かつ、と靴音を響かせて向かった先には暗い部屋があって、期待半分、切望半分の心持ちで部屋に踏み込むと、気配が一つ動いた。窓辺にある革張りのソファの上に一人、スーツ姿の男が気だるそうな顔をして携帯を閉じたところだった。
 部屋の扉を閉めてかちんと施錠する。その音でこっちを見た二つの瞳が細められた。その顔に浮かぶのは微笑みだ。手馴れた、営業スマイルにも似た類のもの。
「やぁ恭弥」
 気だるそうに投げられたその声を無視してつかつか歩いていき、中世ヨーロッパでも意識したようなテーブルから携帯を取り上げる。止める声はなかった。ぱちんと携帯を開いた僕に、相手は何を言うでもなく静観し、傍観し、僕を眺めているだけ。
 相手は女だった。また知らない番号だった。操作して履歴を辿る僕に、ソファで長身を猫背に丸めている彼が「それ壊していいよ」「、は?」「鬱陶しいんだ。一回しか会えないって言っておいたのに何度も何度もかけてきてさ。だから恭弥、それ、壊してよ」視線を向けられて、一瞬考えた。都合よく使われている。いや、彼にとって僕は使えるか使えないかであって、使えないと判断したら別のものを使うまでだ。ただそれだけの話だ。それに、彼に使われるのなら悪い気もしない。だからばきと携帯を二つに割った。それを見た彼は満足そうに口元を緩めてソファの背もたれに体重を預けて大きく伸びをする。
 シャツのはだけている胸元と、鎖骨に見える女がつけるキスマークに、自然と頭の中が静かになっていく。
「誰か抱いてたの」
「そ。お仕事でした」
 臆すことも隠すこともしない彼はあっさりそう口にした。
 二つに割った携帯をテーブルに転がす。その手を伸ばして彼のシャツを掴んだ。ぐいと掴み上げてキスするくらい顔を寄せても彼は眉一つ動かさない。どこか退屈そうな瞳が僕を見返している。それだけ。
 ムカつく。そのすました顔も、嘘の一つも吐かずに僕を傷つけるところも、全部ムカつく。
 心からそう思うのに、僕は彼を咬み殺すことができない。そんな情けない自分が一番ムカつく。
「何?」
「…あなたはずるいよね」
「よく言われる」
 悪びれたふうでもなく笑う彼は、僕のことなんてこれっぽっちも想ってくれていない。僕はそれを知っている。彼が誰かを抱くのは仕事かあるいは気紛れだからだ。
 抱いていた女というのは仕事で抱いただけ。それ以外は、ただの気紛れでしかない。愛ではない。どれだけ乱暴な夜も丁寧な夜も、彼は愛を囁くなんてことはしない。
 決まって僕から誘う。理由は簡単だ。彼から誘うなんてことはありえないからだ。抱いてほしいと思ったなら乞うしかないのだ。
 キスマークの残る鎖骨に重ねるように噛み付く。肌を吸う。視界の端で伸びた手が僕の髪をゆっくり梳いた。彼は決して僕を愛してなどいない。僕がどれだけ愛していても彼は僕を愛していない。さっき女を抱いたのに今度は男を抱く。彼にとってセックスなんていうのは日々摂る食事くらいに造作もない当たり前の行為なのだ。
 愛はないと分かっているのに、求めることを止められない僕は、限りなく愚かなのだろう。
 何人の人間を抱いてきたのかわからない掌が僕を弄ぶ。スーツの上着のボタンを外してネクタイを緩めて解く。自分から上着を落として彼にキスをする。シャツのボタンにかかる手を止めることはしない。彼を求めて口付けを深くする。口の内側に捻り込む自分じゃない味に、彼の味に、僕は酔っている。
 乞うように口付けを重ねていると、シャツの下に彼の手が入り込む。浮ついている身体はそれを求めていた。
 吐息をこぼして彼の舌を乞う。唇を離す。窓の外の灯りで僕と彼の唇を繋いだ銀の糸が光って消えた。
 腰に回った腕に引き寄せられて、ちゅっと胸にキスをされる。彼の舌が僕の肌をなぞる。それだけで背筋がぞくぞくしてたまらなくなる。
 仕事で人を殺してもこんなに昂ることはない。僕は男のくせにさして女に興味もなく、ようやく興味が出たと思ったらそれは男としてではなかった。ただ少し、いつも退屈そうで、挑戦的な目で僕を見る彼を痛い目に合わせてやろうと思っていた。最初はそれだけだった。
 這いつくばらせてやろうと思っていたら、逆に僕が這いつくばる結果になってしまった。
 力の暴力を振るう僕に彼は性の暴力を行使した。僕の喧嘩の経験と同じくらい彼は人を抱く経験を積んでいた。それが男でも女でも、彼にはあまり関係がなかった。男だろうと女だろうと彼の掌は何も変わらず僕を愛撫した。愛してるなんて決して口にはしないのに、身体は愛してくれていた。僕はそれに屈してしまった。気持ちいいと感じてしまった。だから、僕の負けだった。
「傷がある」
「…っ、き、ず?」
「もったいない。せっかくきれいな肌なのに」
 ぬるい温度が背中をなぞる。「もったいない」と再度呟いた彼が僕を愛する。身体だけ愛する。心は少しも愛してくれない。
 それでも構わないと、僕は彼に犯される。
 女になんて未だに興味が湧かない。かといって男に興味が湧くわけでもない。ただ彼にだけ、こうしてもらいたいと思うだけ。
 彼に愛されてびくんと腰が跳ねた。
 こんなに犯されても、どんなに強く貫いてもらっても、彼は僕を愛していない。そんなこともうずっと前から分かっていた。それでも愛されていると実感したいが故に、こうして何度も貫かれて犯される行為を繰り返す。たとえようもなく愚かだ。知ってる。分かってる。それでも僕は、彼に身体を愛でてもらう。それだけが彼が僕に本当に笑いかけてくれる瞬間だから。
 こうなれば、女だったら上手くいったのにとか、そういうことを思う必要もなくなる。
 彼は男でも女でも関係なく抱く。愛は持たない。愛してはくれない。好きだとも言ってくれない。ただ求められるまま身体を愛でて、それでおしまい。
 僕を弄ぶ掌に唇を噛む。油断すると声を上げてしまいそうな心地よさ。解きほぐすようにキスをされる。少し乱暴なその口付けに求めて舌を絡める。応えて舌が絡まる。粘着質な音が鼓膜を刺激する。
 彼は僕を弄ぶことに余念がない。こうしてベッドの上にいる間は間違いなく僕のことだけを考えてくれている。どうしたら僕が悦ぶか、どうすれば一番感じるか、考えてくれている。
 そうしていつも、僕の意識が曖昧になった頃、彼は僕をイかせてどこかに消えていく。
 最高の快楽を身体に残して。最悪なぐらいの寂しさも一緒に残して。
「………またか」
 一人、朝に包まれたベッドで目を覚まして、いつも泣きたくなる。
 当たり前のように彼はそこにはいない。あんなに僕のことを犯したくせに、あっさりといなくなる。罪悪感など感じていないのだ。抱いてくれとせがんだのは僕なのだから、仕方がないのだけど。
 泣きたいのを堪えながら起き上がると、テーブルに放置されている二つに割れた携帯が見えた。
 彼は確かに昨日ここにいて、僕を抱いていた。何度も僕を貫いて犯した。何度イったろう。ぼんやりした意識で彼のことを思い出して、寂しい身体を抱いてベッドの上で蹲る。
 あんなに愛してもらったのにまた切なくなっている。身体が彼を求めている。いつも気だるそうにしている瞳がベッドの上ではただ真摯だ。身体を愛することを考えている。意識を愛することは少しも思っていない。
 それなのに、愛されたいなんて。僕は本当に愚かだ。救いようがない。
 ゆるりと顔を上げて、仕方なくシャワーを浴びる。のろのろした手つきで彼が残した愛の痕を指でなぞる。鎖骨に、胸に、腕に、噛んだ痕がある。確かに僕は彼に抱かれていた。身体だけでも愛されていた。
 意識も一緒に愛してくれたら。そうしたら僕はもう他には何も望まないのに、それだけは一生叶うことはないのだろうと、どこかで理解している。
 それでも求めている。彼が愛してくれることを求めている。
 どんなに歪んだ愛でも、ベッドの上だけの愛でもいい。
 ぬるい温度のシャワーを頭から被りながら、俯いて、懇願する。僕を愛して、と懇願する。どうか愛して、と懇願する。ただ切望する。彼の気だるそうな瞳が僕を見つめてくれることを望んでいる。ただ、望んでいる。

僕の夜をあげるから
(ぼくを、あいして)