さて、面倒くさいことになってしまった。
 束の間今までの自分ってものを反省してみたけど、まさしく言葉だけで、心から反省するなんてことできなかった。
 今まで泣かせてきた男と女の数は数え切れないし、どれだけの男と女に憎まれているのかも正直分からない。だから怨まれてても不思議はないし、こうしてツケが回ってきたのは、今までの自分の所業の結果だ。
 どうにか倉庫群の中に紛れることはできた。辺りは暗い。おおっぴらに騒ぎにするわけにもいかないから、相手方も俺を空からライトアップして捜し出すなんてことはしないだろう。順番に一つずつ倉庫を潰していって俺をあぶり出す気だ。さっきからそんな音がする。乱暴に倉庫のシャッターが引き開けられる複数の音が。
 どうしようか、と考える。今までの生き方を考えると、この結果で終わるのはまぁ仕方がない。仕事とはいえ女に手をかけすぎた。ついでに男にも手をかけている。汚れすぎた俺の手は当の昔に腐り落ちていて、誰かに助けを求めることもできない。
 ぼんやりと、撃たれて動かない足を見つめた。遠慮なく腿を貫いた一撃のせいでもう動くのも億劫だ。逃げるのも、もう億劫だ。
 携帯を落とさなかったのは幸運だったけど、かける相手がいるわけでもない。はぁと一つ息を吐いたところにシャッターを引き開ける音が耳に突き刺さる。少し、近くなったか。
(あー…俺もここまでかな)
 ごつ、とコンクリの壁に頭をぶつけて目を閉じる。
 後悔は特別感じない。俺は好き勝手に生きてきたから。やりたいようにやってきたから。一人の男の人生として考えるなら、少し、寿命というのは短かったかもしれないけど。人を抱いた数は十人分じゃないかな。そう考えたらもう十分な気がした。ここで死んでも、仕方がない気がした。
 ぼんやり撃たれた足を見つめる。手を伸ばして胸ポケットを探ると、ハンカチが出てきた。とりあえず結んで止血でもしておくか。遅い手つきで腿を縛ったとき、またシャッターが引き開けられる音がした。近いな。
 ぼんやりした意識で携帯を取り出す。まだ真新しい黒の筐体を見つめて、開く。中には最低限の連絡先しか登録していない。
 ぽちぽちとボタンを押して、コールを押す。空で番号を憶えているんだから、変な話だ。俺は誰にも執着しずに生きてきたんだけどな、と思いながら呼び出し音を聞いていると、三コール目で繋がった。ぷつっという音のあとに沈黙が下りて、『誰?』という声が鼓膜を震わせた。淡白で、無機質で、艶のある声。瞼を下ろして「やぁ恭弥」と吹き込むと、携帯で繋がる相手が息を呑んだのが分かった。
 うん、俺から電話したことなんてなかったもんね。その反応は自然だ。

『どうして僕の番号…』
「知ってたよ。うん、知ってたというか、憶えてた」

 がらがらがら、と近いところでシャッターが引き開けられる音がした。俺が隠れているこの倉庫までもう人の手が届こうとしている。
 見つかったら、どうなるかな。即射殺で海に沈められたりするだろうか。それとも玩具のように俺を一生縛りつけて、死んだ方がマシだってくらい弄ぶつもりだろうか。どっちもありえそうな話だ。唇だけで笑いながら「恭弥」と呼ぶと一拍遅れて『何』と返ってくる声。がしゃあん、と上まで乱暴に上げられたシャッターの音が耳にうるさい。

「無理なお願いがあるんだ」
『…言ってみて』
「俺、今ちょっとマズいみたいで。足撃たれちゃってさ、もう動けないんだ。どうにか倉庫群に逃げ込んだんだけど、この分だともうすぐ見つかる」

 恭弥、と呟いて、黒髪の相手を思い浮かべて、泣きそうな灰色の瞳を思い出した。「俺を助けられる?」なんて、無理な願いすぎた。いや、願いにもなっていないかもしれない。俺はただ最後に恭弥の声を聞きたかっただけなのかも。声を引き出すために、現状を語ってみただけなのかも。しれない。
 ぼんやりと、一度抱いたらそれで終わりという境界を越えてしまった自分を思い起こした。
 恭弥だけだった気がする。何度も同じ夜を過ごしたのは。恭弥だけだった気がするんだ。男でも女でも関係なく、いいなと思ったのは。

『…助けに。行くから』

 掠れたような、無理矢理絞りだしたような声で、恭弥はそう言った。俺は笑う。うん、その言葉だけでも十分に嬉しい。電話してよかったよ。
 動かない足を引きずって壁伝いにどうにか立ち上がる。床が血で汚れてしまってるから、ここから移動したとしてもすぐにバレるだろう。でも最後の努力をしよう。恭弥が助けに行くと言ってくれたことに最後の足掻きを試みよう。それで、終わりだ。
 足を引きずりながら木箱の裏の狭い道を進む。『』「うん?」『もう切るよ。場所は分かったし人は向かわせた。僕もすぐに行く』「うん」『だから』言葉を切った恭弥は、今どんな顔をしてるだろう。手を伸ばして木箱を掴んで、身体を前に進ませる。

『絶対に、諦めないで』
「…努力する」

 縋るような声に小さく返してぱたんと携帯を閉じた。
 ああ、恭弥って俺のこと分かってるんだな。もうとっくに諦めて生きていた俺のこと、よく分かってる。だからいつも泣きそうだった。
 無表情で涼しい顔をしてるくせに、いつも俺に乞うように求めてくる。表情はないことが多かったけど、だいたい泣きそうなことが多かった。俺が仕事で平気で人を抱くから、男も女も平気で抱くから、その度に傷ついていた。一匹狼で喧嘩が好きなんだと聞いていたけど、その実、恭弥は寂しくて仕方のない男だったのかもしれない。
 別に、満たしてやろうなんて思って抱いたわけじゃない。気紛れだ。恭弥はきれいな顔をしてたし、抱けばどんな声で鳴くのか少し興味が湧いたし。だから抱いただけだ。
 まぁ、そうだな。かわいかったかな。男だけど。女だったなら、そうだな。どうだろう。どっちでもあんまり変わらない気がするな。
 ずり、とアスファルトを片足が擦る。ライトの明かりを後ろの方に感じた。がらがらがらと引き開けられるシャッターの音と、少し騒いだ声。恐らく俺の血痕を見つけたんだろう。近いぞ、なんて声を聞きながら足を引きずって歩く。目の前には海がある。最悪、ここへ飛び込むしかない。
 恭弥に努力すると言った手前、諦めて死ぬわけにはいかない。捕まってやるわけにもいかない。最後まで逃亡ってやつを続けよう。
 追いかけてくる足音と、闇を切り裂くライトの光を腕が掠った。振り返らずに一歩踏み出す。ざぱあんと防波堤にぶつかって飛沫を上げる黒い海は、闇そのものだった。
 あまり恐怖はない。もともとそういうものを感じる心っていうのが俺には欠けていたらしい。だから、ここへ落ちるのも怖くはない。
 目を閉じる。
 できれば生き残って。そうだな。生き残って、そうしたら、恭弥に、
(何を、伝えようかな)
 海に落ちた。その辺りは憶えている。波に呑まれた。その辺りも憶えてる。そこから先はかなり曖昧だ。俺を追って海に飛び込むような奴はいなかった、ことぐらいは分かるけど、その先はあまり憶えてない。
 それでも助かったのだから、俺は運がよかったらしい。悪運、かもしれないけど。
 ぼんやりした頭でそんなことを考えて瞼を押し上げる。見えるのは目覚めたときと同じ、和風の天井だ。視線をずらすと襖、畳が見えて、敷かれた布団に寝ている自分がいる。
 試しに起き上がってみる。腿が痛かった。着物なんて着ている自分を見下ろして袖を無意味に揺らす。こういうのはきれいな女が着た方が似合う気もするけど、まぁいいか。裾をめくってみると腿はきちっと手当てされていた。素人の手ではない。ということは、医者か。なら、ここは病院だろうか。それっぽくないけどな。だいたい和風の病院なんて聞いたこともない。
 足は相変わらず動かない。どうやらこれ以上起き上がることは無理だと判断して、のろりとした動作で裾を戻した。誰かいないものだろうか、と思って視線を上げたときからりと襖が開いて、人が現れる。恭弥だった。疲れた顔をしていた恭弥は俺と目が合うと持っていた書類をばさりと取り落とした。信じられないとばかりに目を見開いている姿に首を傾げる。

「恭弥」
「…起きた、の」
「今起きた」

 落とした書類を拾い上げた恭弥も着物姿だった。ということは、ここはどうやら恭弥の家らしい。いつもスーツ姿しか見てなかったけど、雲雀恭弥って名前に和風は似合っていた。俺とは大違いだ。
 震えている恭弥の手が最後の書類を拾い上げる。たん、と襖を閉じた恭弥はそのまま動かない。
 海に落ちた俺を助けてくれたのは恭弥だろう。俺をどうにかしようとしてた連中を片付けたのも恭弥だろう。その書類は、後始末とかその辺りのものだろう。
 恭弥も物好きだな、と考えて、まぁいいかと思考を流した。確認のために「恭弥」「何」「ありがとう」「…別に」ようやくこっちに向き直った恭弥の視線は俯きがちだ。布団の横に腰を下ろすと書類を脇に置いて、俺の目を見ようとはしない。

「足は痛む?」
「少しは」
「ちゃんと手当てさせたつもりだけど、ひどくなったりしたら言ってね」
「うん」

 手を伸ばす。俯き加減の恭弥の髪を指で揺らした。膝の上でぐっと強く拳を握り締めた恭弥が「あなたが、死んだかと思ったよ」と小さな声をこぼすから俺は笑う。うん、そのつもりだった。少なくとも恭弥に電話しなければ、俺はあのまま見つかるのを待って生き残る努力をしようとしなかった。それだけは確かだ。
 さらり、と黒い髪を揺らして「恭弥」と呼ぶ。灰色の瞳がようやく俺を見た。ああ泣きそうだな、と思う。畳に手をついて身を乗り出すようにして恭弥に顔を近づけてキスをした。きつく握られている拳にもう片方の掌を重ねる。
 誰でもよかった。きっとそうだった。男でも女でも構わない。抱けるなら、もうそれでいい。そんなどうしようもない人間でしかないのだと俺は自分を諦めていた。
 でも、そうだな。こんなに辛抱強く俺のことを思って、想って、追いかけて、おまけに助けて。俺がいないと泣きそうな奴のために、いい加減、この節操なしも改めるべきかな。
 恭弥ならいいかと思えた。だから、俺はそうしよう。そうなろう。
 どこか耐えるように目を閉じている恭弥の唇を舐める。「恭弥」と甘く囁いて緩くなった拳に指を絡ませ解きほぐしていく。持ち上がった瞼の向こうの瞳は潤んでいた。前髪をかき上げてキスを施して「恭弥」と囁く。恐らく我慢していたんだろうけど、恭弥は崩れた。俺の首に腕を回して噛み付くようにキスをしてくる。それに応える。恭弥を抱き締めてどさっと背中から布団に倒れ込んだ。ちょっと腿が痛いけど、この際それは気にしない。
 上から下へ、恭弥の味が一方的に流れ込んでくる。それを飲み干す。舌を絡める。片方の手は指を絡ませてきつく握り合ったまま、もう片方の手で恭弥の腰から背中をなぞる。煽れば煽るだけ恭弥は緩んでいく。
 銀糸を引きながら離れた唇と、俺の頬を撫でた掌。泣き出しそうなその顔を見つめながら「恭弥」と呼ぶ。なるべく優しく、愛ってやつを込められるよう思いながら。

「俺は財産とかないんだ。お礼にあげられるもの、あんまりないよ」
「別にいらない。そんなものがほしくてあなたを助けたわけじゃない」
「じゃあどうして助けたの」
「…僕には、あなたが、必要だから。あなたは、そうじゃないかもしれないけど」

 そうこぼした恭弥は苦しそうだった。ああ、俺のこと本当に、どうしようもないくらい愛してるんだな、と思うには十分だった。
 今までどれだけ傷つけて苦しめてきただろう。恭弥がやろうと思えば俺なんか殺すこと簡単だったろう。それをしないで俺を求め続けた恭弥は、その辺にいる女よりずっと従順で、かわいげがあって、とても愚かだ。
 手を伸ばして恭弥の頬を撫でる。「あげられるものは少ないんだけど。恭弥がほしいものをあげる」「…僕がほしいもの?」「そ。俺」頬を撫でていた恭弥の手がぴたりと止まった。「一晩だけって意味なら、」「そうじゃない。ずっと、一生、この先の俺の人生分、全部恭弥にあげる」顔を寄せて囁くと、恭弥が耳を塞いだ。片手は逃がさないまま握り締めて、嘘だと言いたそうに首を振る恭弥に困ったなと笑う。今まで無下に扱いすぎたかな。節操なしの俺が一所にいるなんて恭弥は信じてくれないだろうか。でも信じてもらわないと。俺はこれから恭弥以外を忘れるのだから。
 子供みたいに癇癪を起こして手を振り払おうとする恭弥を離さず、背中に腕を回して強く抱き寄せた。今までこんなふうにしたことはなかった。恭弥が求めてくることばっかりだったから、こんなふうに無理に抱いたことはなかった。「恭弥」と囁くと「嘘だっ」と声を荒げた恭弥が俺の腕から抜け出そうともがく。
 強く抱き締めて、「恭弥」と呼ぶ。今まで誰にも言ったことのなかった言葉を最初で最後の相手に伝える。
「愛してる」
 ぴたりと恭弥が暴れるのをやめた。は、と息を乱して俺を見つめる灰色の瞳に微笑みかける。営業スマイル以外の笑顔を努力して。恭弥だけに向ける笑顔というものを努力して。
 震える手が俺の頬に触れて、確かめるように、ゆっくり肌を滑っていく。

「あい、してる?」
「うん」
「嘘だ」
「どうして」
「あなたは誰にも愛なんて囁かない」
「うん、そうだった。今までは」
「…これからは違うっていうの」
「言ったよ。俺はこれから恭弥しか見ない。いい加減節操なしは卒業するよ。それが俺を愛してるお前への答え」

 笑いかけたら、恭弥は逆に泣いた。俺の胸に顔を埋めて身体を震わせて泣いた。
 あやすようにその背中を撫でながら、「愛してるよ恭弥」と囁く。「ずっと愛するよ恭弥」と口にする。言の葉にのせて愛を囁く。それから、謝罪もしておく。「たくさん傷つけてごめん」と。
 顔を上げた恭弥は泣きながら笑った。唇を歪める笑い方ではなくて、それはきれいな、月みたいにささやかな笑顔で、「そんな簡単に許すわけがない」と震える声で笑う。
 うん、それはそうだ。
 本当に許してもらえるまで、俺は恭弥に謝って、愛そう。恭弥が望むままそばにいて、満足するまで夜を重ねて、身体を重ねて、愛を重ねて、いつか許してもらおう。いつか、恭弥が泣かないで、ちゃんと笑えるようになるまで。

生きてみようか
(これからは、ただ、君のためだけに)