落ちる、堕ちる、おちる

 一戦余分に戦うことになった。それは別に構わない。雲戦があっさりすぎたし、あのザンザスって奴は本気で僕とやろうとしなかった。その苛々を次の戦いでぶつけられるのなら別にそれで構わない。
 不可抗力だったけど、左腿に火傷みたいな怪我をした。少し掠った程度だ。慣れればそう痛くもない。だけど彼が手当てするってうるさいし、蒼い瞳のまっすぐさに、僕は負けた。
 どうして膝とかじゃなかったんだろう。どうして腿だったんだろう。怪我をするにしてももう少しマシなところがよかった。
 ベッドに座って、着物の裾をめくり上げて、血の止まった傷を彼が診ている。顔を逸らしてるけど熱い。早く終わらないだろうか。いつまでもそんな場所触ってないでほしい。背中が疼くから。
「痛くない? キョーヤ」
「もう痛くない」
 彼の声に突き放すようにそう返すと、腿を撫でられた。背筋に走るぞくぞくとした昂揚感に似たものに、心臓が騒ぎ出す。どくんどくんとうるさく鼓動する。
 せっかく落ち着くよう努めてたのに、無理だった。
 腿を撫でられただけでこれだ。他の場所に触れられたら僕はどうなってしまうんだろう。心臓が壊れてしまうんじゃないだろうか。熱くて苦しくて身体が壊れてしまうんじゃないだろうか。
 そのくせ、もっと触れてほしいなんて、どうして願っているんだろう。
 くるくると腿に包帯を巻いた手が僕から離れた。ぱたんと救急箱を閉じて「大丈夫だと思う。明日は少し響くかもしれないけど、キョーヤなら…?」手を伸ばして救急箱を払いのけた僕に、彼が首を傾げた。ごとんとベッドから救急箱が転がり落ちる。
 このまま。放置する気なんだろうか。僕を。この熱い身体を。苦しい胸を。騒ぐ心臓を。
 触れてほしいと願うのは、僕が病気にかかっているからなのか。彼に対してだけ発症するこの病名は一体なんだろう。
「ご褒美が、まだ」
 そう訴えると彼がきょとんとした顔をする。まさか忘れたのかこの人はと蒼い瞳を睨みつけると、彼が笑う。優しい笑顔でベッドに手をついて僕の身体を引き寄せてキスをする。求めて、彼の唇を貪る。どぼんと彼の海に落ちて、望んで溺れ、彼の海で肺を満たし、身体を満たし、僕はどんどん沈んでいく。
 腿が少しびりっと痛んだ。僕の足の間に彼が膝をついたからだ。触れた肌が少しだけ響いた。でも無視した。唾液が顎を伝って息が苦しくなってきてもずっとキスしていた。そのうちどさりと背中からベッドに倒れて、押し倒されたのだと気付いた。
 ちゅ、と音を残して離れた唇にげほと咳き込む。
 胸が苦しい。彼で埋めたい。身体が火照っている。どうにかしてほしい。騒ぐ心臓を彼で鎮めたい。
 僕の上で彼は黙っている。蒼い瞳で僕を見つめて退こうとしない。
 僕も、退いてほしくない。
 伸びた手が腿を撫でた。怪我をしていない方、右側。彼の掌に背筋が粟立つ。もっと触れてほしいと求める。これ以上触れられたら僕は壊れてしまうと思うのに、望んでいる。

 僕は、壊れたい。

「キョーヤ。どうしよう」
「…何が」
「キョーヤのことがすごくかわいくて、食べちゃいたいと思った」
 冗談の欠片もない瞳が僕を見ている。彼の目は本気だ。この僕がかわいいと思っているらしい。並盛を裏から取り仕切る風紀委員長であるこの僕を、かわいいと。食べてしまいたいと。
 彼の掌がまた僕の腿を撫でる。
 これは、群れる以上の行為だ。自分が信じられない。性別的に僕は男であるはずだし、彼も同じ男のはずなんだけど、性別を超えた何かというのは世の中に存在したようだ。男と女しか結ばれないっていうのはよくない。その定義に僕らは当てはまらないから。
 胸に降ってきた口付けに抵抗できなかった。殴ろうと思えば彼の頭を殴ることはできたし、蹴り飛ばすことも簡単だった。だけどそうしなかった。鎖骨をなぞる舌のぬるい温度にぞくぞくと背筋が粟立つ。着物の襟にかけられた手を払いのけることができない。
 拒絶すれば、彼はやめてくれるのだろう。少し寂しそうに笑ってごめんねなんて言って僕の上から退くのだろう。
 胸の突起に触れた指先にびくと身体が震えた。他人に触れられたのは初めてだった。痛みとも呼べない鋭敏さが身体を刺激する。すごくうずうずする。これはなんだろう。
「キョーヤ」
 彼の声が僕を呼ぶ。優しい声で僕を呼ぶ。蒼い瞳をやわらげて、僕を見て、キスをして、帯を解いて、着物がはだける。抵抗できない。したくもない。鎖骨から肋骨へ、だんだんと下りていく口付けに身体がむずむずする。
「ん…っ」
 自分でもそう触らない場所に彼の指が触れた。今までで一番身体が熱くなる。お風呂でのぼせたくらいに火照っている。脱水症状でも起こしそうだ。
「キョーヤ」
…」
 ぼんやり彼の名前を呼び返す。笑った彼に口付けられる。手を伸ばして彼の首に腕を回し、彼に触れられて疼く下半身を誤魔化すようにキスをする。
 明日が今後の未来を左右する日なんだとか、大事な戦いの前なんだとか、そんなこと忘れていた。
 必死だった。彼の海に溺れて、苦しくて苦しくて。溺れて沈んだ僕を支配する水は僕の内臓も意識も全てを蹂躙した。
 彼なしでは僕はもう駄目だ。この海の中でしか、僕はもう無理だ。僕は人じゃなく魚にでもなってしまったんだ。だからもう地上には上がれない。彼の海にいないと、僕は、死んでしまう。
「……、」
 次に気がついたとき、黒いシーツが見えた。ぼんやりした意識で視線を巡らせると、自分の部屋で、時計が見えた。九時十四分。だいぶ、寝過ごした。
 起き上がろうとして異様にすーすーすることに気付いて視線を落とすと、自分が何も着ていないのに気付いた。ばっと布団を頭まで被ってぐるぐるする頭で気を失う前のことをどうにか思い出そうとする。
 僕は裸で何をしてたんだ。思い出す記憶は、どうして断片的なんだろう。
 かわいいねキョーヤ、と笑った声を思い出す。触れ合った肌を思い出す。キスしたことを思い出す。キス以上をしたことも思い出す。
 セックスって、男女でしかできないものだと思っていた。僕は何も知らなかった。だって興味がなかったから。
「う…」
 恥ずかしさで顔が熱い。布団から出られない。今日はどうしたって外に出なくちゃならないし、戦わないといけないのに。こんなことじゃ普段と同じようにできるのか自信がない。
 こんな自分。知らなかったのに。いなかったはずなのに。
 彼に出会うことで、僕は変わった。それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからない。でも、彼を憎むようなことはできない。この出会いは、きっと運命とかいうやつだから。
「キョーヤ起きた?」
 こん、と扉をノックする音にびくりと身体が震えた。ぎゅっと布団を握り締めて黙っていると、扉が開く音がした。近づいてくる足音にばくばくと心臓がうるさい。「キョーヤ」と降ってくる声に黙していると、そっと布団を撫でた手が「ご飯だよ。起きれたら起きてね」とおよそいつもどおりの声がする。昨日のことなんて、まるでなかったみたいに。
 のそりと布団から顔を出すと、彼がいた。僕と目が合うと「おはよう」と笑う。笑ってキスをくれる。「ご飯か、それかお風呂かな。好きな方でいいよ」「……あなたさ」「うん?」首を傾けた彼に、「初めてじゃなかったでしょう」と言うときょとんとした顔をされた。「そりゃあまぁ」とかさらりと口にする彼の頭をばしっと叩く。「いだ」と漏らした彼が叩いた頭をさすった。僕の腕はぶるぶると震えている。
 僕は初めてだったのに。この人はずるい。
「いや、仕事でだよ。それ以外はないよ。ホントだよ」
「僕のことも仕事でしたわけ」
「違う。それは違うよ、キョーヤ」
 震えてる僕の手を取った彼が膝をついて僕の目線に合わせて屈んだ。「キョーヤがかわいいからだよ」なんて言う相手を睨みつける。
 許しを請うように額に口付けられた。黙ったままでいると頬にもキスされた。唇にもキスされた。ちゅっとリップ音が響く度に鼓膜が刺激されて、気持ちが緩んでいく。
「心から望んで抱いたのは、俺の人生でキョーヤだけだ」
「………」
 そんな恥ずかしい台詞、真顔で、よくもぬけぬけと。聞いてる僕の方が照れてくる。
 ぷいと顔を背けて「シャワー浴びる」とぼやくと彼がほっとしたように頷いた。のそのそ布団を被ったまま引きずって歩く僕に、彼は苦笑いしている。
 だって恥ずかしいものは恥ずかしいじゃないか。顔が熱いんだよ。あなたに見られたくない。今の僕はどうしようもなく弱い。
 シャワーを浴びてから居間に行くと、僕の分の朝食が並べてあった。彼の分がないところを見るにもうすませたようだ。
 努めて平静を装いながら座布団に腰を下ろして朝食を食べ始める。彼は日本語入門書とか書いてある本を難しい顔で睨んでいた。
 そのうち僕の携帯が鳴って出ると、赤ん坊だった。『よお雲雀』「赤ん坊。君、どうして僕の番号知ってるのさ」『まぁ細かいことは気にすんな。はいるか?』「…いるけど」『ちょい代われ』三秒くらい考えてから仕方なく彼に携帯を突き出す。本から視線を上げた彼が「どしたの」「赤ん坊から」「え、リボーン?」携帯を受け取った彼は神妙な面持ちだ。
「俺だけど。リボーン?」
 黙々と朝食を食べている僕の前で彼は首を傾けた。これは僕にではなく携帯の向こうの赤ん坊に対してだろう。
「え? うん、大丈夫。連れてくよ。……うん。九代目の容体は? …うん。うん。そっか、ディーノには感謝だね。今回のことでキャバッローネには頭が上がらないよ、本当」
 苦笑いした彼を横目にしつつきんぴらを食べる。少し油が気になる。もうちょっとさっぱりした仕上がりの方が僕は好きだ。
「はいはいわかってますー。報告ありがとうリボーン。また夜に」
 ぴ、と通話を切った彼が「ありがとうキョーヤ」と僕に携帯を差し出した。受け取ってテーブルに置く。
「ねぇ」
「うん?」
「少し油っこい。次からはもう少し控えて」
「あれ、そっか。りょーかい憶えとく」
 頷いた彼が日本語入門書の方に視線を落とす。真剣な顔で入門書を睨んでる茶髪に蒼の瞳の外人は、そうは見ない。
 朝食を平らげて「紅茶はないの」と訊くと彼が顔を上げた。「淹れる?」こくりと頷くと彼が立ち上がる。およそいつもどおりの彼に、ようやく僕も落ち着いてきた。慣れた手つきでやかんでお湯を沸かし、ポットに茶葉を入れて、カップが二つ用意される。そんな彼をぼんやり見つめながら自分の鎖骨に触れた。制服を着たら隠れるところに彼は噛み跡を残してくれた。すぐに消えるだろうけど、気になる。
 消えればいいのにとさすっていると、彼が戻ってきた。ぱっと手を離す。なんとなく気恥ずかしい。
 ことりと砂時計が逆さになり、彼の瞳と同じ色の砂がさらさらと落ち始めた。
 かちん、と一つ居間の針が時間を刻む。
「キョーヤ」
 呼ばれて、砂時計から視線を移すと、彼が笑っている。なんだか変な顔だ。ふにゃっと気の抜けてるっていうか。何その顔。なんかムカつく。
「なんか幸せだよ。初めてだ」
 ずるずる姿勢を崩してテーブルに突っ伏した彼はそんなことを言って一人で笑っている。
(…馬鹿な人)
 幸せだって? 何それ。そんなもの僕は知らない。知るはずもない。幸せなんて言葉、考えたこともない。
 なんとなく鎖骨を指で撫でる。彼は相変わらず笑っている。
 でも、まぁ。あなたが笑っているのならそれでいいかなんて思う僕は、馬鹿なんだろうな。