言うことを矯正された生き人形。
 ただ英語が少しできて、親がろくでもなくて、だからここでそうやって生きるしかなかった、中学を卒業することもできなかった男子中学生だった君。
 桜の蕾の下で笑ったあの顔がいつまでも脳裏でチラつく。
 上品な日本食のご飯じゃ足りなかったのか、草壁に「すいません、ハンバーガー追加で。これください」とか言ってるを睨みつける。

「ねぇ」
「うん?」
「泣いてよ」
「え? え、えーっと、急にそんなことを言われましても……」

 困ったように眉尻を下げた彼に「じゃあ怒ってみせて」と言うと、これも困った顔をされた。「いや、急には……どうかしたの、雲雀?」ハンバーグにドスッとフォークを刺す。好きなもののはずなのに今日の食事は何か味気ない。

「君は、ありふれた人間だ。僕みたいに強くもない」
「まぁ、うん。はい」
「だから、君は、僕に、相応しくない」
「うん。雲雀の隣を歩くのは俺じゃなくて、もっと強くて、雲雀の立っている場所がわかる誰かがいいだろうって俺も思うよ。
 俺じゃあお前の気持ちを理解してやれないし。俺じゃあ、力不足だ」

 草壁が用意したハンバーガーをかじりながら、僕の言葉に納得しているようにそう口にする彼はまた笑っている。
 その顔がとても気に入らなくて、ガチャン、と食器を鳴らして立ち上がり、ハンバーガーをかじり続ける彼から包みを取り上げる。「あ、それ俺の、」言いかけたその口を、自分の口で塞ぐ。
 油っぽい。バーベキューソースの味がする。あと、人の、温度。
 目を見開いてぽかんと驚いた顔をした、ようやく笑顔の仮面が落ちた彼の頬に手のひらを滑らせる。

 いいかい雲雀クン、彼の体と魂の定着は、イコール、生への執着でもある。彼を生かしたいなら、君が、彼が生きたいと思うくらいの未練や執着を与えるしかない

 白い悪魔だったモノの声を思い出しながら、長年ボンゴレで修羅場を潜り抜けてきてできた傷。頬とか、額とかにある消えない薄い痕を指でなぞる。

「だけど、僕は、君がいい」
「へ」
。僕は、君がいい」

 この言葉一つ一つが、どうか、君の執着になりますように。現実への鎖になりますように。
 とても平凡なくせに酷烈な人生を余儀なくされる、笑顔の仮面を強制される君。
 この先もきっと肉体の不安定な状態が続くであろう、君がいい。なんて。僕もどうかしているな。